会津藩小出島陣屋跡 Koidejima Jinya Ruins of Aizu Domain 魚沼市


🔗 町野源之助  

(小出島陣屋の由来)

享保9年(1725)に徳川幕府は魚沼直轄領を会津藩預所としたが、のち幕府領に戻された。会津藩は蝦夷地警衛費捻出のため、かねて安房・陸奥の下免の地5万石と越後国同高との替地を願い出ていたが、文久元年(1861)4月岩船郡、上・中蒲原郡、三島郡、魚沼郡の内5万石の替地が許され、魚沼一帯2万6千石余りが会津藩に組み替えられた。
会津藩は越後の新領支配の為、文久2年(1862)3月ごろ陣屋を阿賀野川沿いの福岡村(現阿賀野市分田)に設置した。その際、魚沼郡132村は福岡陣屋付になると陣屋まで30里ないし40里の遠隔地で、年貢上納その他御用を勤めるのに困難であると反対し、できたら小出島に陣屋の設置を願い出た。この地は以前陣屋が置かれたこともあり、かつ会津新領の魚沼領の中央に位置し、長岡へも日々通船して交通の便にも恵まれていると嘆願するに至った。
会津藩では小出島に文久3年(1863)魚沼・三島両郡を管理下に置く陣屋を設置した。魚沼領と会津藩の関係も115年に及び、地元の住民も、会津藩のために尽くそうという意識が強かった。陣屋の建築の際にも、町役人などが、進んで協力を申し出をしている。
慶応4年(1868)2月、郡奉行町野源之助が小出島陣屋に着任した。新政府が、会津討伐を決した中、会津本国で全藩一致の抗戦体制が強行されると、小出島陣屋でも臨戦態勢が取られた。
3月、会津藩は魚沼・三島二郡の新領の庄屋・組頭・百姓代を兵士に仕立てた。その割当て高100石につき3人であった。また、会津藩は新領の富有者に献金を命じ、苗字帯刀を許して歩兵に任命した。歩兵は10名前後の手兵(名子・下男)を引き連れて、変事の際に陣屋等指定の場所に駆け付けるよう定められた。
小出島組(郷兵・村兵約150人、歩兵およびその手兵約50人)・堀之内組(郷兵・村兵約130人)・浦佐組(郷兵・村兵約110人)は小出島陣屋に駆け付ける事、六日町組(郷兵・村兵約100人)・塩沢組(郷兵・村兵約120人)は三国通り関東口を固める事、川口組(郷兵・村兵約50人)・三島組(郷兵・村兵約140人)は下口を固める事、上口・下口とも賊徒の来襲しないときは陣屋で後詰をすること等が定められた。魚沼・三島両郡の郷兵・村兵は約800人で、歩兵とその率いる手兵は約50人であった。このような農兵制度を採用することは、本来戦争は武士同士のものであった封建社会において、佐幕派をうたう会津藩の中ですら、封建社会の破局が進んだということが明白となった。
4月下旬の頃になると、小出島陣屋の兵力は、陣屋の手勢30名と、郷兵が40名、村兵が190名余、小千谷陣屋からの来援である井深隊組頭池上武助が指揮する一隊30名余と300名近くになっていた。

(三国峠の戦い)

閏4月9日、町野源之助は三国峠防護のため出陣、平穏を確認して13日、藩兵郷村兵150名ほど残して帰郷させ、残留組は木柵・掘割工事をした。
21日、三国峠を守る会津軍を新政府軍が襲来発砲、ここに会津藩の戊辰戦争が開始された。
小康の後、閏4月24日早朝、濃霧の中戦闘が開始されたが、衆寡敵せず退却して二居峠に立て籠もった。しかし山道軍が背後に迫るとの急報に接し、夜を徹して魚野川の右岸を通り六日町から乗船し、25日夕刻、町野源之助は小出島に到着した。

(小出島の戦い)

