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長岡城跡 Nagaoka Castle trace 長岡市



長岡城 長岡藩の戊辰戦争 長岡城落城 今町の戦い 八丁沖の戦い 榎峠の戦い

≪長岡藩の戊辰戦争≫

(幕末の長岡藩)

10代藩主牧野忠雅は京都所司代から老中となり、嘉永6年(1853)ペリー来航の時には海岸防備の重責にあり、安政条約には老中として署名した。その養子11代忠恭もまた京都所司代から老中となった。文久2年(1862)会津藩主松平容保が京都守護職に任命され、会津藩士・新選組等によって討幕派浪士の取り締まりや治安維持が行われ、また公武一和をはかって種々の画策がおこなわれたが、このとき忠恭は松平容保に直隷して補佐の任務を果たした。
しかし、文久3年(1863)6月11日、長岡藩のような小藩では京都の騒乱には対応できないとして辞職。その後9月13日老中に就任。
慶応3年(1867)7月11日、忠恭は隠居して雪堂と号し、戊辰戦争時はその養子12代忠訓が長岡藩主であった。10代藩主忠雅・11代藩主忠恭は動乱に巻き込まれ動揺する徳川幕府を支えるため、河井継之助を抜擢し、小藩ではあるが長岡藩の藩政改革と富国強兵をはかった。
慶応3年(1867)は豊作で、収納米は13万俵余あり、金銀も多く集まった。当時長岡藩の表高は7万4千石であったが、新田開発等によりその総高は14万石以上であった。慶応4年(1868)6月3日現在の長岡藩の在庫金は114,829両2分3朱である。

(王政復古と鳥羽・伏見の戦)

慶応3年(1867)10月14日、公武合体派の中心であった前土佐藩主山内容堂の建言によって徳川慶喜は大政奉還を申し出た。大政奉還によって成立した新政府は幕府を廃止するとともに、施政の具体的な準備がなかったので、列公会議にはかろうと10月15日と21日に、全国の諸大名に上京を命じた。
全国218藩のうち朝命に従って上京した諸侯は17藩のみで、他の多くの諸藩は変動する政局に、その動向を見極めかね、形勢を様子見していたのである。
長岡藩主牧野忠訓は幕府目付であった長岡藩士鵜殿団次郎らが、時世を見て対処すべきと反対する中、河井継之助の進言を聞き、11月25日、60余人の藩士を従えて、品川沖で幕府の軍艦順動丸に乗って、11月29日、兵庫湊に上陸した。
12月9日、朝廷の強硬派は薩摩の藩兵に守られて、王政復古を宣言し将軍慶喜の辞官納地を強行した。12月13日、慶喜は京都守護職の松平容保・所司代の松平定敬らを伴って京都を出立し、大坂城へ入った。
藩主忠訓は、大阪で京都の様子を伺っていたが、12月22日、河井継之助は意を決して、藩主の名代となり、副使の三間市之進を伴って上京し御所の議定所へ出頭し、建白書を提出する。継之助が起草したもので、内容は、「姦雄は、巧みに尊王の名を借り、西洋にならって変革の説を唱え、深い考えもなく、自己の名利に走り、天下の騒乱を引き起こそうとしている。徳川氏は数百年間の泰平を維持してきた実績は伴国無比で、これまでどおり万事、幕府に委任なさるべきである。」などと述べている。
この時期、御所内は混乱していて返答を得ることはできず、12月29日、大坂城へ引き返す。
慶応4年(1868)1月3日、鳥羽伏見の戦いが始まり、幕府側が不利と知ると、1月6日、慶喜は軍を捨て江戸に逃走した。長岡藩の牧野忠訓と河井継之助主従は大阪・玉津橋で警備についていたが1月7日、大坂城を出発し、江戸に向かう。1月23日、忠訓一行は江戸へ到着した。
鳥羽伏見で薩長軍が勝利すると、朝廷は1月4日に征夷大将軍を、ついで、東海道はじめ各道の鎮撫総督を任命した。北陸道の総督(のちに先鋒総督兼鎮撫使)は従三位高倉永祜、副総督は従五位下四条隆平であった。
高倉らは京都進発に先立って、王政復古につき、人心の不安を解き、勤王の誠を示すようにと、詔勅を要約した勅書を北陸道の諸大名に継ぎ送りさせた。
2月7日、与板藩より勅書が到着する。町会所に案内して勅書を受け取り、忠訓不在のため、前藩主忠恭がこれを拝見したのち、20名の護衛を付けて三根山藩へ送った。3月10日請書を提出した。(☛ 河井継之助)

(西洋式軍制の採用と禄高改正)

