佐川官兵衛 Kanbei Sagawa




天保2年(1831)9月5日〔生〕- 明治10年(1877)3月18日 (45歳没)〔没〕

会津藩士・佐川幸右衛門(直道)(家禄は300石)の子として生まれた。(※地図 ※ストリートビュー)
安政年間(1854-60)、江戸詰めの火消頭をしていた時、火事場から定火消の旗本と鉢合わせ喧嘩で相手を切り殺してしまった。普通なら喧嘩両成敗で死罪となるところであったが、会津藩江戸家老の計らいで若松で謹慎生活を送ることとなった。また家禄を300石から200石に減らされた。
謹慎から1年ほどして、町野源之助の姉おふさと結婚する。しかし、この結婚生活は1年と続かなかった。お互い勝気な性格で、結局なじむことができず、離縁状をだし、おふさは実家に戻った。
源之助は官兵衛のとった離縁の行動の意図がわからず、溝口派一刀流の道場で官兵衛から稽古をつけてもらったこともあったが次第に疎遠となった。
8年近くに及ぶ謹慎生活の中で、官兵衛は自己の性格を振り返る機会をえたという。以前は、猪突猛進で相手と衝突することも多々あったが、謹慎を経験し、一歩下がって事態を俯瞰し、相手を引き込むだけの余裕ができたという。懐が広がったことで部下は官兵衛に全幅の信頼を置いたという。後に会津藩山川大蔵は「佐川の人望は薩摩における西郷のようだ」と語っている。

(鳥羽伏見の戦い)

文久2年(1862)には藩主・松平容保が京都守護職となると、官兵衛は謹慎を解かれたうえ上洛し京都守護邸に設けた京都日新館の学校奉行に任じられた。学生によって編成された別撰組隊長となる。
この京都詰めの間に、二度目の結婚をする。藩士の娘おかつで、のち、籠城戦などで体を壊し労咳となり明治2年(1869)に亡くなっている。
慶応4年(1868)1月、鳥羽伏見の戦いで、薩長と戦った際は、林砲兵隊に協力し奮戦。官兵衛は伏見で薩摩兵と衝突し、刀が折れて銃弾により右眉の上を負傷したにもかかわらず、平然と指揮を執っていたことから「鬼官兵衛」とも呼ばれ、薩長の兵隊から恐れられたという。(※地図 ※ストリートビュー)
3月中旬、 会津藩は新政府軍の侵攻に備えて、総督として白河口に西郷頼母、日光口に大鳥圭介、越後口に若年寄から家老に引き揚げられたばかりの一瀬要人を配した。官兵衛は越後口に出陣することとなった。
3月17日に市川三左衛門に率いられ、幕府再興のため会津に向かった水戸藩諸生党500人余が、会津藩領内に入る勢至堂峠の関所で足止めされた。この時、会津藩は朝廷に対して謝罪の嘆願を行っている最中であった。一方、市川勢に対しては朝廷から、水戸藩の改革派に討伐の勅命が出ていた。会津藩としては、市川勢を城下に招き入れることはできず、藩領内の通行することのみを許した。 市川勢は、会津藩の指示に従って、会津坂下に向かい、3月21日到着宿泊した。 佐川官兵衛は会津坂下に出向き、藩に代わってその非礼を詫び、藩の事情を話し理解を求めるとともに、道案内と1000両の資金の提供を申し出、越後の水原陣屋へ行くことを勧めた。 諸生党は越後での戦いでは最後まで会津藩に協力し行動を共にした。会津藩兵が会津へ撤退し、会津城下に戦いの場が移った後も、佐川官兵衛に協力し、若松城落城まで戦い続けている。

(越後での戦い)

