戊辰戦争 今町の戦い



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今町の戦い

5月24日、軍議の決定に従い、長岡藩の総勢およそ900名は栃尾口に、佐川官兵率いる会津兵は赤坂峠を越えて杉沢村に向かった。防衛線が伸びて守備が手薄となった新政府軍に比べ、兵員数では同盟軍が有利であったが、新政府軍が見附、杤尾の守備に薩長の精鋭兵を配置し、必死に防戦した為、戦闘は激戦となり、見附口攻略は困難を極めた。
5月25日、佐川官兵隊は敗れて加茂に撤退する。また大面口に出陣した米沢藩兵と衝鋒隊は薩長の精鋭部隊と交戦したが、一進一退となり見附口の突破はおぼつかない状況であった。
加茂に戻った佐川官兵衛は、加茂皆川家に宿陣する河井を訪ね、作戦を練った。(☛ 杉沢・小栗山の戦い)
長岡城奪還を目指す同盟軍は加茂で態勢を立て直しをはかり、新政府軍の防衛線の両端である与板方面と見附方面で激戦となり、新政府軍の主力部隊が手を離せない状態となっている隙を衝いて、長岡に達する街道の要衝今町を奪還する作戦を長岡藩軍事総督河井継之助は謀った。中央突破を図る乾坤一擲の作戦であった。

5月27日、新政府軍は三条から長岡に向かう街道で交通の要衝であった今町に進出、永閑寺に本営を設け、薩摩・高田・長州・上田・尾州藩兵や方義隊などを配して、加茂に退いた列藩同盟軍に備えた。

5月28日、加茂の本営にいた河井継之助は、密に守備隊2小隊を残し、長岡藩兵の主力を栃尾口から加茂へ呼び寄せた。
これに対して今町の新政府軍は、三条に至る本道の坂井に高田藩兵一小隊、芝野に上田藩兵の半隊、刈谷田川沿いの安田口には尾張藩兵一小隊と、中之島口には高田藩兵一小隊と農兵隊の方義隊150名ほどを配置した。

5月29日、長岡藩河井継之助は加茂の本営前に、諸隊長を集め、今町を攻撃し占領することを告げる。河井は各隊士に金5両ずつを与えて「三条に着けば予定の宿舎があるが、誰も明日をも知れぬ草枕だ。飲んで遊んで半時の楽しみをかっても良い。ただ明朝出発までには必ず帰隊して命を待て」と、死地に赴く武人河井の胸中には決する所があった。
河井継之助の戦術は、全軍を三軍に分かち、相前後して攻撃し、迂回した主力が敵の本営を衝く陽動作戦であった。
同盟軍側で加茂軍議でまとまった戦略に従い、米沢藩・会津藩兵が見附・杉沢・赤坂方面へ、会津藩・桑名兵兵が三条から信濃川を渡り与板方面へ展開していたため、薩長の精鋭部隊はそちらの対応に手いっぱいであり、今町方面が手薄な状態となっていた。守備する高田藩や上田藩・尾張藩の兵士は新政府軍に徴兵されて戦いに参加しており、同盟軍兵士に比較して士気も高くないとみられた。
一方、新政府軍側では、長州藩の堀潜太郎が銃卒30名を率いて今町本陣に入った。坂井口、猫興屋、横山、米山、塔(場所不明)、新町裏等に台場を築き、民家の畳を徴発して盾とし、百姓に命じて連隊旗をたて、方々で大声を発して勢威をはらさせた。

5月30日、河井継之助は隊士を再編成しなおし、長岡藩を主力に、会津藩や衝鋒隊を併せ、加茂を出発。この日は三条に到着する。

6月1日に三条で河井継之助は米沢藩参謀甘粕継成と会津藩佐川官兵衛と軍議を行ない、戦術を詰めている。
同盟軍は本道の坂井口を攻撃する牽制隊は長岡藩大隊長山本帯刀が指揮し、長岡藩山本隊・小島隊・大川隊の三隊と会津藩、桑名藩兵、砲4門で進撃した。
主力の安田口には河井継之助が指揮をとり、長岡藩池田隊 ・斉藤隊 ・田中隊 ・本富隊四小隊、会津藩佐川官兵衛の朱雀四番士中隊、衝鋒隊一中隊(古屋佐久左衛門)・今井信郎一小隊、会津市岡大砲隊一小隊、大砲二門で編成し、途中衝鋒隊ほかが刈谷田川を渡河し中之島を攻撃する右翼隊となった。芝野口に対しては、新政府軍の退口として攻撃兵を配置しなかった。

このほか、大面に滞陣する米沢藩千坂太郎左衛門は牽制隊と連絡を取りながら、兵350名を持って、小栗山方面に展開する薩長の精鋭部隊を救援に向かわないよう釘付けにし、また救援に向かったら追撃することとした。

