水原代官所(水原陣屋) Suibara office(Suibara Jinya) 阿賀野市



水原代官所(陣屋)  水原陣屋の戊辰戦争


@じゃらん
鎌倉時代、大見氏が地頭職に任じられ、水原氏と名乗り、その居館があった。上杉氏の会津移封に伴い廃城となった。
水原氏が去った後、溝口氏が新発田に入封しこの地方を支配するため城跡に陣屋を置いた。

宝永元年(1704)、幕府は頸城郡,旧与板藩領の天領(幕府直轄領)を支配するため石瀬陣屋(新潟市西蒲区石瀬寺 旧岩室村)を設けた。

享保7年(1722)、頚城地方で第一次質地騒動が久野村(上越市板倉区)から発生し、各地に飛び火した。享保9年(1724)対応に窮した幕府は、越後天領をすべて近傍の有力大名に預け処断をまかせた。頚城地方の質地騒動はその後高田藩によって強権的に解決された。
ところが預地の大庄屋が権威をほしいままに私利私欲で不正を行い、これに対する村方騒動が頻発したことから、幕府は、1740年以降再び代官支配を復活させた。

幕府は、元文5年(1740)石瀬陣屋を復活して新発田藩預地高8万石支配させた。このとき阿賀野川以東の水原は蒲原平野の中、広大な水田が広がり年貢の収益が高かった事から、領地替えが行われ新発田藩領から幕府直轄領となった。
広大な天領を支配するには、石瀬陣屋の規模が小さいことや、阿賀野川以東から石瀬陣屋まで距離があったことから、陣屋の現地建て替えか、水原移転をめぐって、争いが生じた。結局水原陣屋を新たに設け、一方石瀬陣屋も存続させるということで決着した。

延享3年(1746)に、幕府直轄領として、水原城館跡に代官所が設置され、初代代官として内藤十右衛門が着任した。内藤十右衛門は石瀬陣屋の代官も兼任した。しかし主体が次第に水原陣屋に移り、岩瀬陣屋は枝陣屋的な扱いとなり、文化12年(1815)出雲崎代官所に吸収され消滅した。

代官所の支配地は阿賀野市をはじめ、北蒲原各地や中蒲原・南蒲原・岩船の一部など複雑に分布し、支配高は6~10万石に及び、その統治の拠点とされた。
代官所の主な機能は年貢の徴収や民政で、特に水原代官所の場合はこの地方の豊かな生産力を背景にした年貢収納を確保することや、福島潟、紫雲寺潟の開発、村上藩、新発田藩の監視が主な目的だった。約30人前後の役人がその任にあたっていた。
宝暦9年(1759)代官山中源四郎が不取締りで処分された際には、代官がおかれず、一時的に出張陣屋となった。その後も何度か出張陣屋となったが、19代の代官小笠原信助が死亡したときは2か月間出雲崎代官所の預となった。以外は本陣屋として付近の幕領を支配した。

19代の代官、小笠原信助は学問を推奨し、代官所内に御学問所とよばれた「温故堂」を設けた。

水原代官所は22代続き、慶応4年(1868)3月代官篠本信之助の時、会津藩預かりとなり、萱野右兵衛が奉行を兼ね、市島家別邸継志園を本営として布陣した。7月27日、新発田から進撃してきた新政府軍の攻撃が始まると、会津藩兵は、継志園に火を放ち、民家に放火しながら保田方面に潰走した。水原奉行所は、123年でその幕を閉じた。
新政府は奉行所の建物を接収し、近くの天朝山(継志園跡地)に越後府が置かれるまで一時的に利用した。

廃絶後、民間の宅地開発などによって、遺構は喪失したが、127年後の平成7年(1995)8月25日に、資料をもとに表門、代官所建物、板塀、冠木門が復元された。 館内は上ノ間、御用人部屋、御学問所など、19の部屋に分かれ、年貢収納の仕組みや様子などが紹介されている。ただし東向きであった陣屋は道路事情などにより南向きで復元されている。所要30分。(案内図)