2月20日、長岡藩主牧野忠訓一行が鳥羽伏見の戦いの帰趨を見て江戸を発つ。河井継之助は後に残り、江戸藩邸や家宝などを処分し、武器購入を行い、その後横浜から船で長岡に向かうこととなった。
3月1日、長岡藩主牧野忠訓一行が三国街道を通って長岡に戻った。
3月2日、忠訓は藩士に総登城を命じ、古来の軍制を棄てて、銃隊に組み立てると告げ、兵制に関する申し渡しが行われた。西洋式軍制については、鵜殿団次郎が建言を行っていたが、鳥羽伏見での幕府軍の敗退によって、兵制の改革は待ったなしとなった。
長岡藩では11代藩主忠恭のころから軍備の増強を進め、軍事訓練が行われていた。河井継之助が徹底的にこれを進めた。河井は殿町にあった前藩主の隠居所を兵学所にあて、城西にある中島の操練場とともに、もっぱらフランス式の軍事訓練場とした。この訓練には一般の藩士だけでなく、番頭・奉行・家老までも出席させ、伝習を受けさせた。しかし、フランス式の軍事訓練には反対者も多かった。
忠訓は江戸にいた1ヶ月間に、河井継之助らを交えて検討し、否応なく西洋式軍制に切り替えることとなった。
今後は、銃隊を中心に隊の編成を行っていくので、槍・長刀の稽古は廃止し、銃の扱いに上達するよう求められた。また、これまで必要とされた従者や、槍持ちは不要とされた。また新たに軍服を調達することはせず、そぎ袖羽織・細袴の類は軍服として用いることとした。軍糧食は城下の菓子商に命じて食麺麭(パン)を製造させ、これらを利用した。
こうして、長岡藩兵は銃士・卒合わせて1300余名が3大隊・23小隊に編成された。
兵制の改革と同時に禄高の改正も行われた。これは稲垣平助家の2000石を筆頭とする藩士から足軽に至るまでの禄高を、100石を中心に平均化すると言うものであった。稲垣平助家は長岡藩随一の門閥・名門で永代家老であったが、前藩主忠恭とそりが合わず、500石に減地された。また家老に仕える家来(陪臣)を廃止して、藩の直臣の藩士とした。

(恭順か抗戦か)

3月15日、若狭小浜藩と芸州藩の兵を率いて北陸道鎮撫使らが高田に到着し、越後11藩に対して兵士の供出と、朝廷に対する恭順の誓約書を求めた。
3月16日、河井継之助が帰藩途上で不在であったため、藩は重臣の植田十兵衛を派遣した。総督は、佐幕色が強く朝敵となる恐れの強かった長岡藩に対して、特別に呼び出し、兵員の提供と藩主の誓約書の提出を求めた。強硬に返答を求める総督に対し、植田十兵衛は家老河井継之助の不在を理由に即答を避け、出兵の要請を藩庁に通知し、各藩の重臣と共に北陸道先鋒総督一行に従い江戸へ向かった。
3月末に家老の河井継之助が江戸から帰り、翌々日の4月1日藩士に総登城を命じた。本丸の大広間には藩主の忠訓と前藩主の忠恭が臨席し、その側に河井が着席した。河井は藩主に代わって、長岡藩は小藩ではあるが、たとえ一藩孤立しても、徳川から受けた恩に報い。義理を果たす考えである。と述べた。
恭順派はこれに対して抗議を行い、抗戦を主張する佐幕派藩士と論争となった。
この時佐幕派は河井継之助・山本帯刀・牧野市右衛門・稲垣主税・奉行格の花輪求馬・三間市之進らであった。これに対して、恭順派は、忠恭によって家老職を解かれた稲垣平助・安田杢・安田鉚蔵らと藩校崇徳館の教授たちであった。
4月4日、江戸に到着した先鋒総督は、出兵を渋る長岡の植田十兵衛に、出兵に変えて3万両の献金を要求した。植田は、急ぎ帰国し献金による解決を主張したが、藩内はまたも賛否の二派に分裂した。
河井継之助は、新政府軍が近くにきてから嘆願しても遅くはない。出兵・献金問題はすべて河井の責任で棚上げにすることとなった。しかしこの長岡藩の対応は総督の疑念をますます募らせ、朝敵視されていた長岡藩の立場を一層悪化させた。

(新政府軍の進撃)

閏4月16日ころ北陸道鎮撫総督兼会津征討総督高倉永祜と北陸道鎮撫総督府参謀山県狂介、黒田了介が率いる薩摩・長州藩兵らは、海路直江津に上陸し、続々と高田城下に集結した。
閏4月19日、北陸道軍を本隊の海道軍と山道軍に二分し、長岡城下に向かって進発した。
閏4月26日、小千谷の南方、芋坂・雪峠で北上してきた山道軍と会津藩兵・衝鋒隊が衝突した。(☛ 雪峠の戦い)
閏4月28日朝五ツ時(午前9時)頃、佐川官兵衛を指揮官とする400名の会津藩兵が長岡渡町妙念寺に滞陣し、継之助との会談を求める。同日、長岡藩野戦本陣がおかれた光福寺で会談が行われた。佐川は奥羽列藩同盟へ加盟するよう強く申し入れをおこなった。一方河井は、自藩の中立政策を説明し、同盟参加は否定した。また会津軍が長岡藩領から立ち退かなければ攻撃する旨忠告した。

(長岡藩の開戦の決断)