閏4月19日、佐川官兵衛は精鋭の朱雀士中四番隊中隊頭として朱雀四番士中隊100名を従えて越後水原に出陣する。越後国内で新政府寄りと見られていた新発田藩を牽制し、万が一の場合の対応のためであった。
閏4月24日、会津領水原の本陣(市島家邸宅継志園)に入る。新政府軍が小千谷に迫るという報を聞き、急ぎ小千谷方面に出撃する。
閏4月26日、見附に入る。天候が悪く、行軍に難渋したため、1泊する。ここで小出島の敗北と、官軍による小千谷占領を聞く。
この時小千谷陣屋にいた一瀬要人は一戦も戦うことなく、陣屋を新政府軍に明け渡してしまった。この件で、一瀬は藩士たちの信を失うこととなり、また雪峠で戦った衝鋒隊と確執が生じ越後口の差配は実質的に佐川が揮うこととなった。
小千谷進出をあきらめた官兵衛は兵400を率い、まだ態度をはっきりさせない長岡藩の説得のため、長岡藩本陣のある摂田屋に向かうこととした。
閏4月28日朝五ツ時頃、官兵衛率いる会津藩兵は長岡渡町妙念寺へ到着し、滞陣した。
佐川は長岡藩河井継之助に会談を申し込み、28日長岡藩の野戦本営を置いた摂田屋光福寺を訪ね、継之助と会談をおこない、奥羽列藩同盟への参加を強く申し入れを行った。
一方、継之助は、大きな戦略・施策もなく、朝廷を利用する薩長憎しの怨恨から、会津弁で奥羽列藩同盟に参加するようまくしたてる武骨そのものの佐川が苦手であった。
秘策を持つ継之助は自藩の中立政策を説明し、同盟参加を否定した。「長岡藩は、他藩の人間に一歩も長岡領の土地を踏ませない覚悟である。早々に立ち去ってくれ」との継之助の強硬な姿勢に、官兵衛は一旦引き下がる。
29日になって、佐川は兵を連れて、長岡藩に接する与板藩領に移動し与板城下に分宿する。5月2日、小千谷近郊の片貝に進出して、兵を展開させる。会津兵の動きを察知した新政府軍と交戦し、緒戦は有利に展開したが、小千谷から応援部隊が到着すると、圧倒的な兵力差によって、与板まで後退した。(☛ 片貝の戦い)
5月4日、河井が新政府軍の軍監岩村精一郎と慈眼寺で会談を行ったが、思うようにいかなかったという情報を得て、再度摂田屋の長岡藩本陣に行き、継之助に面談した。河井は嘆願を一顧だにしない岩村の不遜な態度に憤然としていた。河井は新政府軍との決戦を決心し列藩同盟への加入を宣言する。5日、会津藩兵は長岡領に入り、軍議に加わった。
5月9日、列藩同盟側では長岡城中に、会津藩総督府越後口総督一瀬要人・佐川官兵衛など、桑名藩家老山脇十左衛門・立見勘三郎など、衝鉾隊古屋佐久衛門が集まり、榎峠を奪還し、新政府軍の進攻に先制攻撃をかける作戦案をまとめた。
5月10日昼四ツ(巳ノ刻)、同盟軍は南境に向かって三国街道を進撃を開始した。一隊は、本道を長岡藩の四小隊と会津藩の朱雀四番士中隊が進んだ。新政府軍は峠を放棄し対岸に撤退した。本道を進んだ一隊を指揮した会津藩佐川官兵衛によって峠は占領された。
この後、佐川官兵衛と桑名の山脇十左衛門が作戦を協議して、浦柄の谷をへだてた前面の朝日山を取る作戦を計画した。朝日山の山頂からは、榎峠を見渡すことができ、ここから砲撃すれば、榎峠を維持することは困難であった。同盟軍は新政府軍に先駆けて山頂を占領し、その後1週間攻防が続いた。同盟軍の主力が榎峠方面に拘束されている間に、新政府軍は信濃川渡河作戦を計画し実行する。(☛ 榎峠・朝日山の戦い)
5月19日、長岡城落城時、佐川隊は朝日山に近い妙見にいたが、栃尾方面に急ぎ撤退した。
5月22日、23日と桑名藩領加茂で軍議が開かれ、会津藩は一瀬総督のもと与板口に出兵することと決められたが、佐川隊は村松藩・米沢藩と共に見附口を担当した。