≪出来事≫
宝暦9年(1759)幕領水原役所付きの村々26か村,代官山中源四郎の悪政を江戸に訴える。代官山中源四郎,重追放となる。

福島潟開発を進めるため、66か村が、新発田藩から幕府に領地替えされた。宝暦7年(1757)8月、水原代官山中源四郎は66か村の庄屋を陣屋へ呼び、年貢・諸役負担を決めるため、幕府の計算で村高を見直す必要があり、翌年幕府が検地を行う予定であることを告げた。一方で帳簿上で村高を2割増しに高直しすることでそれに代えることができると説明したことから、庄屋たちもこれに同意し、請書を提出した。(新発田藩1反が360歩に対し幕府は1反が300歩の計算であった。※1反あたりの年貢率が同じであれば増税となった。)
66ヵ村は検地の延期を求める願書を提出したが、検地の15年延期を主張する26か村は、宝暦9年(1759)3月に太子堂村(現新潟市北区)庄屋籐兵衛ら5人を総代として、4月9日水原代官所江戸役所へ検地延期を願い出る。代官は勘定奉行に伺いを立て、4月21日に検地の実施はまだ決定していないという奉行所の回答が伝えられた。藤兵衛らは検地の実施が決まっていないのであれば請書を返すよう代官に願い出たが、返却されなかったため、5月10日に改めて勘定奉行に検地延期の願書を提出した。取り調べの過程で検地の実施が幕府の命令ではなく、山中代官が一存で、高直しをするため嘘をついて請書を提出させていたことが明らかになった。
藤兵衛等は思案の挙句、騙しとられた請書を取り戻すには、幕府に対し代官の悪政を申し立てるしかないと決めた。日頃、代官所の悪行を目にしていた藤兵衛らは水原代官所の手代たちの実状を勘定奉行に訴えることとし、5月21日勘定奉行の役所へ「駆け込み訴」をすることにした。
訴えを受けた勘定奉行は、訴えの内容の重大さから幕府評定所に回した。評定所はこの訴えに関して藤兵衛らを取り調べ、さらに山中代官と江戸水原役所の手代を追求した。その結果、代官らの公金横領状況が明らかになり、9月2日判決が言い渡された。
判決は評定所で大目付・町奉行・勘定奉行らの立ち合いのもとで行われた。代官山中源四郎は改易の上、妻と共に重追放。息子庄三郎および妻は遠島。江戸手代元締山田幸右衛門は死罪、国元締田代甚右衛門と先役稲瀬勝左衛門は遠島であった。
これに対して藤兵衛ら総代5人の処分は、庄屋4人は庄屋役取り上げ財産は構い無し、百姓代長兵衛は30日手鎖であった。藤兵衛ら5人の罪は、44年後の享和3年(1803)に許される。

水原代官所


遺構 水原陣屋表門

水原陣屋の表門は文久3年(1863)の建築で、現在聖籠町諏訪山の元新発田藩領諏訪山新田村名主大野家に再移築されて現存する。幅が6メートルある木造の瓦葺き屋根の四脚門で、門には筋金の入った大扉の両脇に脇戸がつき、両側の長屋には物見窓がつく。屋根には桟瓦葺きとなっているが、往時は本瓦葺であったと思われる。

〔所在地〕聖籠町大字諏訪山447

石瀬代官所跡


〔所在地〕新潟市西蒲区石瀬字岡田


≪現地案内看板より≫
水原代官所

江戸幕府は、直轄領地(通称では天領といいます)に代官所を設けて直接支配し、財政の基盤となる年貢収入を確保しました。
水原代官所も地方におかれた代官所の一つで、下越地方を中心とした、新田開発の促進、豊かな年貢米の確保、近接する藩の監視・情報収集などの目的で延享三年(一七四六)に設けられました。
支配高は時代によって増減がありますが、五万石前後から七万石、多い時には十万石にもおよび、専任の代官は二十二代を数え、慶応四年に会津藩預かりとなるまで約百二十年間続きました。
その後、明治期には敷地内に水原尋常小学校がおかれ、水原における教育の要としての役割をはたしました。
平成五年、代官所平面図を基に復元が計画され、平成七年に完成したものです。

阿賀野市





水原代官所  Googlemap ストリートビュー