閏4月26日、藩主の忠訓は河井継之助を軍事総督に任命した。河井は、諸隊士を兵学所に招集し、忠恭・忠訓臨席のもと、事態の容易ならぬことを説き、誠心誠意領民を保護し、民心の動揺を抑え、朝廷の意志に反しないよう、しかも徳川家への義理を尽くすことが長岡藩のとるべき道であると論じ、非常の決意をもって努力するよう激励した。
ついで、長岡軍の本営を城南約4kmの地にある摂田屋村の光福寺に定め、家老山本帯刀の率いる1大隊(280余人)を派遣し、さらに翌27日、牧野図書の指揮する1大隊も城南に進駐させ、さらに、長岡の西南草生津村に2小隊、城北の下条村に2小隊、其の他長岡周辺に3小隊を派遣して藩境の警固に努めた。
長岡軍の編成は、軍事総督河井継之助の下には大隊長山本帯刀・牧野図書・軍監萩原要人・花輪求馬・三間市之進らがあり、大川市左衛門・稲垣林四郎・安田多膳・九里磯太夫ら19名の隊長があった。
しかし、河井は27日山道軍が小千谷を占領し、海道軍も28日柏崎を占領すると、南方警備に派遣した部隊に撤退を命じた。

(小千谷談判)

5月1日長岡藩は、恭順を斡旋する尾張藩の仲介で、用人花輪彦左衛門を小千谷の新政府軍本営に派遣し、嘆願のため重役を参上させたいと申し入れて許可を得た。花輪に対する征討軍の待遇はきわめて厚く、新政府軍に協力するよう説得した。この復命を受けた河井は、かねて守備していた三国街道の要衝榎峠から長岡藩兵を撤退させ、新政府軍と戦う意思のないことを表明した。
5月2日の早朝、河井継之助は藩士二見虎三郎と従僕を伴って新政府軍本陣の小千谷陣屋に赴いた。この時、会津軍が片貝村にむけ進軍中という一報が入り、対応の為陣屋内は混雑し騒々しかった。
会談の場所を変え、河井継之助と山道軍軍監岩村精一郎との会見・談判が、薩摩藩の宿陣所となっていた慈眼寺でおこなわれることとなった。河井継之助はこの会見には、長岡藩の和戦向背、そのいずれかの運命を賭け、決死の覚悟で臨んだ。
河井は、これまで北陸道総督府からの「国力相当の出兵」か「軍資金三万両の献金」かのどちらの命令にも従わなかったことを釈明して詫びるとともに、長岡藩に戦意の無いことを説明した。いまだに藩論の統一ができないのでもうしばらく時日を貸してほしいこと、小藩ではあるが会津・米沢等の説得に努めることなどを述べ、藩主忠訓の嘆願書を差し出した。
軍監岩村は、長岡藩が、戦備のための時を稼ぐ謀略と考えて、これまで、国力相応の出兵や3万両献金の朝命にも応じなかった不都合な態度や、洋式兵器を大量に買入れ、日夜練兵に励んでいる不審な行動などを、いちいち数え上げて、激しく責立て、応じなければ戦端を開くしかなく、まして嘆願書を総督府に取り次ぐ必要などないと答えた。また「新政府軍は長岡領を進軍する、もしこれを拒もうとするなら兵馬の上で相まみえよう」と言い切って嘆願書を却下した。
こうして小千谷の会談はわずか30分で決裂してしまった。 もともと、新政府軍は、京都を進発するときから、長岡藩は徳川体制の維持をはかろうとする建白書を提出、その後の朝命にも応じないなど、反朝廷色の強い藩としてとらえていた。止むを得ざる場合、長岡藩との交戦も致し方ないと考えていた。また長岡藩が小藩であることから、戦端が開かれても、容易に攻略できると考え、岩村の安易な対応もそれに準じていた。
朝廷内で主導権を握った討幕派は、鳥羽・伏見の戦勝以来、迅速機敏に軍事行動を起こし、地方に鎮撫総督を任命した。様子を伺っていた西国諸藩は、雪崩を打ったように新政府に恭順を表明した。一方、東国は季節が冬季であったため、直に軍事行動できず、各藩に対応の猶予をを与えることとなった。それだけ徳川氏の強い力が残存し、幕藩的な名分論が根強く温存される結果になった。この古い幕藩的名分論を払しょくし、新政府の元新たな体制を打ち立てる為、奥羽越諸藩に対しは、あらゆる止戦の建白・嘆願を無視し、中立を標榜し新政府と距離をとる藩に対してはこれを許さず、恭順か戦争か二者択一を迫り、断乎とした軍事行動をとることが必要であった。
河井はあきらめきれず、再度の会見を求めたが果たせなかった。

翌5月3日、帰藩して、前島の警備を指揮していた非戦論者の三島億二郎を訪ねて密議を凝らした。河井は徹底抗戦の決意を述べ、2人は協力して藩事に合すことに決し、ともに摂田屋の本陣に向かった。そして光福寺に諸隊長を集め開戦の決意を述べた。これが世に言われる北越戊辰戦争の発端となった。
5月4日、長岡藩は、奥羽越列藩同盟に加盟する旨を会津藩家老佐川官兵衛に伝える。(☛ 佐川官兵衛 岩村精一郎)

(尾張藩の仲介)

尾張藩は新政府軍の中でも特異の存在であった。徳川御三家の一つであるにもかかわらず新政府側に立って宗家徳川家の存続に腐心した。藩主の父親で前藩主の慶勝は藩の実力者として、藩内の佐幕派を徹底的に弾圧している。慶勝は東海道・中山道沿道の譜代大名・旗本に恭順を勧め、東征軍が大きな戦闘なく江戸へ向けて進軍できたのは慶勝の働きが大きかった。戦備を整えた長岡藩と戦うことは、会津征討の時期がいちじるしく遅れる恐れがあり、長岡藩領を無事通過できるよう、仲介の労をとったという。小千谷談判が決裂したあとも、尾張藩は交渉の機会を探ろうとしていた。
5月9日、偶然六日市村で継之助の密偵渋木成三郎と接触し、継之助との面談を申し入れた。渋木は摂田屋で継之助に伝えたが、この時期は既に藩論は交戦に決しており、遅きに失した。5月10日、長岡藩は榎峠を攻撃し開戦した。長岡藩の一隊が返事を貰おうと六日市村に現れた尾張の使者を捕縛し長岡に護送している。