閏4月25日、町野は平坦地では防御が難しいと考え、三国街道を下って小千谷で守りを固める意向だった。しかし、地元民が懇願したので、町野は不利を承知で残留を決意する。
そして藩士の家族たちには、会津へ戻るよう命じた。しかし、家族の中には首を縦に振るものはいなく、共に戦うと主張した。しかし、ようやく説得し、仮菩提寺に定めた萬行寺の住職に、逃げるためのの準備を頼んだ。住職は快諾し、檀家に頼み、荷物を運ぶための運搬の道具を集めてきた。
25日夕刻、陣屋には藩兵と郷兵合わせて70名と外に三国峠の戦いで逃げ散った村兵が再度集められていた。午後5時ごろになると小千谷からの援兵180名が到着した。朱雀隊の精鋭井深宅右衛門隊120名、山之内大学小隊約50名衝鋒隊10名であった。軍議で町野隊・山内大学隊は四日町に、井深宅右衛門隊は柳原に布陣することを決定した。その夜半に至り市中には避難勧告を出し住民を退去させた。また、渡し舟はことごとく破間川の上流に隠した。
一方征討軍は、先立つ閏4月21日、軍監岩村精一郎の率いる山道軍が高田を出発し、松之山口から千手に到着し、さらに二縦隊に分かれた。本体は岩村が率い雪峠を経て、小千谷へ、もう一隊500名は薩摩の軍監淵辺直右衛門、長州の白井小助が指揮し、小出島を経て小千谷へ向かうことになった。小出島を目指す一隊は、24日信濃川を渡り、十日町・八箇峠を経て、25日六日町に進軍した。
浦佐でその兵を二分し、半隊120名は小出島の後方に進出するため、閏4月25日栃原峠を越えて堀之内に進撃した。26日、薩摩・尾張・飯山の諸藩兵は堀之内普賢寺を本営として、四日町の会津藩兵と対峙した。
もう半隊は浦佐に集結した長州奇兵隊・長府報国隊・薩摩藩兵(外城三番隊)・信州松代藩兵380名は、堀之内の半隊と呼応し、柳原口・佐梨口から小出島を奇襲する作戦計画をたてた佐梨川に向け進軍した。
これに対して、小出島・四日町を固守する会津藩は、南・西・北の三方をめぐる川の堤上に胸壁を構え、柳原・日渡・四日町に砲台を築いた。
会津軍は総指揮を井深宅衛門が取り、本隊を小出島においた。支隊は四日町にあって、山内大学・町野源之助が指揮をとった。
27日八ツ時(午前2時頃)、小雨の中、栃原峠から迂回した新政府軍の尾張・薩摩・飯山の軍が四日町の対岸大石・瀬場方面に進軍し、攻撃を始めた。会津藩兵もこれに応戦した。
新政府軍の作戦は、会津軍の主力をこの方面に牽制し、別に浦佐に集結した長州奇兵隊・長府報国隊・薩摩外城三番隊・信州松代藩兵等をひそかに虫野・伊勢島方面から進撃させ、佐梨口・柳原口から小出島を奇襲攻撃する戦略であった。
浦佐から進軍してきた、長州・薩摩・松代の軍は、四日町方面で銃撃戦が始まったことを知り、急ぎ佐梨川沿いに散開した。
一方、会津軍井深宅右衛門は、北方四日町方面で激しい砲戦が起こると、新政府軍の陽動作戦とみて、主力をただちに南方の柳原口、佐梨口に向かわせた。
佐梨川をはさんで戦闘は激戦となった。薩摩藩の淵辺は一隊を率いて、佐梨川上流に迂回して渡河し、井深隊を横撃した。井深隊の銃は旧式ゲーブル銃であったため、銃撃に手間取った。長州奇兵隊はその機をとらえて、敵前渡河し市中に入って白兵戦となった。新政府軍は市中に放火しながら進撃した。この時、長州藩五番隊長元森熊次郎は抜刀して突撃したが狙撃され重傷を負い、後に死亡している。
四日町の町野・山之内隊は新政府軍を阻止していたが、背後の柳原方面市街で白兵戦がはじまると形勢が逆転した。新政府軍は喊声をあげて魚野川に殺到し、おりからの豪雨で増水した川を渡渉し、斬りあいの白兵戦が展開された。