24日、杉沢村から見附へ進軍を試みるが、散開した新政府軍と交戦となる。同盟軍は、銃器により多数の死傷者を出し、25日加茂に撤退する。(☛ 杉沢・小栗山の戦い)
6月1日、佐川隊は今町の攻略に向かう長岡藩と合流。2日、安田口の戦いに参戦する。官兵衛は、匍匐と突撃を繰り返し、敵の堡塁を次々と攻略したが、これに長岡藩兵も続き、激戦となった。両軍死闘の中、同盟軍が勝利し敗れた新政府軍は撤退した。機を伺って突撃し切り込みをかける戦い方は、会津軍の得意の戦法であった。特に官兵衛は、京都伏見でも幕府軍が苦戦する中、際立って戦功をあげ、会津藩の中でもこの戦法を特に得意としていた。しかし、会津藩兵にも多くの被害が出た。 当時の銃は薩長が保有する最新式のものでも弾込めに5から6秒の時間が必要だったため、接近戦では銃が役に立たず、抜刀斬り込みが有効であった。特に農兵や町人の兵士が多い奇兵隊は、会津兵の振るう刀の前ではなす術もなく逃げ出したという。(☛ 今町の戦い)
6月8日、今町の戦いで同盟軍が勝利すると、官兵衛は見附にはいる。
6月14日、この日は朝から雨模様となったが、長岡城恢復のための最大の激戦となった。官兵衛の朱雀四番士中隊と長岡兵は新政府軍が築造した大黒村の堡塁に向かった。高田藩小隊が守備していたが、官兵衛の部隊を恐れて、戦いを放棄して遁走した。これを知った薩摩藩兵が救援に向かい戦闘となったが、薩摩側に多くの死傷者を出している。官兵衛は、新政府軍の前線で戦う兵にとっては鬼のように恐れらる存在となっていた。(☛ 長岡口の戦い)
6月27日、会津藩から転陣の命令があり、与板方面に展開していた萱野右兵衛隊が水原に戻ることとなり、佐川官兵衛の朱雀四番士中隊、砲兵隊、青龍三番士中隊と交代することとなった。官兵衛は見附から与板へ移動中、地蔵堂村で町野源之助と邂逅する。源之助は、会津藩に戻っていたが、将来官兵衛を会津に戻したいという容保の意向で、佐川官兵衛を助力すべく、朱雀四番士中隊の中隊頭として派遣されてきた。また容保は、官兵衛に対して、北越における戦功を賞して、若年寄格、軍事奉行頭取に任じている。
河井継之助は、7月20日をもって、長岡城奪還のための八丁沖渡渉作戦を、見附の本営に於いて同盟軍諸藩を集め公表した。天候不順で7月24日に順延されたが、佐川官兵衛は町野源之助を伴って、見附の本営に入る。
長岡兵が八丁沖の渡渉作戦を実行するに合わせて、佐川隊他同盟軍は各所で陽動作戦を行った。佐川は福井口で作戦に参加したが負傷している。※地図
同盟軍の攻撃に、予期していなかった新政府軍は慌てて対応できず一目散で城下から逃れた。同盟軍は長岡城を再奪取したが、この戦いで河井継之助が左脚に銃弾を受けて重傷を負った。官兵衛と継之助は最初、お互いに相手を、自分とは性格の違う受け入れがたい人間と見ていたが、最後は、気心の知れた分かり合える間柄となっていた。二人とも、陽明学を行動の規範としていたことから、お互いの行動が理解できたものと思われる。
また7月29日、長岡城が再落城し、新発田藩が新政府軍に寝返り、新潟が占領されたという報が伝わると、腹背から攻撃を受けることとなり、米沢藩の同盟軍総督千坂は全軍の見附への撤退を命じた。
長岡城再落城の報を三条で聞いた官兵衛は、与板方面で戦闘を続けている同盟軍に撤退を命じた。その後、2日三条五十嵐川の戦いを経て、越後国内を加茂新田、黒水村と転戦を重ね、4日村松城で敗退すると、会津領の石間村に兵を退き、津川口での戦闘を続けた。(五十嵐川の戦い)
8月9日、朱雀四番士中隊の指揮を町野源之助に引き継ぎ会津へ向かう。
8月11日、野沢宿※地図で藩主容保の出迎えを受ける。一千石に加増の上、家老職に任ぜられ、8月14日、容保と共に若松に戻る。

