西郷隆盛 Takamori Saigo 新潟市



🔗西郷吉二郎 五十嵐川の戦い 🔗西園寺公望

西郷隆盛(当時40)は、北陸道軍で作戦を指揮する薩長がたびたび対立し、戦況が思わしくないことを心配した。
薩長均衡の建前で、征討は進められていたが、実質的には長州藩が決定し、薩摩がそれに応ずるという形で進められた。薩摩藩内では長州に牛耳られていることが不満で、薩長確執の原因となっていた。参謀黒田も藩士たちから不満をぶつけられ、苦しい立場に立たされ心労が絶えなかった。
長州藩が先導できる要因は、薩長間で兵力差があり、多くの戦場で、長州兵が多く配置され重要な役割を与えられた。戦場では、兵の多寡が先導争いの勝敗を決めた。
長州軍は、士農工商から多数の兵を集め、奇兵隊を始めとする諸隊から構成される一方で、薩摩軍は藩士中心で、限られた兵数で部隊が構成されていた。
このままでは、会津の征討だけでなく、庄内の征討も長州主導で実行されてしまい、薩摩の立場が薄くなってしまうと、西郷は危惧したものと思われる。
西郷は、薩摩に戻り、人員を募集し、長州兵力を上回る兵を派遣し、奥羽越での戦争の主導権を長州から取り戻し、黒田を助けたいと考えた。
慶応4年(1868)7月23日、薩摩藩北陸出征軍の総差引(司令官)を命ぜられ、8月2日に大型軍艦春日丸で鹿児島を出航し、8月10日、越後柏崎に到着し長岡城落城を聞いた。そして8月11日に約300余人の兵士を率いて新潟に上陸した。

この時、長州の山縣は新津町の大庄屋桂家に本営を置いていた。西郷が新潟に上陸したと聞いて、長駆馬を飛ばして駆け付けた。
西郷は、山縣と面会して開口一番、その労をねぎらったという。一方山縣は西郷が300人もの兵を連れて上陸した真意を知りたいと思っていた。
山縣は、漸く越後征討のめどがつき、これから会津口に向かいたいと考えていたところであり、ここまで征討を主導してきた自負があり、ここで、西郷に主導権を取られたくないという思いがあった。
山縣は、これまで越後国内での戦いで会津藩兵の戦いぶりは理解したので、300人の援兵は必要ないと暗に伝えると、西郷は、山縣の気持ちを推しはかって、増援兵は庄内征討に向かわせると話したという。

8月中旬から約1ヵ月間、松ヶ崎(松浜)の坂井家に陣を構え、薩摩軍の指揮をとった。西郷の弟吉次郎(吉二郎)が北越戦線で戦死した悲報を聞いたのも坂井家だった。
西郷のもとに、新発田城内の新政府軍の本営にいた黒田清隆・吉井友実・山縣有朋たち参謀がたびたび訪れ、今後の東北進軍について相談したと伝わっている。

この後、山縣率いる長州主体の官軍は津川口から会津へ侵攻し、黒田率いる薩摩主体の官軍は庄内へ侵攻することとなる。西郷の思惑通り、米沢藩や庄内藩への出兵は薩摩が主導権を発揮する事となった。また会津藩の攻撃には長州が主導的な役割を果たしたが、薩摩藩兵も加わることとなり、薩摩藩は会津征討でも一定の役割を果たすことができた。

西郷は、会津藩領や庄内藩領に接する新潟で、東北諸藩の情報を収集し情勢判断をしていたと思われる。米沢藩が降伏を申し入れた時には、新発田の総督府から黒田が松浜にいる西郷のもとを訪れ、経過を説明し、対応を相談している。
東北諸藩の列藩同盟内では、8月11日に村上藩が恭順、9月4日に米沢藩が降伏恭順、9月22日に会津藩が降伏恭順、9月26日に庄内藩が降伏恭順するなど征討がほぼ完了した。
西郷が松浜を出発したのは9月9日で、降伏した米沢藩、会津藩、庄内藩を訪れ、戦後処理の対応に当たった。薩摩に戻ったのは11月であった。

北陸道鎮撫総督軍の参謀として山縣狂助(長州)(当時30)と黒田了介(薩摩)(当時27)が任じられた。しかし征討を進めていく中で、薩摩藩と長州藩がことあるごとに対立して、特に長岡で戦線が膠着状態となると、薩長が別々の行動をとるなど、作戦を決定する上で問題があった。
北陸道鎮撫軍総督として、病気の高倉永祐に代わって、若干18歳の西園寺公望が派遣され、5月22日に直江津港に上陸後、越後各地を転戦する。長州や薩摩や官軍諸藩の調整役を期待されていた。公望は新政府において西郷と同格の参与であったが、実戦経験のない公望では力不足であった。

