水原陣屋と戊辰戦争 Suibara Jinya 阿賀野市



水原代官所(陣屋) 水原陣屋と戊辰戦争 萱野右兵衛

新政府は旧幕領を直轄地とするという布告を出し慶応4年(1868)1月25日には北陸道鎮撫使が、これを伝達している。これに対し、旧幕府側も、水原代官所や出雲崎代官所の支配地を、会津・米沢・桑名・高田に預けることとした。
水原代官所支配地およそ6万石の旧幕領を預かったのは会津藩である。同藩はこの命令を1月29日に受け取り、番頭の萱野右兵衛を新領・預所総奉行に任命した。
萱野右兵衛は天保11年(1840)の生まれ、家禄は500石で、この時29歳であった。右兵衛は誠実な性格で、その人となりから部下から慕われていたという。
会津藩は酒屋陣屋での越後諸藩との会談の後、兵力増強が活発となり、2月20日ごろには、勅使に不敬を働く者が無いようにという名目で、大砲組・備組・番頭組・会津藩遊撃隊などを越後に出兵することを各藩に通知した。これによって越後諸藩に圧力を加え、諸藩が新政府に走るのを監視しようとした。(☛ 酒屋陣屋)
3月9日、会津藩の役人が水原町へ到着し、10日には郷村の受領が行われた。
3月12日、総勢500人に及ぶ萱野右兵衛隊が会津を出立する。番頭隊は250名の編成で、組頭は伴百悦であった。3月14日、阿賀野川を船で下って、隊列を組んで水原に入る。(☛ 伴百悦)
水原町の豪農市島宗家市島徳次郎や豪商角市市島家市島次郎吉、本泉家佐藤伊右衛門、中泉家佐藤友右衛門など主立の出迎えを受ける。萱野は、奉行として町民に強圧的な政策はとらず、住民の意見を聞いて政を行うと話したことで、水原の人々は萱野の誠実な人柄に感激し、市島徳次郎は、宗家別邸の継志園を会津藩の本営にと、進んで協力を申し出ている。(☛ 市島家)
以後、御蔵入役所・郡役所・御用部屋役所・武具役所・目付方などの役所を設置した。ついで、会津藩水原陣屋は、年貢納入・倹約・村内親睦などについての村方心得を出し、閏4月には、この年の分の年貢を3割減免すると布達した。
3月15日、会津藩の秋月悌次郎は、藩の軍事編成の一環として、現在の役職会津藩公用方のまま、越後の新領蒲原、魚沼両郡にわたる11万3000石詰め勤務を命じられ、16日幌役(参謀役)に任命された。秋月は、越後口総督の一瀬要人に従い、これを補佐するため、越後口の本営が置かれていた水原に赴き、密に、旧知の仲であった長岡藩の河井継之助などと面会し、越後各藩との連携を探り、事態の打開を図っている。また、食料や武器弾薬が越後から会津藩へ滞りなく送られるよう手配するなど、裏方として尽力している。
この後、3月末から4月にかけて、様々な部隊が水原に到着する。中には、無頼の徒の集団のような部隊も到着した。街中を横行し、金銭や米穀を強奪した。
3月27日、幕府陸軍で歩兵差図役頭取であった古屋佐久左衛門と元京都見廻組の今井信郎に率いられた衝鋒隊が町に到着する。衝鋒隊の隊員の中には傭兵や志願兵がいて、無頼の徒も混じっていた。町内の宿や料理屋で騒動を起こしたことから、萱野は厳重な抗議を行い、事態を鎮静化させた。3月30日、衝鋒隊は幕府陸軍局の名で、金屋村五十嵐甚蔵・金子新田白勢長兵衛・村松浜平野安之丞・篭田村星野求五郎など、旧幕領の富裕者15名を水原に呼び出し、軍費の調達を要請した。これに対して、酒屋町の会津藩陣屋ではそのような要求に応ずるには及ばず、酒屋陣屋へ注進せよと達した。衝鋒隊は新潟町へ移動を開始する一方で、この日、今井信郎に率いられた50人余が新発田城下に現れ、軍資金の供出を求めている。新発田藩は1000両の資金を提供している。(☛ 衝鋒隊)
3月29日、市川三左衛門に率いられた水戸藩脱走兵からなる諸生党が水原に入り、9日間滞在し、新潟町へ向かう。(☛ 出雲崎陣屋と戊辰戦争)