(会津での戦い)

8月21日に大鳥圭介が主将として兵800名で守る母成峠を、薩摩・長州など新政府軍3000名が突破すると、8月23日、会津城下へと殺到した。
滝沢本陣で督戦していた藩主容保は、鶴ヶ城に戻り、容保は佐川官兵衛を城外諸藩兵指揮を任じた。容保は官兵衛の献策を受け入れ、8月28日の深更9ツを期して会津藩の精兵1000人をもって敵陣へ奇襲をかけることになった。官兵衛はその指揮を命じられたが、死中に活を求め一旦出撃したら生きて戻らない覚悟であると述べた。しかし、藩主から下賜された酒を飲みすぎた官兵衛は寝過ごしてしまい、攻撃は夜が明けてからの強襲となって多くの藩士が戦死し失敗した。容保は官兵衛に撤収の命令を出したが、官兵衛は寝過ごしたことが強襲の失敗につながったと以後城に戻らず、城外で遊撃戦を続けた。
9月5日には材木町の秀長寺周辺で、新政府軍を撃退し、遺棄された銃砲・弾薬・食糧・毛布・金円など多数を会津若松城に搬送している(※地図)。城外における諸戦闘において、会津側の唯一の勝利であった。劣勢覆うべくもない中、官兵衛は抗戦を続け、会津藩降伏後もなお大内宿(※地図)方面で戦い続けた。
9月22日、会津藩は降伏し、若松城は開城、新政府軍によって占領された。
9月25日、松平容保の戦闘停止命令の書状が届きようやく戈を収める。官兵衛は、尚も戦闘を続けていた藩士たちに解兵を伝え、大内と田島に集結させた。官兵衛は東京の堀田家佐倉藩邸で謹慎となった。
新政府が会津藩の戦争責任者を追及を行ったとき、官兵衛は、城外諸藩兵指揮の責任者として、一番多く新政府軍兵士の殺害に関与し、又部下の藩士に対しても、作戦命令で多く戦死させたのも自分である。戦争責任者は自分であり、自分を斬首するよう懇願したが、新政府の受け付ける所とはならなかった。会津藩家老・萱野権兵衛が戦争の全責任を負って斬首を命じられた。

(会津戦争後)

明治3年4月17日、江戸品川から船で斗南に向かう。官兵衛は、斗南の辺境の村に住み(※地図 ※ストリートビュー)、中央の政からは遠ざかっていた。斗南は3万石とは名ばかりで、実態は未開の荒地7千石程度で、その日の食料にも事欠くような生活であった。新政府によって、罪人として流罪を言い渡されたような状態であった。
明治4年(1871)7月14日、廃藩置県が実施され、斗南県には官選の知事が派遣されてきた。
官兵衛は斗南県が藩侯との縁が切れたことから、会津に帰ることを決心し、明治6年(1873)5月、官兵衛は若松に戻った。世間と隔絶し、農村で世捨て人同然の暮らしをおくっていた。前藩主容保から「会津の武士道を世に伝えよ」との話があり、新政府の眼を憚って、夜になると、藩士や子弟を密に集めて剣術を教え始めた。官兵衛を慕う若い旧藩士たちの子弟が集まった。
明治6年(1873)西郷隆盛が征韓論に敗れて下野すると、薩摩出身の巡査や軍人も一斉に帰郷してしまう。とくに東京の警察機構は、旧薩摩藩士が多かったので、東京の治安を維持しにくくなってしまった。
明治政府は、失職して職に就けない旧会津藩士に目を付けた。その中で、会津藩の最精鋭部隊を率いて城外を転戦していた猛将中の猛将で、部下からの信望も厚い官兵衛に出仕の打診をした。
官兵衛は最初の内は断っていた。ところが職に就けない旧会津藩士たちが集まって来て『自分たちは、「戊辰戦争の恨み」と「斗南の恨み」がある薩長の下で働くのは嫌だけれど、家族が生活できないので巡査になりたい。自分たちだけでは行く気はしないが、佐川さんが行ってくれるのならいっしょに行く』と懇願した。
明治7(1874)年2月、官兵衛は薩摩の川路利良の要請を受けて、窮乏にあえぐ多くの旧会津藩士たちに何とか生計の途を与えたいと決意し、旧会津藩士300人を引き連れ警視庁に出仕した。官兵衛はこの時、九等大警部に任じられている。
官兵衛にとって、この東京勤務中が最も平穏な時期であった。この間に、3度目の結婚をし一子をもうけて居る。佐川は当初、戊辰戦争時支えてくれたおかつに先立たれ、結婚するつもりはなかったが、佐川家の家名存続のため結婚した。

(西南戦争)