(長岡藩の開戦)

5月9日、列藩同盟側では長岡城中に、会津藩、桑名藩家、衝鉾隊の首脳部が集まり、長岡城下からおよそ13km、南にある榎峠を奪還し、新政府軍の進攻に先制攻撃をかける作戦案をまとめた。
5月10日、長岡藩兵が、信濃川沿いの断崖上にある榎峠を奪還するため新政府軍を攻撃し、長岡藩の戊辰戦争が始まる。 長岡藩兵にとっては、初めての実戦としての戦闘となった。また峠を奪還された北陸鎮撫軍にとっては、初めての敗北となった戦いである。(☛ 榎峠・朝日山の戦い)

(長岡城落城)

5月14日になると、新政府軍が関原村にはいり、翌15日には信濃川河畔本大島村に進出し、16日正午、加賀藩陣地の大砲が、城下に向かって砲撃を開始した。初弾は城下柳原町の菓子商大和屋の前倉に落下し爆発して、人々を驚かせた。
翌17日には、槇下村に布陣した薩摩藩も砲撃を開始した。長岡藩兵は土手に堡塁を築いてこれに応戦し、18日午後3時、大雨で増水した信濃川を強行渡河しようとした長州兵を撃退した。
5月19日、午前4時、新政府軍陣地からの砲撃がいっそう激しくなり、次いで三好軍太郎の率いる長州兵と長府藩が7艘の舟で濃霧の中、本大島村から渡河を決行し寺島村に上陸した。薩摩藩の外城隊も、蔵王付近から長岡城下に迫った。
長岡藩は三国街道の要衝朝日山方面に主力を展開させ、新政府軍が信濃川を渡河し攻撃を仕掛けることを予想しておらず、河畔には僅かな兵しか配置していなかった。
不意を突かれた長岡藩家老牧野図書は藩主忠訓とその家族を退かせると、長岡藩兵に対しても城を捨てて再起を計るよう指示した。摂田屋の本陣で指揮をとっていた軍事総督河井継之助は、悠久山に仮本営をおき敗走兵とその家族をまとめて森立(もったて) 峠※地図 を越えて長岡から栃尾に入った。その数は3千といわれる。峠では燃える長岡城を眺めて、後の軍議を練り、城の奪還を兵たちに宣言したという。
新政府軍との交戦が行われている時、市中に滞陣していた村松藩兵が裏切ったという流言が飛び、挟み撃ちになることを恐れ、栃尾への撤退を早めたという。(☛ 村松藩)
5月21日、藩主一行は、会津に向かったが、軍事総督の河井継之助は藩兵をまとめて、同盟軍が集結する桑名藩領加茂へ退き再起をはかった。
榎峠、朝日山方面にいた同盟軍は落城を知って、村松村から半蔵金村を経て、栃尾郷へ撤退した。長岡城は17の城門・13の隅櫓、本丸御殿・役所などの建物などほとんどを焼失した。
5月19日、新政府軍は落城した長岡城に入城したが、城内を使うことができず焼け残った神田町の商家を本営とした。5月24日新政府軍は栃尾に入り、本営を検断役富川家※地図に置いた。(☛長岡城落城)

(牧野忠訓)

長岡藩主牧野忠訓、前藩主忠恭などの一族は、長岡藩が新政府軍と開戦すると、長岡東方にある栖吉村の普済寺※地図に避難していた。
5月19日、長岡城が落城すると森立峠を越えて栃尾から葎谷に至り、吉ヶ平の庄屋椿家で1泊した。翌20日、さらにそこから八十里越を越えて会津藩領の只見に入った。ここで一行80名中、60名を長岡軍本隊に返した。只見村原の名主新国多門宅で5日間滞在し、その後会津若松に入り、建福寺※地図 に滞在した。建福寺は高遠藩主保科家が会津に入封された際創建された寺である。
8月22日、戦死した河井継之助の葬儀が建福寺で執り行われ、長岡藩主牧野忠訓の他に会津藩主松平容保や重臣も出席したという。
同日、新政府軍が会津城下に迫る中、牧野忠訓一行は、会津を離れ、当初越後で列藩同盟の盟主であった米沢藩を頼ったが、新政府軍が城下に迫っており、方向転換して仙台藩に向かった。この時期、米沢藩は水面下で、新政府と降伏の交渉をしており、忠訓は入国を拒否されたと思われる。
9月8日に、漸く仙台に到着している。ひ弱な躰の忠訓にとってこの旅は肉体的にも、精神的にもかなり過酷なものであった。この時、家老牧野図書と三島億二郎が同行したといわれている。
9月23日,会津藩降伏の翌日、牧野忠訓が米沢にあった総督府に出向き降伏を申し出る。これにより、会津藩領や庄内藩領で戦い続けていた長岡藩兵は武器を置くこととなった。
忠訓は牧野家の支藩の笠間藩(常陸国)牧野(金丸)家江戸藩邸で謹慎処分となった。また長岡藩は所領、官位共に没収とされてしまった。謹慎が解かれた後、忠訓は長岡に戻って32歳で没する。