当時、新政府軍は、見附口と与板口の両翼に、新政府軍の精鋭部隊を派遣し激戦となっていたので、今町各口に配置する駐屯兵は比較的手薄であった。
  • 坂井口 高田藩一小隊
  • 安田口 尾張藩一小隊
  • 芝野口 上田藩半小隊
  • 中之島口 高田藩一小隊・方義隊

(坂井口)

6月2日朝、山本帯刀指揮の牽制隊200名は宿営地三条山王村を朝四時頃進発し、本道を坂井口に向かって旗を靡かせ、太鼓を打って陣容を張り進撃を開始した。牽制隊は、米沢兵と連絡を取りながら、差出村の長州藩兵、梅田・片桐の薩摩藩兵を牽制しながら進撃した。坂井口は隊長設楽宰助が指揮する高田藩兵100名ほどが坂井口の本道を守っていた。新政府軍は早くから同盟軍の動きに気づき、牽制隊を正面主力と判断し応援を送った。同盟軍は坂井村神明社に砲陣地を設置し、正午ころから砲戦が開始、激しい戦闘となった。
長岡藩兵に押され高田藩兵は後退したが、長州藩奇兵隊参謀の三好軍太郎(重臣)が駆け付け叱咤激励し立て直しを計ったため、新政府軍が奮戦し防戦した。しかし安田口で火の手が上がり、また米沢藩兵二小隊が大面から応援に駆け付けると戦況は急展開し、坂井口では牽制隊が新政府軍の防御線をようやく突破し、今町市街に入ることができた。

(安田口)

一方、河井継之助が指揮する同盟軍は6月1日鬼木に駒を進め宿陣した。6月2日朝、鬼木新田を出発刈谷田川右岸沿いを遡上して、新政府軍本陣の虎口に当たる今町安田口にむかった。途中、三林村で衝鋒隊一中隊ほかが主力軍と分かれ、刈谷田川をわたり中之島村に向かう右翼隊となった。
主力軍が安田口に到達したのが正午過ぎであった。通称源助坂の新政府軍の堡塁に長岡藩兵らは襲い掛かった。まさに長岡城奪回の前提となる戦で、まさに東北同盟軍の向背を決する戦闘であった。
守る尾張藩兵も必死に防戦した。隊長高橋民部は兵を励まして奮戦した。対岸にいた高田藩兵が応援して発砲。しかし、徳川御三家の筆頭たる尾張藩の裏切りに対する、佐川ら会津藩兵の怒りはすさまじかった。会津藩兵を先頭に長岡藩兵が必死の形相で、刀を振るって突撃すると、尾張藩兵はたまらず後退した。抜刀切込みは、会津藩の得意の戦法で、特に佐川官兵は鳥羽伏見の戦いで抜刀切込みで薩長を震え上がらせ、鬼の官兵衛の異名をとったほどであった。(☛ 佐川官兵衛)
そこへ指出村で新政府軍の指揮を取っていた薩摩藩の淵辺直右衛門、長府報国隊熊野直介らが、馬に乗って一隊を率いて救援に駆けつけ叱咤激励したことから、再び新政府軍は勢いを盛り返し防戦した。
佐川官兵衛や河井継之助が必死に兵を叱咤激励したため、再び同盟軍が攻勢を強め、特に源助坂では凄まじい死闘が行なわれた。長岡藩兵は次々と敵の堡塁に飛び込み、白兵戦に持ち込み、奮戦したことで、夕刻になってついに同盟軍が勝利し、堡塁奪取に成功した。しかしこの激闘で長岡藩銃士隊長で河井継之助の信頼の厚かった斎田轍が銃丸にあたって戦死し、新政府軍側では長府報国隊参謀熊野直介(22歳)が戦死した。
この戦では、河井継之助は、下駄ばきで紺絣の単衣に平袴という平服で馬にまたがり、日の丸を描いた扇子を持って諸隊を指揮していたという。乱戦となった場合、総指揮官がどこにいるか皆にわかるように平服を着たという。戦場では間断なく銃弾が飛び交ったが、継之助を倒す銃弾はなかった。

(中之島口)

刈谷田川左岸の中之島口には高田藩兵一小隊と農兵隊の方義隊(後の居之隊)が守備していた。高田藩は陣を猫興野の大庄屋大竹栄治(大竹貫一の父)宅においた。中之島村は勤王の志の厚い土地柄であり方義隊の発祥の地の一つで、隊員(庄屋や名主の子弟)も多かった。
三林村で主力軍と分かれた右翼隊古屋が率いる衝鋒隊と長岡藩兵は筏を組み、濁流渦巻く刈谷田川を必死に渡河した。
真弓の地に高田藩の守備隊が配置されていたが、刈谷田川の増水をみて、敵の襲来はありえないとすっかり油断していた。このため突如として現れた同盟軍の姿にあわて、何らなすところなく猫興野の陣地へ激走した。次第に劣勢となった政府軍は中之島方面へじりじり後退を強いられた。だが三好軍太郎の率いる長州軍が新鋭のスナイドル後装銃をもって応援に駆け付け、堀潜太郎が見附本陣から20名の兵を引きつれ加勢したたことにより、形勢は逆転し、政府軍も一定の盛り返しを見せた。
夕方になったが、同盟軍は決死隊を編成し、鶴ケ曽根から潜行して中之島村に出、政府軍の背後を突くという奇襲作戦をたてた。前後から挟み撃ちされた政府軍は、ついに抗戦を諦め敗走した。
この戦いで、大竹邸が焼失したほか、方義隊一隊を率いた松田秀次郎の住宅も放火焼失した。
政府軍では、軍監堀潜太郎が重傷を負い、後に病院で死亡、又救援に駆け付けた参謀三好軍太郎も流れ弾をうけ負傷している。


