杉沢・小栗山の戦い



(長岡城落城)

5月19日、長岡城が新政府軍による信濃川渡河による奇襲攻撃によって落城すると、河井総督は、直ちに悠久山に走り、そこで敗残の兵をまとめて栃尾に退いた。妙見付近で激戦を続けていた長岡軍や会津・桑名兵なども落城を知ると、兵をまとめて栃尾へ退却した。
この時新政府軍は、本営内での作戦の不一致等で決定が遅れ、撤退する同盟軍に対して大規模な追撃作戦がとれなかった。これが、越後での戦争が長期化した要因の一つともされている。新政府軍は同盟軍の退却時衝鋒隊の退却援護の牽制攻撃に翻弄されたともいわれる。同盟軍は大きな戦力の損害を受けず、戦力を保持したまま撤退することができた。
新政府軍は、小千谷にあった前線指揮所を関原に移した。山手の栃尾・文能・杉沢から森立峠・浦瀬・見附・今町付近を前線とし、海沿いの与板から出雲崎まで防護戦は約二十里(80キロ)に及んだ。兵力が分散し、兵器弾薬等の補給が追い付かなかった。
三条方面から長岡城下へ通じる街道の要衝今町には、長州藩軍監三好軍太郎が本陣を置き戦線を指揮した。
栃尾方面から長岡へ通じる要衝見附には、長岡城落城の余勢をかって新政府軍が進駐した。見附新町の村松藩本陣に長州兵50人が、智徳寺に薩摩兵100人が、その他松代藩兵と加賀兵が宿営した。

(加茂軍議)

5月20日、同盟軍諸藩の諸将は長岡藩領栃尾の葎谷へ集結し、桑名藩預領の加茂に同盟軍の本営を置くこととした。
5月22日、23日、加茂で軍議が行われた。
5月22日の正午過ぎに、米沢藩が本陣とした、加茂の大庄屋市川邸におかれた加茂会議所で軍議が開かれ、米沢藩・会津藩・長岡藩・桑名藩・上ノ山藩・村上藩・村松藩の各藩が出席した。
長岡藩は軍事総督の河井継之助が出席し、まず進撃して見附を占領し、次いで長岡城を奪還しようと強く主張し、他藩の協力を要請した。しかし諸藩では、長岡城を奪還できても、その後の総合的な戦略を見通せないことから簡単に意志統一できなかった。また、同盟軍の総督を米沢藩が断ったことから総指揮官がいないく、各藩それぞれ、意見を持つ烏合の衆となっていた。
会合は翌日も行われ、会津藩佐川官兵衛の支持もあり、見附を攻略し、長岡城奪還に向かう河井継之助の主張が通るような形でまとまった。
米沢藩の甘糟参謀が賛同し、河井継之助が計画した進軍計画に基づき、列藩 同盟軍を三軍に分け、米沢・会津兵が大面から見附へ、会津・桑名兵が三条か ら信濃川を渡り与板へ、長岡 ・村松兵が下田から栃尾・見附に向かうという作戦が決まった。
だが、河井継之助には秘策があった。新政府軍の防衛線の両端にある与板口と見附口を攻撃することによって新政府軍を牽制し、その戦力が分散する機を見て、長岡城奪還のために、長岡藩兵の主力を集中して新政府軍が本営を置く今町を攻撃突破しようとするものであった。

加茂軍議で承認された進軍計画書

同盟軍進軍手配…あくまで計画書であって、その後の事態の変動によって変更される場合があった。

1.見附口
会津遊撃隊 50人
会津砲兵隊 60人余 砲2門
会津佐川隊 100人余
会津木下隊 100人余
長岡村松隊 80人余
米沢斉藤隊 150人余
米沢大砲隊 砲2門
米沢後詰(予備隊)米沢兵 計680人 砲4門

2.与板口
桑名町田隊 60人余
桑名大砲隊 砲2門
会津萱野隊 200人
会津大砲隊 砲2門
衝鋒隊 200人余
上ノ山隊 80人余
米沢隊(後詰) 100人余 計640人 砲4門

3.栃尾口
藩名不詳 60人余
長岡勢 総人数(900人というが藩主と会津避難のため700人~800人ぐらいか)

4.弥彦口
庄内勢 250人余
会津勢 200人余
村上勢 160人余 計610人

5.鹿峠固め
桑名致人隊 60人余(雷神隊ともあり)

(杉沢の戦い)