🤩飯森山白虎隊士自刃の生き残り飯沼貞吉のエピソード
8月23日の早朝4時頃、白虎二番士中隊の16名は、飯盛山に至り自刃を決意した。飯沼貞吉も、遅れじと咽喉に脇差を突き立てたが死にきれずにいた。
貞吉は、探しに来た縁者によって助けられ、医者を求めて塩川(現喜多方市)に辿り着き、近江屋という醸造業を営む深田文内宅に匿われた。24日午前中、町医者の三本住庵が疵口を縫い合わせ、膏薬をはって応急手当をした。疵口の痛みは取れなかった。
夕刻に、上杉米沢藩に向かう長岡藩主一行200人が塩川で休憩した。その中に長岡藩の軍医阿部宗達、吉見雲台が帯同していた。阿部等は事情を聞いて、貞吉の疵口を診、三本住庵が縫った糸を全部取り除き、疵口を洗滌し治療をし直したので貞吉は一命をとり留めた。

(加茂軍議)

この後同盟軍は栃尾郷に集結して、長岡・会津・桑名藩が協議し、5月21日桑名藩預所の加茂に本拠を移した。
5月22日の正午過ぎに、米沢藩が本陣とした、加茂の大庄屋市川邸におかれた加茂会議所で軍議が開かれ、米沢藩・会津藩・長岡藩・桑名藩・上ノ山藩・村上藩・村松藩の各藩が出席した。
長岡藩は軍事総督の河井継之助が出席し、まず進撃して見附を占領し、次いで長岡城を奪還しようと強く主張し、他藩の協力を要請した。しかし諸藩では、長岡城を奪還できても、その後の総合的な戦略を見通せないことから簡単に意志統一できなかった。また、同盟軍の総督を米沢藩が断ったことから総指揮官がいないく、各藩それぞれ、意見を持つ烏合の衆となっていた。
会合は翌日も行われ、会津藩佐川官兵衛の支持もあり、見附を攻略し、長岡城奪還に向かう河井継之助の主張が通るような形でまとまった。米沢藩の甘糟参謀の提案で、列藩 同盟軍を三軍に分け、米沢・会津兵が大面から見附へ、会津・桑名兵が三条から信濃川を渡り与板へ、長岡 ・村松兵が下田から栃尾・見附に向かうという作戦が決まった。この会議の後、米沢藩や庄内藩など奥羽越列藩同盟加盟藩から続々援兵が到着する。
5月24日、軍議の決定に従い、長岡藩の総勢およそ900名は栃尾口に向かった。杉沢村から見附に侵入を試みた会津軍に加勢し、激戦となったが、新政府軍の守備は固く敗退した。この戦いで長岡藩では戦死2人・負傷1人を出した。(杉沢の戦い)
防衛線が伸びて守備が手薄となった新政府軍に比べ、兵員数では同盟軍が有利であったが、新政府軍が見附、杤尾の守備に薩長の精鋭兵を配置し、必死に防戦した為、戦闘は激戦となり、見附攻略は困難を極めた。

(今町の戦い)

5月27日、新政府軍は三条から長岡に向かう街道で交通の要衝であった今町に進出、永閑寺に本営を設け、薩摩・高田・長州・上田・尾州藩兵や方義隊などを配して、加茂に退いた列藩同盟軍に備えた。
一方、長岡城奪還を目指す同盟軍は加茂で態勢を立て直しをはかり、長岡藩軍事総督河井継之助の作戦に基づき、新政府軍の防衛線の両端である与板方面と見附方面で激戦となり、新政府軍の主力部隊が手を離せない状態となっている隙を狙い、長岡に達する街道の要衝今町を奪還し、中央突破を図る乾坤一擲の作戦を立てた。
5月28日、加茂の本営にいた河井継之助は、密に長岡藩兵の主力を栃尾方面から加茂へ呼び寄せ、今町の新政府軍の本営を攻略する作戦を告げた。
6月2日、大面本道を進んだ山本帯刀率いる牽制隊200名は、坂井口を守備していた高田藩、上田藩ほか新政府軍およそ100名に対し早朝から攻撃を開始した。これを主力と勘違いした新政府軍は応援を送り激しい戦闘となった。一方河井の指揮する主力軍は、正午過ぎに安田口の新政府軍を側面から攻撃し敗走させている。両軍あわせて60人余りの戦死者を出し、夕刻には各方面の新政府軍は、全部見附・長岡方面に敗走し、同盟軍は今町・中之島に入った。長岡藩では戦死6人・負傷6人を出した。
今町戦争で敗北した政府軍は、今町・中之島を失って、見附や赤坂・杉沢・栃尾方面だけが同盟軍の占領地に突き出した形となっており、孤立の危険があり撤退した。政府軍は、当座の戦略を長岡城の守りに方針を変更していた。
6月3日、同盟軍は見附町を占領。
6月4日、長岡藩の主力部隊は、牧野頼母・三島億次郎指揮のもとに、自藩領栃尾に復帰した。
6月6日、同盟軍は押切・大曲戸・福井・百束・四ツ屋の村々に進出。新政府軍は、川辺ー大黒ー福島ー浦瀬ー半蔵金を結ぶ線を前線とし、要所に築いた堡塁で同盟軍と対峙するようになった。(☛ 今町の戦い 山本帯刀)

