長岡城跡 Nagaoka Castle trace 長岡市



長岡城跡 長岡藩の戊辰戦争 長岡城落城 今町の戦い
🔗三方領地替と新潟町の上知

長岡藩7万4000石を統治した牧野氏12代の居城跡だが、現在遺構は残っておらず、長岡駅前西側の長岡アオーレわきに城跡碑が建つのみとなっている。

(堀直竒)

堀直竒は慶長7(1602)年から主家堀親良の養子堀鶴千代の後見役とした蔵王堂城に入った。
慶長10(1605)年10月5日から、 堀直竒は蔵王堂城が信濃川に面して洪水に弱いことから、その南にあって信濃川からやや離れた長岡(現長岡駅周辺)に新たに長岡城下町の建設に着手する。
慶長11(1606)年5月26日から、堀直竒は縄張りも終わり、目付け役の承認も得て長岡城の築城を開始する。
慶長15(1610)閏2月3日、主家のお家騒動から兄直清と争い、直奇は坂戸藩2万石から信濃国飯山藩4万石に移封され、長岡城の築城が中断する。
1616年(元和2)7月、大阪夏の陣・冬の陣の功績により、堀直寄が8万石をもって蔵王堂城に入封した。直寄は長岡城の築城を継続し、城下町を移して長岡藩を立藩した。
直寄は2年後の元和4(1618)年4月2日に、越後村上10万石に転じ、かわって譜代大名牧野忠成が6万2000石をもって入封した。

(牧野氏)

その後、牧野忠成は長岡城を完成させた。城構えは平城で、本丸(東西43間、南北53間)はいまの長岡駅付近、二の丸(東西45間、南北51間)は長岡アオーレのところ、三の丸(東西22間、南方51間)のほか外郭を配し、幾重にも堀と土塁をめぐらせた要害であった。
長岡藩藩旗 「五間梯子」 由来
戦国時代、敵に追われた牧野の殿様は、領民の家の納屋にかくまってもらった。領民は機転を利かせ、はしごを何事もなかったかのように納屋の戸に立てかけておいた。追手はこれにだまされ、殿様は危うく難を逃れた。殿様を突き出せば、領民は褒美をもらえたのに、そうしなかったのは、普段から牧野家が領民を大切にしていたから。殿様はこのいきさつを忘れず、今まで以上に領民を大切にしようという決意で、藩旗を「五間梯子」とした、と伝えられている。
(「長岡市政だより」より)

長岡城は信濃川と栖吉(すよし)川が周囲を囲むように自然の外郭を形成し、幾重にも堀を巡らし、大手口門と神田口門を八の字に開いてると見立てて、「八文字構え浮島城」と呼ばれた。また「苧引形兜城」、俗に「兜城」ともいわれている。「苧引」とは築城計画にあたって、春雪の上を1匹の白狐が苧を銜えて跳ね回った跡を縄張りしたとの縁起にもとづき、「兜」は本丸を頂点に次第に低く外郭を設けられた形があたかも兜の鉢金につらなる頸鎧(あかべよろい)のようなところから名づけられた。
牧野氏は三河国牛久保(愛知県豊岡市)の出身で、小領主として周囲の諸勢力に脅かされながら苦難の戦国期を生き抜いてきた。これが、『常在戦場』を家訓とする、質実剛健の藩風をつくりだすこととなった。牧野氏は堀氏ら外様大名の多い越後を中央部において抑える役割を委ねられた。元和6年(1620)には1万石を加増、さらに寛永2年(1625)に新墾田2000石を表高に加えて7万4000石となる。
享保13年(1728)3月27日に起こった「三蔵火事」と称される大火事で本丸から外曲輪にいたる城郭全てが全焼し、城の再建は幕府から7,000両借用して行われ、宝暦4年(1754)までかかった。また、天保15年(1844)10月14日の俊治火事では城門2つ、城塀324間が延焼している。
慶応4年(1868)5月19日、戊辰戦争(北越戦争)によって新政府軍に占領され、落城する。
その後河井継之助らによって、一端奪還されたが、7月29日、再び政府軍の手に落ち、長岡軍は城も領土も放棄して、会津に退くことになった。これらの戦火で、長岡城は焼失することになった。
牧野家家訓
「常在戦場」
越後長岡初代藩主・牧野忠成の祖父 牧野成定が三河国宝飯郡牛久保城※地図の城主であったとき家士の心得として定めた。
戦国時代の牧野家は今川・武田・織田らの大勢力に囲まれており、「常在戦場」(心は常に戦場にあり)を家訓とした。また、功名の機会は、槍働きだけではなく、平時でも、その気になればどこにでも転がっている。いつも戦場にいる気持ちで事に当たれという心構えを著した。河井継之助や山本五十六もこの言葉を好んで使用した。