5月24日早暁、同盟軍は各方面に進撃を開始した。
長岡城落城後、同盟軍による本格的な反撃は、杉沢で佐川官兵衛率いる会津軍によって行われた。
佐川官兵衛が率いる朱雀四番士中隊を主力とした会津兵が、長岡藩兵や村松藩兵とともに雨の中出撃した。行く先は、赤坂峠を越え杤尾への入り口にあたる杉沢村であった。杉沢村には新政府軍の薩摩藩一小隊が陣を構えていたえていた。
会津藩兵が、陣の設営を始めた時。高所から砲撃を受け、これをきっかけとして、烈しい銃撃を受けた。
会津軍も、市岡砲隊が駆けつけ、応戦したが、雨が一段と激しくなり、砲戦は一時休止した。官兵衛は、これを機に、抜刀して敵陣に斬り込みをかけ薩摩兵を追い詰めた。
然し雨が上がると、新政府軍側には見附から応援の兵が多数現れ、銃撃を始めたので、多勢に無勢、会津側の銃弾も付き始めたので、昼過ぎ官兵衛は撤退を命じた。敗れた同盟軍は、赤坂方面と人面方面への二つに分かれて退却し、25日早朝には加茂の本陣まで撤退した。
会津軍ではこの戦いで7名の戦死者(朱雀四番士中隊に6名、市岡砲隊に1名)と13人(15人とも)の負傷者が出た。
この戦闘では両軍は次のような死傷者記録した。
新政府軍
  • 薩摩藩 戦死2人 負傷 3人
  • 長州藩 負傷 1人

同盟軍
  • 会津藩 戦死7人 負傷15人
  • 長岡藩 戦死6人 負傷  8人
  • 村松藩 負傷  1人

墓碑
  • ・忠死尊霊塔(杉沢町人焼き場の供養塔)
  • 野ざらしにされた会津藩7名・長岡藩4名・村松藩2名の合葬墓
    ※村松藩の2名は、25日赤坂峠の小戦闘で捕虜となり、杉沢で斬首された者である
  • ・長岡藩4名墓
    上記のうち長岡藩士のみの合葬墓

(小栗山の戦い)

5月26日、衝鋒隊が加茂を出発。又米沢藩斉藤主計隊の七小隊と砲二門が宿営地大崎を発し、未明大面に到着した。
小栗山を守備していたのは薩摩藩兵と高田藩兵一小隊で同盟軍の接近を聞いて、高所に陣を移した。圧倒的多数の同盟軍がこの高所を包囲する形で攻撃した為、薩摩藩兵は押されて新潟村まで撤退した。
急を聞いた薩摩藩と長州藩の応援部隊が到着し、銃撃を開始すると同盟軍側は後退した。朝に始まった交戦は朝から夜8時くらいまで続き、米沢兵に死亡2人、負傷者7人が出た。一方新政府軍側では薩摩兵で死亡3人、負傷8人、長州兵死亡2人、負傷者2人がでた。
5月27日から6月1日までこの方面での激しい戦闘が続いた。
5月28日には、同盟軍側では、会津藩朱雀寄合二番隊も攻撃に加わったため、兵力では優勢ではあったが、小栗山の高地に陣を敷いた新政府軍側の守備は堅固で、同盟軍は前進できなかった。戦火は指出村方面にも広がった。
この日、米沢藩家老千坂太郎左衛門が、越後口の指揮を執るよう、藩主上杉斉憲から命じられ、色部総督から軍隊の指揮権を譲り受け、早馬で大面に到着した。
29日、片桐に駐留していた薩摩二番隊が、田の尻村に進出した米沢兵と交戦し、帯織村まで進撃したが、急を聞いた衝鋒隊応援部隊の活躍で、薩摩軍は後退、片桐まで撤退した。今井信郎に率いられた衝鋒隊の活躍は目覚ましかった。
5月30日と6月1日と砲撃戦を主として、戦闘が続いたが、決定的な勝敗はつかなかった。新政府軍は兵力数では劣っていたが、有利な地形を利用したり、兵が薩長の精鋭の兵であったため、数は多いが戦闘経験の少ない米沢藩兵を打ち負かし、何とか持ちこたえることができた。30日には小滝村の名刹東山寺が焼失した。
米沢藩はこの方面で主力として戦うが、老兵、少年兵が多く、しかも甲冑、火縄銃を携帯するという部隊が多かった。薩摩、長州兵の多くは、元込め七連発のライフル銃を持って、雨中でも装填して狙い撃ちができた。 銃撃戦では、米沢藩兵の銃撃の弾が届かない処から、新政府軍は銃撃できたので、銃撃砲撃戦では新政府軍が有利であった。米沢藩兵が後退を始めると、今井信郎が指揮する衝鋒隊と会津藩兵は白兵戦に持ち込もうと、後退する兵たちを叱咤しながら突撃を繰り返した。白兵戦に持ち込んで、新政府軍をを撃退する局面もあった。結果、戦局は一進一退を繰り返した。
6月2日の今町の戦いで同盟軍側が勝利した結果、この地から政府軍が撤退し戦闘は終了した。

27日の戦闘での死傷者
新政府軍
  • 薩摩藩 戦死3人 負傷8人
    長州藩 戦死2人 負傷2人
    松代藩 不詳
同盟軍
  • 米沢藩 戦死2人 負傷7人
  • 衝鋒隊 不詳 会津藩 不詳

墓碑

  • ・山県有朋歌碑
  • 官軍砲台があった小栗山不動院観音堂裏山に山田隆阿師が建立した山県有朋の歌碑「あだ守るとりでのかがり影ふけて、なつも身にしむ越の山風」がこの場所に移設されたもの。書は、山県有朋自筆の書という。















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忠死尊霊塔 山県有朋歌碑