五十嵐川の戦い



慶応4(1868)年7月29日に長岡城が再落城し、同盟軍は敗走する。各地に散開していた同盟軍各藩は、三条を目指して撤退した。8月1日、米沢藩は藩境防衛に方針を転換し、藩兵は三条から八十里越を通って国にむかった。上山藩・仙台藩の応援兵も米沢藩に従って撤退した。
長岡藩兵は、旧領地を新政府軍に占領され恢復も見込めないことから、藩主ののもとに向かうとして、家族も従えて八十里越を越えて会津に向かった。

同盟軍として戦った新発田藩総隊長溝口半左衛門は8月1日、新政府軍が大面、帯織に進軍してきたので、軍使を派遣して見附到着の政府軍(御親兵ー大和十津川郷兵)に謝罪嘆願書を提出し帰順した。全兵力を集結して600余名、早速兵器を取り上げられ、溝口半左衛門は見附において謹慎を命ぜられた。
8月2日には、新政府軍より、新発田藩兵に対し、月岡口(加茂口)、今町口、大面口等の先鋒として戦功をたてるよう申し渡されて、兵器も返された。この方面の藩兵は、同盟軍から新政府軍となり、昨日までの友軍であった同盟軍兵士と戦火を交えることになった。

見附付近に進んだ御親兵隊、薩摩・長州・松代藩の一部隊は降伏した新発田藩隊を教導隊として三条、加茂方面への大斥候隊を命ぜられて進撃を続けた。月岡口(加茂口)では、新発田藩服部吉左衛門、五十嵐孝次郎の三小隊が先鋒を命じられている。
同盟軍は加茂方面への新政府軍の進撃を喰い止めようと、三条市街の入り口五十嵐川で防御、大崎、三竹方面は桑名藩神風隊を主力とする同盟軍が守備した。戦いは川を挟んで激しい銃撃・砲撃戦となった。松代藩の砲一門は高地道心坂かから五十嵐川右岸に沿う下田街道を完全に遮断し、鹿峠・吉ヶ平方面への同盟軍の退路を断った。
一方庄内藩三隊は三条西南端から逆に渡河し、本成寺方面から前進してきた長府軍を迎撃撃退している。
新政府軍側は同盟軍側の抵抗が激しいことから増援を要請すると、薩摩十二番隊長の振武が二番隊、四番隊を率いて到着。新発田藩一隊、上田藩一隊が前後して到着した。
同盟軍側が係留された舟の綱を切り払ったので、増水した五十嵐川を渡河することができなかったが、漸く舟1隻を発見し、薩摩兵の一部が五十嵐川渡河に成功した。新政府軍の増援に耐え切れなくなった同盟軍はついに夜半の闇に乗じて逐次加茂へ後退した。また庄内藩兵は追撃を避け隘路を通って吉ヶ平から八十里越を越えて帰藩している。
新政府軍は3日の夜明迄全部隊が右岸に渉り陣地をつくり、攻撃命令を待った。新政府軍は直に追撃する態勢には移らなかった。

この戦闘で新政府軍は薩摩兵戦死3人、負傷15人(西郷隆盛の弟、吉次郎も負傷し病院で死亡している)、長州兵戦死3人、負傷2人、長府兵負傷1人、合わせて戦死6人、負傷者18人を出した。同盟軍は会兵戦死1人、負傷者10人(その他未詳)であった。新発田藩の隊長林文左衛門もこの戦闘で戦死した。


🔶戊辰戦役記念碑
戊辰130年の平成10年8月2日に、五十嵐川田島・曲渕で、新政府軍と同盟軍との激しい戦いで多くの人が死傷したことを後世に伝えるために戊辰戦役記念碑が建立された。

会津藩兵が布陣した田島側から曲渕方向を望む ※ストリートビュー














戊辰戦役記念碑