長岡城は譜代大名の小藩牧野氏が、徳川幕府が安定した時代に、他大名から攻撃を受ける危険性も少なくなってから築城した城である。その規模は小振りで、天守閣もなく、堀も狭く浅く、擁壁には石垣ではなく防御に劣る土塁を配した。一旦攻撃を受けると籠城には不向きな城であった。

長岡城焼失後、城域を復興し、史跡化するすることはなかったが、ここに長岡城下町民の長岡藩牧野家に対する怒りと、不信が見て取れる。会津藩で同じように戦火にあいながら、旧藩士が奔走し若松城跡が復元史跡化されたのと対照的である。
新政府軍は、当初会津藩と庄内藩が討伐の目的であり、長岡藩は最初討伐の対象でなかった。会津藩に対する同情から劣勢な戦力であえて開戦に踏み切り、長岡城再落城まで3回城下が火災に見舞われ焦土化することとなった。
1回目の落城で、藩主牧野忠訓はすぐに会津へ落ち延び、再落城後長岡藩士達はその家族のみををつれて長岡町民を置き去りに会津へ逃げ去った。長岡に残ったのは、焼土だけで、その中で経済的復興が優先された。

長岡城が失われた後、跡地は「遊覧場」と呼ばれ一種の公園の役目を果たしていたが、鉄道敷設の際、停車場設置の候補地となり明治31年(1898)に長岡駅が開業した。現在は城内町、「大手口」などの名称に面影が残るのみである。
市内の悠久山にある城郭風の模擬天守には、旧長岡城の石垣が一部使用されている。

≪長岡城の城主≫
  • 元和2年(1616) 堀直寄が長岡城を築城し、長岡藩を立藩
  • 元和4年(1618) 上野大胡藩の藩主 牧野忠成が入城



🔙戻る

≪三方領地替と新潟町の上知≫

牧野氏には領地替えの命令が幕府から発せられ、立ち消えとなったことがある。

長岡藩領新潟町は日本海側の川湊では随一の町で、長岡藩の財政を潤していた。新潟町は長岡城を築いた堀直竒によって、湊を中心に街づくりがされ、諸大名の蔵米や商人米が陸揚げされ、交易は、北は松前から南は九州に及んだ。
一方で新潟湊は抜け荷(密貿易)の湊としても有名であった。薩摩船などが運んでくる禁制の唐物や天保銭の贋金が湊を経由し、江戸に運ばれていった。長岡藩は新潟町に町奉行を派遣し、財政を担当させたが、抜け荷の摘発には役人の数がたりなかった。
長岡藩では取引に当たって仲金(スアイキン 湊利用税)を徴収した。その仲金の1年間の集計は1万両以上になる年もあって、財政規模は5万両程度の小藩にとっては大きな収入源であった。