市川勢 (諸生党)

水戸藩佐幕派の一派は、改革派に城を奪われ、一戦するより、会津に行き、共に幕府再興を目指すことに決した。
慶応4年3月10日夜、総勢500人余の一行は、水戸を後にした。一隊の大将は市川三左衛門、ほかに朝比奈弥太郎、大森弥三左衛門、佐藤図書、筧助太夫の4人の家老が副将格となり、それぞれの下に部隊を編成した。
3月17日に会津藩領内に入る勢至堂峠の関所で足止めされた。この時、会津藩は朝廷に対して謝罪の嘆願を行っている最中であった。一方、市川勢に対しては朝廷から、水戸藩の改革派に討伐の勅命が出ていた。会津藩としては、市川勢を城下に招き入れることはできず、藩領内の通行することのみを許した。
市川勢は、会津藩の指示に従って、会津坂下に向かい、3月21日到着宿泊した。会津藩は佐川官兵衛を差し向け、藩の非礼を詫び、藩の事情を話し理解を求めるとともに、道案内と1000両の資金の提供を申し出、越後の水原陣屋へ行くことを勧める。
水原陣屋には、越後口総督一ノ瀬要人と秋月悌次郎が駐在して、越後方面の会津藩の司令塔的場所となっていた。
また、間者が領内にいる可能性があるので、市川勢と悟られぬよう偽名を名乗ることを求めた。市川は、全員は無理なので、家老級の幹部だけ偽名とすることだけで了解した。
3月29日、市川勢は水原に入り、9日間滞在し、これまで全く知識に乏しかった越後の緊迫する情勢を聞いた。
市川勢500人は水原の宿などに分宿したが、費用は会津藩が負担したとされる。また水戸を脱出する際、軍資金を持ち出してきており、先に到着した幕府歩兵衝鋒隊のように町民を脅し、金を奪うような坊弱無人なふるまいは行わず、武家らしい対応を行ったとされる。
4月8日、市川隊は新潟町に到着する。新潟町は当時反薩長を標榜する佐幕派の有象無象の人間が集まる拠点となっていた。
この後、幕府の剣術師範坂本平弥に率いられ、銃火器など満足に持たず反薩長を主張する集団の遊撃隊200余が水原入り込み、市中で婦女子を辱める行為を行った。町民の会津藩に対する反感が強まることを恐れ、萱野隊組頭の伴百悦と中沢志津馬が兵百余を連れて坂本の宿舎に押しかけ、詰問に及んだ。この夜の談判によって遊撃隊は会津藩と共同訓練に励むことになるが、刀槍の経験はあったものの、銃砲の扱いは全く未熟だった。小銃を持っているものも少なかったため、水原陣屋からや新発田藩を脅して提供させた二百挺余の銃と弾薬を貸与しなければならなかった。
坂本は、5月10日郷宿加賀屋で酒を飲み酩酊している所を、会津藩士衝鋒隊軍監大庭恭平によって斬殺された。享年28歳。この後、遊撃隊は分解、新遊撃隊を編成し会津軍の一翼を担うこととなった。