西郷を兄と慕う黒田は、より西郷の思想に共鳴し、旧体制でも利用できるものは認めて征討を進めようという考えを持っていた。長岡藩との戦端が開かれた際に、黒田は、西郷の方針が平和裏に交渉を進めることであったことから、和平の糸口を探るため河井継之助宛に、熱心に和平を説いた手紙をしたためた。この手紙は手違いで河井の手に届かなかった。
一方、会津討伐を一刻も早く完遂したい山縣狂助は、藩は違うが、倒幕運動のなかで西郷と親交を結び、その人物や思想に感銘を受け尊敬していたといわれる。西郷の考えは承知していたが、長州の実力者である大村益次郎の方針が、「敵対する者に対しては譲歩することなく武力で討伐せよ」であったことから主戦論を採っていた。山縣は柏崎から小千谷の本営に移動中に、河井が小千谷にくると聞いて、引き留めておくようにという指令を出したが、間に合わなかったと後に回想している。 山縣は、一説では河井を拘束し、長岡城を開城させようとしたといわれている。

小千谷会談を決裂させ、長岡藩を列藩同盟に追いやる原因を作った軍監岩村精一郎の降格が鎮撫軍内で決定されたときには、薩長間でさや当てがおこなわれ、山縣が参謀を辞任する騒動になった。この時は、西郷が両参謀の不仲を懸念し、柏崎の総督府に薩摩藩参謀として派遣していた吉井友実(当時40)を仲裁役に立て和解させている。西郷自身も越後での戦況が芳しくないことから、状況を把握しようと越後柏崎に入っている。
6月13日、同盟軍は不在であった総指揮者に、米沢藩の千坂を指名し、漸く一体としての指揮命令系統が出来上がった。そして、6月14日、同盟軍による大攻勢が行われる。特に、筒場村・大黒村での戦いは激戦を極め、一進一退の消耗戦となった。
大黒を守っていた農兵中心の高田藩兵は、会津・長岡の同盟軍が進攻してくると、不意をつかれ、戦わずして撤退した。これを聞いた薩摩藩の精鋭部隊が筒場村から兵を割いて救援に駆けつけるが、多くの戦死者を出し、薩摩藩城下士小銃十番隊長の山口鉄之助なども戦死してしまう。
西郷は大黒で多くの薩摩藩兵の戦死者が出たことを聞き、6月18日柏崎から長岡関原の本営に行き、山縣と黒田から事情を聴いている。
山縣は、この日長州から奇兵隊の援兵が到着したことなどを話した。西郷も、徴兵によって諸藩から集められた兵はいざとなると頼りにならないことから、薩摩藩兵の増援や西国諸藩からの増援が必要と考えたと思われる。
戦争が長引くことによって、徴兵された諸藩の兵は、薩長に強制され戦っているだけで、自藩にとっては大義なき戦いを強いられているという厭戦気分が高まる恐れがあり、戦争は短期間で終わらせなければならなかった。そのため兵力の増強と、新政府軍内の求心力を高めるため、旗印となる朝廷の人材を投入強化するする必要があった。この後、西郷は兵を集めるため、柏崎から薩摩に向かうことになる。

西郷は新潟滞在中に何度も山縣・黒田と会っているが、山縣と面会したときには、話を聞いて慰められた山縣が薩摩に配慮するようになったという。また黒田と面会したときは、山縣を立ててもっと気配りするように話したという。(明治に入っても2人の仲は修正不能であった)。この頃になると、黒田と山縣は参謀同士で直接会話を避ける関係になっていた。
越後で、3ヶ月間も費やしてしまい、これからの東北進軍の戦略を構築する上で、2人の間に立って調整できるのは西郷しかいなかったと思われる。
山縣は後日、西郷に面会して思いを話し合ったのちには、薩長の軋轢を避けるよう長州の隊長らに一層の注意を喚起したと回想している。


これまで、西郷は新発田の本営から薩摩の黒田清隆や長州の山縣有朋らが訪れて来営を求めても、最後まで行かなかったとされていた。2019年になって、新潟に上陸した西郷は、すぐに新発田城に置かれていた本営を訪れ、近くの商家に泊まった旨を記載した文書が発見されている。