天保(1830~44)の頃になると抜け荷が大掛かりとなり、幕府の役人の関八州取締役が新潟に出張するという事態が起きていた。幕府の評定所でも抜け荷事件を採決するようになっていた。
老中水野忠邦は文政13年(1830)、後に新潟奉行となる川村清兵衛(川村修就)を隠密として派遣し長岡藩を調べさせている。
清兵衛は飴売りに身をやつし、鉦を叩きながら市中を徘徊し、実情を探索したという。調べた結果、長岡藩は表高74,000石であるが、実高は新潟湊のおかげで12万5000石の収入があると報告した。
また、抜け荷(密貿易)が頻繁に行われているが、長岡藩は抜け荷を取り締まらないばかりか、その利益を得ていることが明白だという報国を、水野忠邦に上申したのである。
忠邦は幕府の財政が逼迫する中、確実に収入の見込める新潟町を長岡藩から上知し天領とする画策をはかる。

天保6年(1835)に新潟唐物抜荷事件が発生し、禁制品(唐薬種、唐織物など)四十数品目を満載していた薩摩の船が村松浜(現胎内市)で転覆し打ち揚げられたことから、抜け荷が明るみに出るという事件が発生し、新潟町の富商13人が江戸送りとなり幕府により取り調べられ、天保10年(1839)に裁きがくだる。長岡藩には表立って咎めはなかった(第1回唐物抜荷事件)。
天保11年(1840)、新潟町大川前通回船問屋小川屋金右衛門が石州船の密載した唐物を売買、事件発覚とともに、金右衛門以下15名が新潟町奉行所の尋問を受け入牢した(第2回唐物抜荷事件)。

こうした中、天保11年(1840)川越藩松平氏を庄内藩へ、庄内藩酒井氏を長岡藩へ、長岡藩牧野氏を川越藩へ移動させる、三方領地替が幕府から命じられた。
川越藩は表高15万石であるが実高は4~5万石しかなく、松平氏は度重なる転封により借財が23万6千余両もあり、財政難に苦しみ、幕府に泣きついて庄内藩への移動を頼み込んだ。一方の庄内藩は表高14万石、実高は19万石の豊かな藩である。この話は庄内藩の領民たちが、酒井氏の移動に反対し、江戸の奉行所に訴え出たり、一揆まで行って反対した。幕府内では話を進めた忠邦への不満や、将軍の代替わりなどがあってこの話は立ち消えとなった。幕府の命令が事実上破棄されるという前代未聞の事態となった。

天保14年(1843)6月11日、新潟が日本海沿岸の海上交通の重要地点であり、異国船に備えた海岸防衛を強化し、商品の流れを把握し、幕府権威の再確認をするという表向きの理由をつけ忠邦は新潟湊を上知し天領とした。
長岡藩にはかわりに高梨村(現小千谷市)600石を与えた。抜荷を取り締まれなかった長岡藩は文句もつけられず、新潟町には、川村清兵衛が奉行として派遣された。莫大な損失を蒙った長岡藩は、たちまち財政破綻に追い込まれた。
時の藩主牧野忠雅の父忠精は先の将軍家斉の下で幕府の重臣を務め、忠邦に批判的であり寛政の遺老といわれていた。水野忠邦からは改革を妨げる元凶と見られていたことが、上知につながったといわれる。三方領地替えは牧野家に対するいやがらせだった可能性がある。また寛政の遺老たちの失政によって幕府財政に与えた損失の一部を上知によって牧野家に負担させたともいえる。
この年11月、牧野忠雅は海防担当の老中に任じられている。新潟湊を取り上げられ、内陸の小藩となった長岡藩にとっては皮肉な話である。

🔙戻る


≪長岡藩の戊辰戦争≫ へ

























家康の周囲には異能異才の者たちがいた。行商人ワタリの情報と絶対的な忠義で仕えた島居元忠、馬上の局と呼ばれ戦場にまで赴いた阿茶の局、「利は義なり」の志で富をもたらした角倉了以など七人を描く傑作短篇小説集。牧野忠成は戦の大失態の後、影働きで功を上げた。常在戦場、手柄は合戦場の外にもあるのだ。