4月18日、萱野の率いる部隊は、出湯町賽の河原で、大小砲の軍事訓練を行った。見物人が群集したという。(☛ 賽の河原)
閏4月24日、佐川官兵衛が精鋭朱雀四番士中隊を率いて水原に入る。未だに態度を決めない新発田藩が反会津の行動をとったときに対応することを目的としていた。(☛ 佐川官兵衛)
閏4月28日、村松藩士稲毛源之右衛門が水原の本営に来て、秋月悌次郎や萱野右兵衛と面会し情勢を話し合っている。
5月1日、萱野右兵衛は陣屋の事務は郡奉行等に託し、番頭隊を編成替えして鎮将隊など約300人が出陣した。榎峠の戦い、朝日山の戦い、与板口の戦いなどを転戦する。
5月17日から19日にかけては、米沢藩中条隊、色部隊などの大軍が相ついで、領内分田宿の渡し場から阿賀野川を渡って宿営地新津へ入っていった。
5月22日の加茂軍議で、萱野隊は、与板口攻撃の主力として配置された。(☛ 与板藩の戊辰戦争)
6月20日、与板口で膠着状態が続いたことから、萱野隊は、あとを朱雀四番足軽隊に引き継ぎ、一旦水原に戻ることとした。6月24日、水原に到着。町役人や市島徳次郎ら有力町衆が喜んで出迎え、あたかも戦勝凱旋パレードのようであったという。
萱野は、鎮将隊を一旦解散し、一部将兵を会津に戻している。
7月24日から3日間、三条町の東本願寺で、戦死者の追善供養弔が行われたが、萱野右兵衛は藩主の名代として出席している。終了後、会津藩酒屋陣屋に向かう。7月25日夜半、萱野右兵衛は陣屋で新発田藩の裏切りと、新政府軍の太夫浜上陸の報せを受け取った。
7月26日昼頃水原町に戻ると、すぐさま防戦の準備に取り掛かった。新発田藩が裏切れば、真っ先に水原に攻撃を掛けるのは見えていた。水原で萱野隊を編成するが陣屋の小者まで入れても150人に満たない人数であった。右兵衛は新発田城下から水原に入る本道の要衝笹岡村に30名の兵士を派兵し、新政府軍の侵攻に備えた。
26日深夜12時頃、新政府軍は水原町への本道を進む笹岡口方面軍と、福島潟沿いに進む水原口方面軍とにわかれて出撃した。その編成は笹岡口が、新発田藩兵一小隊を先鋒に長州奇兵隊五番隊一小隊・徴兵五番隊一小隊・薩摩藩砲二門で、水原口が新発田藩兵一小隊を先鋒に芸州一小隊・明石一小隊・薩摩二番遊撃隊・薩摩藩砲一門であった。(☛ 新発田藩の戊辰戦争)
萱野右兵衛は一隊を市島家別邸継志園に布陣し、新政府軍に備えた。継志園には防護の施設は備わっておらず、圧倒的兵力差で攻撃が始まると、会津藩兵は太刀打ちできず、建物を焼き払い、弾薬・糧食を放棄し、民家に火を放ちながら保田方面に敗走した。新政府軍はやすやすと水原村に入り、角市市島家に本営を置いた。
笹岡村に向かった新政府軍一隊は、光円寺に布陣した30名ほどの会津藩兵と交戦し敗走させている。この戦いで光円寺は焼失した。会津藩兵の多くは、赤坂方面へ逃走したが、一部は出湯村の五頭山などに籠って抵抗する者もいた。これに対しては、新発田藩兵が攻撃し敗走させている。
7月28日、新政府軍が保田方面に進軍すると、右兵衛は赤坂山を本営として、峻嶮な地形を利用し、胸壁を築くなど、防御に備えた。8月1日、萱野に率いられた一隊は赤坂山で、新政府軍と激戦となり、敗れて会津領石間に撤退する。その後、各地を転戦した。戦後、萱野は高田で謹慎となり、若年寄格として新政府や高田藩との交渉に尽力している。謹慎が解かれた後は、斗南藩には移住せず、身分を捨て会津に残ったという。(☛ 会津降人&会津墓地)

7月29日、水原町に入った新政府軍は、会津藩水原陣屋に民政局を開設した。総指揮は長州藩小笠原弥右衛門が任命された。
8月に入ると、会津藩に協力していた市島徳次郎や白勢長兵衛は、進んで米や協力金の献納を申し出ている。市島徳次郎と白勢長兵衛は各米1000俵と資金3000両、佐藤伊右衛門と佐藤友右衛門は各1000両を献上した。この功によって、市島徳次郎・白勢長兵衛・佐藤伊右衛門・佐藤友右衛門は名字帯刀を許されている。

坂本平弥の墓

〔所在地〕新潟県阿賀野市北本町4−41 長楽寺
遊撃隊隊長で、慶応4年年5月3日大庭恭平によって斬殺される。


萱野右兵衛












新潟県内の戊辰戦争(北越戊辰戦争)史跡 Boshin War historic spot and Museum in Niigata


市島徳次郎





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水原奉行所(水原陣屋) 継志園(市島家別邸) 光円寺 賽の河原 本泉家(佐藤伊右衛門)屋敷跡 角市市島家(市島次郎吉)屋敷跡地 市島宗家(市島徳次郎)屋敷跡地 加賀屋(郷宿)跡地 中泉家(佐藤友右衛門)屋敷跡地