🔶《西郷隆盛が滞在した坂井家跡》
〔所在地〕新潟市北区松浜本町2丁目

《現地案内看板より》

西郷隆盛が滞在した坂井家
1868(慶応4)年1月3日、京都の鳥羽伏見に端を発した戊辰戦争で、北越・奥羽の諸藩は奥羽越列藩同盟を結成して官軍(新政府軍)に対抗しました。
西郷隆盛は北越戦線の支援のため、同年8月6日、兵三百余を率いて軍艦春日丸で薩摩を出発、8月11日に新潟に上陸、松ヶ崎浜村(現・松浜)の坂井七左衛門家に滞在しました。
これらの史実は多くの資料から明らかになっています。
滞陣中、新発田にある官軍本営の参謀、黒田清隆・吉井幸輔・山形有朋が次々と訪ねてきました。また秋田で苦戦していた桂太郎も支援を要請するためにやってきました。愛する弟吉次郎の戦死の悲報を聞いたのも当坂井家です。西郷の側近として坂井家で寝食をともにして過ごした柴山景綱の「柴山景綱事暦」には、坂井家での西郷の様子がよく記されています。
西郷は約一ヶ月間坂井家に滞在したあと、9月8日、庄内めざして出発し、米沢経由で9月27日に到着しました。西郷は、降伏した庄内藩に対して寛大な措置をとったので、庄内藩主・藩士ともども感涙したと伝えられています。

2018(平成30)年6月
新潟市北地区歴史文化研究会


🔶《明治戊辰西郷隆盛宿営地の碑》

太夫浜に滞在の記録は残っていないが、地元の古老が「太夫浜に1、2泊した」と語っている。この『西郷隆盛宿営地の碑』の石碑は、昭和5年(1930)に建立。西郷が北区に滞在した歴史を伝えている。
〔所在地〕新潟市北区太夫浜2010

《現地案内看板より》
明治戊辰西郷隆盛宿営地

「明治戊辰」は明治元年(1868)のことです。北越戊辰戦争が起った年で、西郷隆盛は、新政府軍を援護するため、鹿児島から船で新潟にやってきました。8月11日に新潟に到着し、新潟沖に停泊した後、16日に松浜に移動し、坂井七(郎)左衛門家に陣を構えたと伝わっています。松浜で薩摩軍の指揮をとっていた西郷のもとには、新発田の新政府軍の本営にいた黒田清隆たち参謀が訪れて、今後の東北進軍について相談したそうです。
西郷が大夫浜に滞在したという資料は残っていませんが、地元の古老が「松浜からやって来た西郷が大夫浜の神田喜左衛門家に1・2した」と語っています。1カ月ほど松浜に出発し、9月9日頃に松浜を出発して、米沢、庄内へ向かいました。
この石碑は、1930年(昭和5)9月、「西郷の門弟」と名乗る松田武五郎と、西郷が滞在した神田家の精太郎(喜左衛門の孫)によって建てられました。松田は熊本出身で、西南戦争にも参戦した人物です。戊辰の年にここに住んでいた神田家は、三軒屋町へ移住していたので、松田はここ、平松家で西郷の偉業を偲んで長期滞在していました。

平成21年3月 新潟市北区役所(豊栄博物館)

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《西郷吉二郎 五十嵐川の戦い》

慶応4(1868)年7月29日に長岡城が再落城し、敗走する同盟軍は、加茂方面への新政府軍の進撃を喰い止めようと、三条市街の入り口五十嵐川で防御した。
8月2日、三条の月岡・諏訪方面から越後国五十嵐川付近(現三条市)曲渕に進軍してきた薩摩藩との間で激しい砲戦となった。遮蔽物のない広い河原で、薩摩藩は苦戦した。同盟軍には会津藩朱雀士中四番隊隊長町野源之助や桑名藩雷神隊隊長立見鑑三郎がいて指揮をしていた。
長州藩一番隊小隊が駆け付け、同盟軍は夜に入ると加茂方面に撤退した。8月3日、長州藩兵が三条市街に入り込んだ。(☛ 五十嵐川の戦い)
この戦には、薩摩藩の番兵二番隊指揮官であった、西郷隆盛の弟吉二郎がいた。吉二郎は、田島側の同盟軍の小銃により腰に被弾し瀕死の傷を受け、その後運ばれた柏崎の野戦病院で8月14日に36歳の若さで亡くなった。上越市金谷山にある高田官修墳墓、薩摩藩戦没者の墓に合葬された。