(同盟軍の攻勢)

奥羽越列藩同盟が組織として機能するのは、今町の戦いに勝利した後である。
6月6日、米沢藩主上杉斉憲が会津藩と相談の上、1000余名の兵を率いて越後上関(現関川村上関)へ出陣し、渡辺三左衛門邸(現関川村下関)を本陣とした。これにより米沢藩の越後国内における盟主的立場を明らかにした。
6月13日大面村の米沢藩の陣地に奥羽列藩同盟の各藩の代表者が集まり、同盟軍の越後口の総督に米沢藩の千坂高雅、参謀に同藩の甘糟継成を当てることにし、同盟諸藩兵を統一して指揮させることに決定した。漸く、同盟軍の組織が形となった。
そして、6月14日、同盟軍による大攻勢が行われる。14日午前4時、雨を突いて同盟軍は新政府軍を襲った。長岡への侵入を防ぐため新政府軍が構築した大黒村の堡塁を守っていたのは農兵中心の高田藩1小隊で、会津・長岡の同盟軍が奇襲攻撃を仕掛け白兵戦となると、恐れをなした高田兵は戦わずして撤退した。これを聞いた薩摩藩の精鋭部隊が筒場村から兵を割いて救援に駆けつけるが、多くの戦死者を出し、薩摩藩城下士小銃十番隊長の山口鉄之助なども戦死してしまう。同盟軍側は長岡藩士ら9人、新政府軍は薩摩藩士10人余りが戦死した。
この日の戦いで、長岡藩兵の鋭い攻撃ぶりに比べ、実践に慣れない米沢藩兵の非力ぶりがあからさまになり、米沢藩は多数の戦死傷者を出して退いた。6月19日には、去就を疑われた派兵した新発田藩兵も戦いを強要され、十二潟村の新政府軍の堡塁を攻撃し数名の戦死傷者を出した。(☛ 新発田藩の戊辰戦争長岡口の戦い)
この後も1か月半の間、大黒周辺では激戦が繰り返され両軍合わせて100名の戦死者が出たといわれる。
6月22日、午前2時、長岡藩の花輪求馬が率いる四個小隊と米沢藩の二個小隊により八丁沖渡渉の前哨戦が行われた。大黒・川辺村に敷かれた政府軍の陣を破ることができず、花輪隊は孤立し敗退した。
7月2日には、大黒新田村の長州・富山藩の陣を長岡・米沢藩兵が襲い、新政府軍側には薩摩藩・高田藩兵が加勢して激戦になり、多数の戦傷者を出した。

仙台藩からの遠征部隊

長岡城が5月19日に落城すると、奥羽越列藩同盟の諸藩に応援が要請され、仙台藩では、桃生郡中津山村の黒沢俊親を隊長として「黒澤楽兵隊(フランス様式装備の精鋭部隊)」2小隊90人を出兵させることとし、7月7日栃尾に入り、善昌寺に本陣を構えた。黒沢楽兵隊の楽士たちは朝に夕に軍楽を吹奏して、将兵たちの士気を鼓舞し続けた。
7月24日、長岡藩兵が長岡城奪還を目指して八丁沖渡渉を実行しようとしていた時、栃尾残留の仙台藩は陽動作戦をとり土ヶ谷の新政府軍を攻撃した。この戦いで、2番隊長八木友吉高明ほか5名が戦死したが、28日にこの善昌寺に埋葬された。楽士隊(軍楽隊)は「悲しみの極み」を演奏して最後の別れを告げたという。

(長岡城奪還)

7月17日、河井継之助が栃尾町に置かれた藩の仮本営に、山本・稲垣・牧野の大隊長、花輪・三間・萩原・村松の軍事掛、会津・桑名藩の隊長を集め、八丁沖を潜行して新政府軍を奇襲し、同時に同盟軍諸隊が総攻撃をかけ、長岡城を奪回する。という作戦を告げ、決行は7月20日と定めた。しかしその日は連日の雨で八丁沖の水かさが増し、渡ることが困難となったため、24日の夜に変更となった。
7月24日夕刻、渡渉が困難な八丁沖を渡り、翌25日払暁宮島村に上陸した。
藩兵は四隊に分かれ民家に放火しながら城に迫った。富島・亀貝・宮下村に屯営していた新政府軍は不意を衝かれて敗走した。
長岡藩兵による必死の奇襲作戦は功を奏し、長岡藩は2か月ぶりに故城を奪還したのである。勝報は早馬によって26日夕刻には、会津に身を寄せていた藩主のもとに届けられた。
山県有朋は危険を感じて、参謀の西園寺公望を信濃川西部の関原方面へ後退させ、自らも城下の南約12kmの妙見村へ退却した。
この勝利と引き換えに長岡藩が被った人的損害も大きかった河井継之助は左ひざに銃丸をうけた。このほか同藩の戦死者は銃士隊長渡辺進以下63人を数え、重傷者も河井総督をはじめ銃士隊長稲垣林四郎以下47名に上った。
27日午後、新潟の太夫浜へ新政府軍が上陸したという知らせが城下の米沢藩など同盟軍に届き、同盟軍の兵士は、政府軍の追撃を中止したばかりか、挟撃を恐れて浮足立った。一方妙見村まで退いた山県狂介は、この知らせを聞いて軍を立て直し、29日長岡に向かって反撃を開始した。(☛ 八丁沖渡渉)

