長岡城跡 Nagaoka Castle trace 長岡市



長岡城 長岡藩の戊辰戦争 長岡城落城 今町の戦い

≪長岡城落城≫

(長州藩信濃川渡河作戦)

5月10日に始まった榎峠・朝日山をめぐる戦いは、同盟軍側の奮戦で膠着状態となっていた。しかし、新政府軍側は兵の増援が行われ、攻撃も激しくなってきて、同盟軍も動きがとれなくなっていた。
山縣のもとに、戦死した長州藩仮参謀時山直八の後任として、奇兵隊参謀の三好軍太郎が到着し、信濃川を強行渡河して一気に長岡城を攻略する作戦を提案した。
山縣は朝日山・榎峠の膠着した戦線を打開する方策を検討していたので、この案を強く支持し、関原の海道軍本営に戻り、諸藩各隊の隊長を集め説明した。淵辺直右衛門ら薩摩藩は、先の朝日山の戦闘で、長州藩の抜け駆けで失敗し、多数の死傷者がでたことで、長州立案の奇襲作戦に対し不満を表明した。

5月16日、薩摩藩、長州藩の軍は長岡本大島と槙下を攻略し、信濃川左岸に到達し、対岸の長岡兵に砲撃を始めた。
山縣は岩村誠一郎をともなって、病気で柏崎の本営に戻っていた参謀黒田を訪ね、奇襲作戦を説明し了解を求めた。黒田は渡河作戦そのものには理解を示したが、あくまで薩長同時進行を主張した。山縣は薩長の融和を重視し、一端渡河作戦を再考すると、三好宛に書状を送った。
しかし三好軍太郎は、長州単独でも渡河を実行し、朝日山の敗戦の恨みを晴らそうと意を決していた。

長岡藩が開戦にあたり、信濃川につながれた船をすべて押収していたので渡河に利用できる舟がなかった。三好軍太郎は新政府に恭順の意志を示していた与板藩に対して、舟の提供を求めた。与板藩は大坂屋三輪家、扇屋中川家など御用商人に命じ下流域から舟を集めてきた。

5月18日、三好軍太郎は小人数で渡河を試みたが、長岡藩兵に銃撃を受け、この時は撤退した。
信濃川右岸には、長岡藩兵は老兵を中心に六小隊、約300人が警備していた。南北10kmにわたる長い沿岸を守るには、兵の数が少なすぎた。しかしこの年の越後は天候不順で、大雨が続いたため信濃川は増水し濁流となっており、渡河は簡単ではないと思われた。
この時、長岡藩野戦本営の光福寺から河井継之助が様子を見にきたという。継之助もこの時、藩で押収し前島村に潜ませた舟を使って牧野図書指揮の一大隊半600名を対岸に送り込み、小千谷の本営を攻撃する奇襲攻撃を考えていたという。

5月19日払暁、本大島村の西軍砲陣地からの砲撃がにわかに激しくなった。この朝川霧が発生した。1m先が見えないほどであったことから奇襲戦には格好の条件となった。長州藩三好軍太郎は薩摩藩と連携せず独断で、堀潜太郎の奇兵隊三番小隊と、報国隊参謀熊野直介のもと、参謀内藤芳介の長府藩報国隊二番隊、木村安八の報国四番隊を率いて、本大島村の渡し場から、七艘の小舟に乗り込み渡河戦に挑んだ。その兵士はおよそ100余名。幕末の数年間、徳川幕府との歴戦を戦い抜いてきた兵士たちであった。舟に乗り込む奇兵隊士たちは、朝日山で無念の死を遂げた奇兵隊参謀時山直八の恨みを晴らそうと決死の覚悟であった。上陸が成功すれば、高田藩兵若狭大隊400名、加賀藩兵2個中隊200名が続く手筈となっていた。

長岡藩河井継之助はこれまで実戦経験がなく、大雨による信濃川の増水に頼り切って、まさか増水した河を、決死の覚悟で渡河する兵士がいるとは思わず危機感が薄かった。また渡河の時期は河の水が減水するまで、まだ時間があると考え、それまでに小千谷の新政府軍本陣を急襲しようと考えていたと思われる。

(長岡城落城と長岡藩兵の撤退)