会津軍は死にものぐるいで奮戦したが、会津新領から徴集された郷兵・村兵・歩兵等は後陣を勤め市中を守っていたが全く戦意なく、会津軍の形勢が不利になるとわれ先にと退却した。
薩長軍が民家に放火し、五ツ半(午前9時頃)小出島一隊が大火となり、その煙が天を覆うばかりになると結局衆寡敵せず、会津藩兵は敗れて六十里越方面に撤退した。戦闘は未明に始まり正午に及んだ。市街戦のため焼失した家屋は、168軒以上となったという。また流れ弾により、2名の住民が死亡している。
戦いが止んだのは、午前9時頃。会津側で戦死15名、新政府軍側は戦死16名だった。
小出島を撤退した会津藩兵は、六十里越を通って会津に逃れるが、源之助はこのままでは会津に戻れないと別行動を取り越後に残った。
5月6日、町野源之助は長岡藩の摂田屋本陣で河井継之助、佐川官兵衛と会合を持ち、小出島での新政府軍との戦いの状況を説明した。佐川の勧めもあり、源之助は一旦会津に戻った。7月越後の戦況が芳しくないことから朱雀士中四番隊の佐川官兵衛を助力するよう命じられ、後、越後国内各地を転戦した。


(墓碑)

この戦いで新政府軍は16名の戦死者を出し、会津軍も15名の戦死者を出した(新政府軍は薩摩・長州の戦死者のみの数であり、他藩では負傷者を国元に送り返しその後死亡したものもいるので正確な数字は分からない)。小出島陣屋は、戦火の中焼失し、遺構は残っていない。明治35年(1902)9月、陣屋跡に慰霊の懐旧碑が建てられ36年(1903)7月除幕式が行われた。高等師範学校教授南摩綱紀の撰文で書も本人の筆である。
懐旧碑が建碑された場所には、小出島と三国峠で戦死した会津藩士14名が刻まれた小さな墓碑の戦死者姓名碑、昭和63年(1988)「戊辰120周年記念行事」の時に建立された輪形月歌碑が並んで建っている。
輪形月歌碑はこの戦闘の中、負傷して隠れていた会津藩士望月武四郎が自害したした際、残した辞世で
  • 筒音 ( つつおと )に鳴く ( )やすめしほととぎす
    会津に告げよ武士 ( もののふ )の死を
と刻まれている。碑の裏には、この辞世の句に胸を打たれた松代藩士蟻川賢之助の返歌「ほととぎす 魚野川辺の夏嵐 永久に伝へよ波騒の声」と刻まれている。望月の歌は、昭和63年(1988)になって初めて会津の人の眼に触れる事となった。
井深隊の望月武四郎は、退却を潔とせず戦闘を続けたが、砲弾で負傷して、避難して空き家となった覚張常五郎方に身を隠した。残党狩りが始まり、新政府軍の兵士が「逆賊をかばう者は同罪だ」と一軒一軒調べて回った。望月は領民に累が及ぶと判断、障子に辞世の句を書き、民家を出て自刃した。23歳であった。輪形月は望月に由来している。
新政府軍は戦後松代藩兵が駐留し、正円寺を本営とした。会津軍の戦死者は死体の埋葬を許れず、また重傷をうけて捕らえられた者は、のち小千谷に護送されてみな斬られた。正円寺の大龍和尚は度胸の据わった人で、新政府軍の陣営に乗り込んで、仏の理非を説き、動こうとしなかったので、新政府軍側が根負けして「勝手にしろ」と埋葬を許したという。和尚は会津兵の遺体を大塚に集め、埋葬供養した。その後、昭和4年(1929)有志の寄付金によって「戊辰戦死者墓」として立派に改葬された。

また新政府軍の戦死者ははじめ遺体を浦佐の普光寺に埋葬したが、のちに小千谷の船岡西軍墓地に移葬した。
≪この戦いでの戦死者の墓≫

長州

  • 奇兵隊小隊司令元森熊次(24歳)、船岡公園西軍墓地(新潟県小千谷市船岡1丁目)
    負傷し、5月7日普光寺で死去

会津

  • 遊撃隊士望月武四郎(23歳)、戊辰戦死者墓に合葬(魚沼市大塚町)


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≪町野源之助≫



















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魚野川 袖八川排水機場周辺(左方は四日町近辺から柳原方向を望む。奥が上流) @にいがたLIVEカメラ


懐旧碑、戦死者姓名碑、輪形月歌碑 戊辰戦死者墓 普光寺 招魂社
※川の流れは当時と異なっている