(長岡城再落城)

7月29日早朝、新政府軍の大反撃が開始された。妙見からは薩長八小隊が未明から霧に乗じて進撃し、六日市・十日町等に放火しながら城南に迫り、山寺からも薩長をはじめ諸藩兵が進撃した。信濃川左岸からも高田・加賀・上田等の兵が渡河して市中に放火しながら進み、まさに「三面合撃」の状態であった。これに対して同盟軍も必死に防戦につとめたが、戦意の面でも兵力の上でもはるかに劣勢であり、各方面で次々と破られ、多数の死傷者を出し、城に火を放って栃尾・見附方面に総退却し、長岡城が再び新政府軍の手に落ちた。
二度目の落城となった7月29日の戦闘において、長岡藩は銃士隊長花輪彦左衛門はじめ53人の戦死者と49人の重傷者を出すなど、大きな人的損害を被った。
新政府軍は、同盟軍を追撃して福井、百束、筒場および東山山麓の浦瀬、桂沢等を過ぎ、その日の内に見附、今町にまで達した。新政府軍にとっては予想以上の戦果であった。
同盟軍は見附本陣で緊急の打ち合わせを行い、総引き揚げと決し、まず傷病兵を送り、吉ヶ平から八十里越を通って会津・米沢方面へ退いた。長岡藩士の家族たち多数も野宿しながら同じ道を通って会津へ落ち延びた。ただでさえ苦しい「八十里越」を、金子・弾薬も欠乏し、昼夜の寒暖差の激しい状況での野宿や飢えに苦しみ、また道なき道を負傷者を載せた駕籠を担いで、想像を絶する撤退であった。やっとの思いで会津領叶津番所にたどり着いた。(☛ 八十里越)
長岡城をめぐる三度の攻防があり、城下は甚大な被害を受けた。現在のJR長岡駅附近にあった本城は大半が焼失、武家屋敷、町屋、寺社など被害は大きかった。城下の総戸数は1818(文政元)年に2947軒だったのが、戦争によって2608軒が焼失した。敗戦後の長岡城下は住む家もなく焼け残った家に身を寄せ集めて生活をした。一日一杯のおかゆを食べられればよいほうであった。
城下の民家の多くは、同盟軍兵士による放火によって失われた。長岡藩兵や同盟軍側の指揮官は旧来の門閥による武士で、戦の一手段として民家を、上必要以上に焼くことにためらいがなかった。一方薩長の指揮官や兵士は下級武士や農民・商人出身者が多く、住民の住家を焼かれる痛みを知っており慎重であった。やむを得ない場合でも、戦略上の必要最小限に抑えていたと語られている。長岡城下の町民の心は、新しい時代の到来を予感し、すでに長岡藩からはなれていた。
またこの戦いによって、長岡藩兵1400名中、340名が、領民も100名が戦死した、74,000石の小藩としてはかなり大きな数であり、これによって多くの有為な人材が失われた。

(長岡藩の終戦)

9月23日,会津藩降伏の翌日、長岡藩主・牧野忠訓が米沢にあった総督府に出向き降伏を申し出る。
しかし実情は、仙台藩が9月10日に降伏した際、仙台藩に身を寄せていた忠訓も降伏を申し出たが、新政府軍から相手にされなかったのだ。
長岡藩兵は、組織だった指揮命令系統もなく、流浪の民となって個人・半隊・小隊ごとに、会津藩各隊の傭兵のような形で戦い続けていた。山本帯刀隊の悲劇もこのような状況の中で発生した。
会津藩が9月22日降伏して、漸く長岡藩の降伏が認められた。

12月7日、東北諸藩に対する処分が発表された。いずれも藩主は死一等を減じられ、朝敵藩に対する一斉処分を断行する。第12代長岡藩主牧野忠訓には領地没収・謹慎を命じられる。
明治新政府は先の戊辰戦争の叛逆首謀者の処分を求めた。第一に総督河井継之助、第二に山本帯刀が名指しされたが、二人とも戦死していたので斬首したことにし家名断絶ということになった。河井の家族は明治4年(1871)春まで高田藩に拘禁の身とされた。
長岡藩では、生存者の中から責任者を出すこととしたところ、奉行で軍事掛であった三間市之進が名乗り出た。三間は無期謹慎を命ぜられた。
支藩三根山藩に対しては所領替えが命ぜられたが、結局実施されずに至らず翌2年12月に中止された。
12月22日、長岡藩牧野家は赦免される。牧野忠訓は藩主の座を廃され、代わって前藩主牧野忠恭の四男・忠毅(10歳)を藩主として、74,000石あった領地を24,000石に減らされた上で継続が許された。当時の長岡藩には、武士士族に含まれる人が8484人もいたという。