🔶戊辰戦役記念碑
戊辰130年の平成10年8月2日に、五十嵐川田島・曲渕で、新政府軍と同盟軍との激しい戦いで多くの人が死傷したことを後世に伝えるために戊辰戦役記念碑が建立された。

会津藩兵が布陣した田島側から曲渕方向を望む ※ストリートビュー


🔶官修高田墳墓地
1869年、北越戊辰戦争で戦死した、高田藩、薩摩藩、長州藩士たちのの墓碑が立てられた。薩摩はその後個人墓をやめ、合葬墓とした。

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《西園寺公望》

嘉永2年10月23日(1849年12月7日)〔生〕 - 昭和15年(1940)11月24日)〔没〕

11歳の時から御所に出仕し、祐宮(後の明治天皇)の近習となった。また近習の同僚であった岩倉具視ともこの時期に親しくなっている。
慶応3年12月9日(1868)、岩倉の推挙によって、三職の1つ、参与に任じられた。戊辰戦争では山陰道鎮撫総督、東山道第二軍総督などを歴任していた。
新政府は1868年(慶応4)4月14日,薩摩藩,長州藩などを会津征討のため越後方面に出兵させ、高倉永祐を北陸道鎮撫総督に任命し,薩摩の黒田清隆,長州の山縣有朋を参謀に起用した。
閏4月23日 新政府は病気の高倉永祐に代わって、若干18歳の西園寺の派遣を決め、北国鎮撫使に任ずる。
閏4月24日、新政府は西園寺を三等陸軍将に任じ、奥羽征討越後口出張を命じた。西園寺公望満18歳。
5月10日、西園寺は北陸道鎮撫総督として京都を出発する。
5月22日、、薩摩藩兵など100人を率いて、直江津の今町港に上陸し、高田の新政府軍本営に入る。以後約3ヶ月間越後で転戦することとなった。
6月14日、新政府は新たに仁和寺宮嘉彰親王を会津征討越後口総督に任命する。
6月16日、西園寺は柏崎を発ち長岡の新政府軍本営関原に出陣する。
6月20日、一旦柏崎の本営戻り、会津征討越後口総督仁和寺宮嘉彰親王のもと、壬生基修とともに会津征討越後口大参謀に任ぜられたことを告げられる。
6月下旬、西園寺は、戦況が動かないことから高田に戻り滞陣していた。
7月2日、西園寺は高田総督府を発し、柏崎に至り、7月8日には長岡へ移った。
7月11日西園寺は長岡城下に入り、城のすぐ近く縮屋五兵衛宅(長岡市神田町2丁目1)に会議所を置き、ここを本陣として宿営していた。
7月25日の長岡軍の夜襲で長岡城を奪い返されたときには、信濃川を小舟で渡り関原まで命からがら逃げたという。山縣狂介は総督府参謀長三州に西園寺を関原まで退却させるよう命じる。西園寺は長三州とまず野戦病院に行き傷病兵を避難させて、草生津の渡しから信濃川を渡り大島から関原へと退却した。
8月5日長岡城下に入り、その後新政府軍軍の進撃に伴い、見附~三条~新津と転戦する。この間参謀山縣が近くにいて、逐次戦況報告を受けている。
8月15日、西園寺は村松城下から新政府軍五泉会議所に到着する。村松藩先代藩主直休の異母弟奥田貞次郎(堀直弘)と面会し、帰順降伏を認め、村松薄の存続を裁可した。
9月25日、会津若松に至り若松城を検分する。10月1日、若松を出発して10月5日に新発田に到着し、戦争終結と検分した結果を仁和寺宮に報告している。
10月28日、 四条隆平にかわって新潟府知事に任ぜられる。辞任するまで新潟に赴任することはなく新発田にとどまった。
明治2年(1869)1月7日、参謀西園寺は、任命されていた新潟府知事を明治2年1月5日に辞職し、新発田藩士に見送られ、山内村経由で東京に向かう。

🔶「北越戊辰戦争西軍本陣跡」の碑
左側には「参謀西園寺公望宿所」と刻まれている。新政府軍が信濃川を渡河し長岡城が落城したのち、新政府軍の前線本営が置かれた。 長岡藩兵が八丁沖から長岡へ進入し奪還に成功したとき、西園寺公望はここにいて打ち合わせを行っていた。急襲の報を聞くと、打ち合わせ中の資料など置き去りにして、逃げたという。


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