3年後の明治10年(1877)、西南戦争が勃発すると、警視庁から東京警視隊9500人が別働第三旅団として派遣されることになり、官兵衛も豊後口警視隊の一番小隊長兼副指揮長として巡査200人を率いて小倉に上陸。豊後竹田から阿蘇の二重峠(※地図)に進出した薩軍を制圧するため坂梨へ向かった。途中、白水村に滞在する。
阿蘇では一揆が発生し、一揆勢は薩軍を支援し、村人から米を略奪し憎まれていた。官兵衛は部下に一切の略奪、暴行を禁止し、地元の人たちにはいつもにこやかな態度で接したと言われている。戊辰戦争時、新政府軍が会津で略奪の限りを尽くした戦いぶりを目のあたりにしていたことから、官兵衛は庶民の気持ちを理解し、略奪行為はなしてはならぬことと肝に命じていた。
薩軍の有力部隊が坂梨峠に進出している情報をつかみ、上官の檜垣直枝に即時攻撃を進言するが、数日を経て、ようやく官兵衛の出撃策が認められた。しかしすでに敵は堅牢な陣地を築いた後だった。檜垣直枝は土佐藩の郷士で、同じ土佐藩士を殺害したことから文久2年(1862)から明治6年(1873)まで謹慎処分を受けていたので、戊辰戦争での軍隊の指揮経験を全く持たずに、土佐藩士というだけで役にありついた人物であった。
3月18日未明、西郷軍と遭遇し坂梨峠で7時間にわたる死闘を展開。抜刀した佐川隊が薩軍陣地に斬り込みをかけたとき、薩軍の隊長鎌田雄一郎が、官兵衛に一騎打ちを挑んできた。一刀流溝口派の使い手であった官兵衛は、示現流の達人鎌田の一撃必殺の切り込みを左右にさばいてかわし、振り向きざま袈裟懸けで切り下そうとした。その刹那、横合いの藪の中に潜んで様子を伺っていた長野村(現南阿蘇村)農兵長野唀が振りむいた官兵衛に狙いを定め銃撃、官兵衛は胸に2発の銃弾を受け、藪の方を見据えたまま崩れ落ちた。享年47。
長野は村に帰って敵方の隊長佐川を倒したと自慢したが、後に武士同士の一騎打ちを汚したとして非難されている。
峠は薩軍に占領され、多数の援軍が到着しており、圧倒的不利な状況で戦いとなれば戦死することも覚悟していた。官兵衛は出撃の前夜、辞世の句を詠んでいる。
「君がため都の空を打ちいでて 阿蘇山麓に身は露となる」
官兵衛は、かつて戊辰戦争で会津藩に着せられた朝敵という汚名を、いつか晴らしたいという思いを持ち続けていた。ここで、自分が天皇のために死することで、藩主や会津戦争で散った藩士たちの汚名を少しでも返せるという思いがあった。官兵衛はこれを墨書で、肌着に書いて、戦いに臨んだという。
官兵衛が率いた警視隊小隊と、官兵衛が編成し久木野村郷士長野一誠が率いた南郷有隊は、佐川が戦死したと聞くと、総崩れとなって退却した。檜垣直枝が率い二重峠制圧を目指した隊もなすすべもなく敗退し退却している。
官兵衛の最後の様子は、官兵衛に同行した阿蘇有志隊の隊士が藪に潜んで目撃し、伝えられている。なお官兵衛の遺体は、21日川路利良の意を受けて坂梨に到着した警視隊によって発見されている。

余談ではあるが、鎌田は官兵衛との一騎打ちのあった後、大分の竹田に進出するが、5月末第二号警視隊と激戦となり、頭部に重傷を負い鹿児島に後送されその後死亡している。この警視隊には、鳥羽伏見の戦いで佐川の人徳を慕うあまり、朱雀四番士中隊への加入を官兵衛に直談判し、北越戦争に参戦した杉浦佐伯が小隊長二等少警部として加わっていた。杉浦が官兵衛の仇を討った形となった。


墓所

〔所在地〕福島県喜多方市岩月町大都前田252 長福寺

佐川官兵衛顕彰碑

〔所在地〕福島県会津若松市城東町

西南戦争 佐川官兵衛討死之地碑

〔所在地〕熊本県阿蘇郡南阿蘇村河陽5241
















佐川官兵衛

松平容保




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