こうして激戦・死闘は夕刻になってようやく終わり、今町の三口を同盟軍は攻略することに成功した。両軍あわせて60人余りの戦死傷者を出し、夕刻には各方面の新政府軍は、全部長岡方面に敗走し、同盟軍は今町・中之島に入った。
新政府軍は、今町住民に対し、官軍がこの地を警備する以上、何の心配もいらないからと、荷物を持っての立ち退きを認めない通達を出していた。新政府軍は住民を人の盾にしようとしていた。
勢いづく同盟軍は家財道具の残る家屋敷に火を放ちながら今町を占領し、永閑寺は住職が懇願したにも関わらず新政府軍が本陣としていたという理由で火を掛けられた。住民の中には火に巻かれて死傷する者が多かった。町中は少しでも家財道具を持ち出そうとする住民が多く、人々の叫び声で覆われた。
今町は新政府軍に協力したということで、徹底的に焼き尽くされ、協力者は処刑された。この火災は、遠く大面や赤坂からも見えたという。
今町は当時新発田藩の飛び領地であったことから、徹底的に壊滅することで、奥羽越列藩同盟に加入しても態度のはっきりしない新発田藩に対する見せしめにされたともいわれる。


この戦いで、今町のすべてと中之島の4分の3以上が戦火に焼かれ灰燼と帰した。
北越戊辰戦争中でも最大の激戦の一つとなった。新政府軍で、今町本陣で指揮を執っていた長州藩軍監堀潜太郎が重傷を負い、後に病院で死亡、又救援に駆け付けた参謀三好軍太郎も負傷している。

長岡城本営にいた参謀の山縣はこの敗戦を受け、今町・中之島を攻略されたことから、見附と杤尾が敵の勢力圏に突出した形となったため、一旦見附・杉沢・赤坂方面及び栃尾に布陣する軍勢を後退させた。今町から長岡に至る途中の八丁沖西岸の十二潟・筒場・福島・大黒、東岸の浦瀬等の要所に堡塁を築き、これを前線として同盟軍と対峙した。また兵器弾薬類を信濃川の川西に避難させた。これによって戦線は一気に長岡城下に迫った。河井継之助によるこの陽動作戦は見事に功を奏した。
今町で勝利した同盟軍は勢いに乗じて追撃戦に移らず、一端、三条まで退いた。この戦いに完敗した新政府軍は戦線を後退させたので、同盟軍は、長岡城落城の際失った見附、赤坂峠・杉沢方面、栃尾を奪取する事ができた。同盟軍は野戦本営を三条から長岡奪還のため要衝となる見附に移した。以後の戦闘は栃窪・森立峠・半蔵金と言った栃尾の山間部と、福井・百束・大黒などの平野部で繰り広げられるが、戦局は一進一退をくりかえし、ほとんど膠着状態のままに推移した。


この日の戦闘における両軍の死傷者数は次の通りであった。
  • 新政府軍

  • 長州藩 戦死3人 負傷10人
  • 尾張藩 戦死1人 負傷7人
  • 高田藩 戦死3人 負傷6人
  • 同盟軍

  • 長岡藩 戦死6人 負傷6人
  • 会津藩 戦死5人 負傷12人
  • 衝鋒隊 不詳

〔主な戦死者〕

長州藩

長岡藩

  • 銃士隊長斎田轍、悠久山招魂社

≪戊辰戦争関連地≫

  • 長岡城跡
  • 永閑寺
    新政府軍の本陣となったため、住職の懇願にもかかわらず、本堂、経蔵、太子堂などのすべてが同盟軍によって焼き払われた。

    〔所在地〕見附市今町2丁目3-34
  • 今町 砲弾石碑
    山本帯刀率いる長岡藩兵と高田藩兵がぶつかった今町の坂井口に立つ石碑には、砲弾の跡が残り、激戦の様子を伝えている。
    〔所在地〕見附市今町3丁目
  • 源助坂
    堤防道路への上り口(近くに源助さん宅があった事による通称名)であったが、刈谷田川の河川改修が行われ、宅地開発が進んで、坂もなくなり、平坦地と変わっている。










≪長岡城落城≫

















刈谷田川 パティオにいがた屋上から中之島村方面を望む @にいがたLIVEカメラ


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中越の記憶

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永閑寺 砲弾石碑 源助坂