明治3年(1870)10月22日、財政窮乏などで藩主牧野忠毅は、領地を返上して長岡藩は廃藩となり柏崎県に併合された。

河井継之助の墓は長岡市東神田栄涼寺にある。長岡の人々の中には戦争を回避する藩論があった中で、劣勢な戦力下、あえて自身の理念を優先し戦争を決断した継之助を恨むものも多く、墓石が破損されることがたびたびあったという。
長岡の人々にとって不幸だったのは、河井継之助に肩を並べるほどの人材が長岡藩にいなかったことだ。藩主の後ろ盾を得て、継之助は一人であらゆる局面を決定したが、負傷し指揮ができなくなると、長岡藩はバラバラになってしまった。結果、長岡の人々を奈落の底に引き落としたと思う人も多く、近年、継之助に脚光があたり、英雄視されるとは当時の人には考えも及ばなかったと思う。

≪戊辰戦争関連地≫

  • 新政府軍上陸の地の碑
    5月19日の早朝、濃霧の中、濁流あふれる信濃川を、長州藩三好軍太郎率いる奇兵隊三番小隊と長州藩報国隊員が小舟7艘で、中島の地に上陸した。
  • 長岡城本丸跡碑

  • 市川家顕彰碑
    奥羽列藩同盟軍の本陣は、桑名藩領加茂の大庄屋市川邸におかれた。5月22日、新政府軍に対抗するための加茂軍議が開かれた。碑は市川邸跡に建つ。

  • 永閑寺
    新政府軍の本陣となったため、今町の戦いの際、住職の懇願にもかかわらず、本堂、経蔵、太子堂などのすべてが同盟軍によって焼き払われた。

  • 「八丁沖古戦場」石碑
    長岡城奪回するため、八丁沖渡河作戦がおこなわれた。

  • 「大黒戊辰戦跡記念碑」
    山本五十六中将揮毫による。羽越同盟軍と薩摩、長州藩兵らの新政府軍との間で幾度も激闘がかわされた場所。
  • 物見の松の碑
    新政府軍海道軍の本陣が関原の地主近藤家おかれた。兵士が登って物見するため庭にあった松の枝を伐採した。家主勘太郎が参謀の山縣に苦情を言うと謝罪したという。碑には松のいわれが記されて、その篆額は山縣有朋による。
  • 慈眼寺
    山道軍の本陣がおかれ、河井継之助と岩村精一郎との会談が行われた。
  • 長岡藩戦死者招魂碑
    戊辰戦争で戦死した長岡藩士たち300余名を慰霊すべく、長岡藩歴代藩主御霊廟の隣りに招魂社が創建された。
    • 〔所在地〕長岡市悠久町707 悠久山
      ※地図

  • 善昌寺
    戊辰戦役仙台藩援軍本陣が置かれた。黒沢二番隊長八木高明他5名の「戊辰戦役戦死者墓」がある。

  • 加賀藩士の墓
    4月15日新政府より官軍動員の命令が下りると、加賀藩では藩士小川仙之助・簑輪知大夫の両名に対して出兵を命じ、閏4月8日越中境に滞在中の一大隊を官軍として動員することが通達された。斎藤ら一大隊は小川・蓑輪両隊に先駆けて越後へ進軍し、海道軍として鯨波・柏崎の桑名軍を破って出雲崎を制圧し、関原へ進んできて、ここに本営がおかれた。
    当初越中から投入された大隊は、軍編成が分隊単位での機動的攻撃能力におとり、鯨波戦争では山県有朋から加賀兵は臆病者とまで罵られている。加賀藩では攻撃的な機銃隊を逐次動員し、小川隊は抜群強兵とまでうたわれた。
    5月10日の南境榎峠の開戦から長岡軍は三国街道沿いに主力を注いで激戦を繰り返してきた。5月19日、関原の海道軍は戦局転換のために満水の信濃川を渡って手薄な長岡城へ突入を決行した。既に16日から18日にかけての河を隔てた砲戦で加賀藩士4名と軍夫1名が河原で戦死した。長岡城落城後、戦線は森立峠から十二潟に及び、持久戦となって6月12日夜襲戦などで12名が戦死。7月25日の長岡城奪還戦では藩士19名と軍夫3名が死亡した。
    7月29日の長岡城再攻撃では、加賀藩家老の津田玄蕃隊は信濃川を渡って川際の台場で激しい銃撃戦となった後に、城内に押し入り一番乗りで城を制圧することに成功した。
    このとき、津田は負傷して戸板に乗せられ城外に逃げる人物を見ているが、これが後で河井継之助と解って悔しがったという。
    北越戦争へ参加した政府軍将兵約3万人中の7千人余が加賀藩士で130名が戦死した。
    ここ不動院には会津での戦死者を含めて、長岡城攻防で亡くなった53名の墓が建てられた。中には14・5歳の少年の墓もある。










≪長岡城≫ ≪長岡城落城へ≫














牧野忠訓

河井継之助

牧野忠恭

鵜殿団次郎

三好軍太郎

三島億二郎

岩村精一郎

佐川官兵衛





戊辰戦争

戊辰戦争

  • 作者:佐々木克
  • 出版社:中央公論新社
  • 発売日: 1977年01月

東に名臣あり

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  • 作者:中村 彰彦
  • 出版社:文藝春秋
  • 発売日: 2007年12月14日頃

幕末雄藩列伝

幕末雄藩列伝

  • 作者:伊東 潤
  • 出版社:KADOKAWA
  • 発売日: 2017年11月10日頃

薩長と最後まで戦った男

薩長と最後まで戦った男

  • 作者:幸田 進
  • 出版社:サンライズ出版
  • 発売日: 2023年04月04日