長州藩兵は川霧の中、対岸の寺島飛び地の中島に上陸した。この時、中島の堡塁を守っていたのは長岡藩毛利幾右衛門隊の20名ほどの老兵であった。毛利隊はしばらく支えていたが、背後の民家に火がかかると城の方へ向かって敗走した。
奇襲隊は上陸地で二隊に別れ長岡城下に攻め込んでいった。一隊は中島の兵学所にむかい150名くらいの少年兵からなる予備隊と戦った。これまで戦闘を経験したことのない予備隊は、歴戦の新政府軍兵士に押されて兵学所を焼き、神田口御門まで後退した。
もう一隊は直接城下に向かい、途中、民家に次々と放火した。そのため市中は逃げ惑う人々によって大混乱となった。

維新の暁鐘

長州兵が中島へ上陸したことを知った長岡藩兵が西福寺に駆けつけて「敵襲来」と合図の鐘を力の限り突き続けた。
鐘楼の下では、長州藩兵との斬りあいが行われると、寺僧が代わって鐘を突き続けた。
後の時代、長岡にとって、近代の夜明けを告げたことから「維新の暁鐘」と呼ばれるようになった。

鐘楼下に歌人相馬御風の歌碑がある。
「よはあけぬ、佐免 ( さめ )よ起こせよ津久可弥 ( つくかね )の、ひび ( )とゝも ( )知里志 ( ちりし )はなや 御風」


信濃川左岸の槙下村に屯集していた薩摩藩兵は長州藩兵が渡河に成功したらしいことを察知し、先を越されたと対抗意識にかられ、隊長淵辺直右衛門に率いられた外城三番隊は、すぐさま対岸へ向かい蔵王堂付近で上陸を開始した。付近を警備していた長岡藩兵は中島へ加勢めため移動したのでやすやすと上陸できた。長岡城下の神田口、内川口、渡里町口の三方から長岡城の大手口を目指して進軍した。長州に遅れをとった薩摩藩兵の攻撃は、鬼気迫るものがあったという。

長岡藩兵は不利を悟り、長岡城に籠城を決し、城内へ向かって敗走した。家老牧野図書の指示は、藩主とその一族は逃げることができたことから、一旦城を捨て、態勢を立て直すことを指示した。長岡藩兵は城東の東山方面に敗走した。
摂田屋村の本陣にいた総督河井継之助は、新政府軍進攻の報を聞くと、直属の望月忠之丞隊をつれ、ガトリング砲一門をもって城下に入り、大手門口にガトリング砲を据えてみずから操作して反撃したという。しかし、左肩に小銃弾が命中したので砲を放棄し、各隊に指示をしたのち城東の東山へ逃れた。逃げる時、城に火をかけ、弾薬庫も爆破した。また敗走の途中、長岡市中の民家に放火しながら撤退した。
朝日山・榎峠の戦場の東軍兵士たちのもとに、長岡城の攻撃を知らせる報せが入ると、一部部隊は長岡城救援に向かったが、長岡藩軍事掛川島億二郎・会津藩佐川官兵衛らの指示に従い、その夜から翌朝にかけ、各隊は粛然と東山連峰に退却した。

新政府軍征討軍先鋒は、長岡藩兵が逃げ去った後に長岡城に入城し、本営をここに移した。

長岡城下を脱出してきた長岡藩兵や家族は、東山連峰悠久山に集結した。退却した河井継之助はここに仮本営を置き、敗走して来る人々を待ち、夜に入って、森立峠を越え、長岡藩領栃尾へ落ち延びた。総督河井継之助は、森立峠で黒煙を上げている長岡城を見て涙を流し、必ず城の奪還をすると宣言した。大隊長山本帯刀の母で安田弓子は、開戦しても負けることはないと語っていた継之助を責めたとされる。

森立峠を越えて栃尾に敗走した長岡藩兵は、栃尾の東方三里の地にある葎谷(むぐらたに)に後退した。
会津藩の主力、桑名藩兵、衝鋒隊等同盟軍兵士は5月21日に栃尾に到着した。
同21日長岡軍の河井継之助は栃尾、葎谷にいた諸隊を率いて、態勢を立て直すため桑名藩領加茂に移動した。

同21日、新政府軍は主力をもって森立峠、浦瀬、見附、今町を占領して、部隊を配置し、同盟軍の反撃を阻止することにした。
しかし、奇襲作戦は成功したが、長州兵の抜け駆けで実行されたことから、ますます薩摩藩の不信感を増す結果となった。
今後、ことごとく征討軍内で薩・長の意見が対立する一方で、総督府は現場の対立を収めるのに腐心し、越後国内の征討がすすまない一因となった。

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信濃川長生橋 奥右方が本大島村付近手前左方が中島方面 @にいがたLIVEカメラ


















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