水原陣屋と戊辰戦争 Suibara Jinya 阿賀野市



水原代官所(陣屋) 水原陣屋と戊辰戦争 萱野右兵衛

萱野右兵衛

天保11年(1840)〔生〕~明治5年(1872)6月2日〔没〕
家禄五百石。 物頭、町奉行、番頭を歴任した。
2月1日、幕府は、越後国内の幕領を会津藩、桑名藩、米沢藩、高田藩の預領とした。
戊辰戦争当時28歳であった右兵衛は、新領及び幕府預所の総奉行と番頭隊の隊長に任じられた。(☛酒屋陣屋)
3月12日、総勢500人に及ぶ萱野右兵衛隊を率いて会津を出立する。番頭隊は甲士組50人、寄合組60人、大砲組50人、物頭組90人、兵糧方その他50人など250名で、隊長には右兵衛が、組頭には伴百悦が任命された。3月14日、阿賀野川を船で下って、隊列を組んで水原に入った。
萱野は、これまで戦闘に参加した経験はなく、いわんや軍部隊を指揮した経験もなかった。家格に応じた任命で、水原奉行職と共に、戦闘部隊の編成も命じられた。
その経歴や人柄から見れば、奉行の職は適任であったと思われるが、時代はそれだけでは済まない状況であった。
5月3日、佐川官兵が新政府軍本営のある小千谷を目指して進軍し、小千谷近郊の片貝で激戦となったが、萱野隊も参戦している。

(朝日山の戦い)

5月9日、長岡藩が開戦と決して、長岡城中で軍議を開いた際、一ノ瀬、佐川などと共に萱野は出席している。その後、榎峠の戦い、朝日山の戦いに参戦する。
5月10日、榎峠奪還のため、萱野右兵衛隊は、長岡藩川島億二郎隊と共に、迂回隊として金倉山を越え浦柄村へ向かった。浦柄村に滞陣し、榎峠の南口を押さえた。
5月13日の朝日山の戦いでは、山中に塁壁を築き、攻撃に備えていたが、時山直八に率いられた長州奇兵隊の精鋭部隊の奇襲攻撃を受け、白兵戦となり、応戦するが多くの死傷者を出して敗走した。
5月19日、長岡城落城後、22日、杤尾に一旦部隊を撤退し、23日加茂町に入る。

(与板口の戦い)

5月22日、23日、萱野右兵衛は加茂軍議に出席。萱野右兵衛隊は会津藩総督一ノ瀬要人指揮下で与板方面の主力部隊として配属されることとなった。
24日、萱野隊は加茂を出発し、三条町に向かう。
25日三条町を出発し、地蔵堂町に入る。
27日、与板攻撃が開始された。同盟軍は本道を進撃し与板城の正面を攻撃する隊と、間道の山手を進撃し与板城の背後を押さえ攻撃すする隊と、二方面に分かれて進撃した。萱野隊は桑名藩隊など間道方面を進撃した。
金ケ崎で始まった攻防戦では、与板藩兵を先鋒とする新政府軍と交戦。
28日、一旦は、与板城落城寸前まで追い込んだ。しかし、新政府軍が応援部隊を続々投入した為攻略することができなかった。
29日も与板城への攻撃を行ったが失敗している。
6月1日、新たに見附から米沢隊が戦闘に加わり、桑名隊の陣営がある塩入峠で戦略会議が開かれ萱野右兵衛も出席している。
2日、萱野隊は桑名藩領の寺泊小島谷村方面に進軍し、島崎方面で戦闘となったが、桑名隊と共に新政府軍を撃退している。
しかし鳥羽伏見以来百戦錬磨の桑名隊からは、その作戦対応の遅さを非難されている。
19日、与板口で膠着状態が続いたことから、会津藩は多くの死傷者が出て疲弊した萱野隊を休息させ、横山伝蔵の朱雀四番足軽隊と交替させることとした。
20日に引継ぎを終えてから出発。24日に水原に帰っている。萱野は水原に戻り、御振合役に任じられ部隊から離れたため、一旦部隊を解散している。
萱野隊は、戦場で多くの死傷者を出したが、萱野はただ戦闘の指令を出すだけの司令官ではなく、負傷した者たちを見舞い、無理することなく療養するように指示するなど人情味の厚い司令官でもあった。

(水原に戻る)

7月24日から3日間、三条町の東本願寺で、会津方諸藩士戦死者の追善供養弔が行われた。萱野右兵衛は藩主の名代として出席している。水原から30名が参加し、この時三条に滞陣していた町野源之助隊も出席している。同盟各藩からも列席者があり、群衆数万人に上ったという。
26日、萱野は所用の為、1泊予定で酒屋陣屋へ向かう。陣屋で、新政府軍が新潟に上陸し、新発田藩が裏切ったという報を受けた。見附・長岡方面で同盟軍の一員として戦っていた新発田藩が裏切り、新政府軍の手引きをしたというのは非常に驚きであった。
27日、右兵衛は水原に戻り、本隊の大半が帰国した為兵士、役人、若党、中間、槍持、草履取りなどを合わせてもわずか150人の隊を作り新政府軍に備えた。新発田城下に通じる本街道を固めるため、水原から一里あまりの笹岡村に精兵30人が向かった。町はずれに塁壁を数ヵ所築き、防戦の準備を行い、そのほか、水原町の出口を3~5人で固めた。
29日、水原での戦いが始まると、新発田藩を先鋒とする新政府軍に、塁壁はいともたやすく突破され、水原陣屋に銃弾が浴びせられた。
右兵衛は、平地での戦闘を避け、かつての城跡で守りに適した赤坂峠に向かった。
8月1日、赤坂山では新政府軍と激烈な戦いとなった。戦死傷者が多く出た。右兵衛も左二の腕に貫通銃創を受けている。岩間方面に撤退する。(☛ 赤坂山の戦い)
その後は、会津藩越後口軍の本隊と合して越後口国境から会津城下まで戦い続けた。

(戊辰戦争終了後)

会津戦争終了後、越後高田藩で謹慎処分となり、萱野右兵衛は本誓寺地中長楽寺※地図 ※ストリートビューで謹慎する。萱野右兵衛はその能力を買われ、若年寄格として新政府や高田藩との交渉に尽力している。この謹慎期間中に、体を壊したといわれる。(☛ 会津降人)
明治3年(1870)、右兵衛は移住の責任者の一人になり、段取り打ち合わせのため越後高田から会津若松に戻った。会津で移住の最高責任者で、政務担当家老の梶原平馬と打ち合わせをしている。
右兵衛は謹慎が解かれた後は、斗南藩に向かわず、会津本郷の陶工達たちの招きで会津に残っている。本郷では、御用地堰水路の一隅に陶土原石の粉砕水車を造って採石業に従事した。
萱野の性格は誠実で、面倒見がよかったことから部下に慕われた。陶工たちも右兵衛に是非にといって招いたという。
明治5年(1872)本郷で死去。謹慎中に体を壊していたともいうが、はっきりしたことはわからない。33歳。

ここからは私見である

萱野右兵衛は7月24日から3日間、三条町の東本願寺で、会津方諸藩士戦死者の追善供養弔を取り仕切っている。その際、町野源之助の一隊が滞陣する宿舎に泊って、源之助と打ち合わせを行っている。
源之助はその後、佐川官兵衛から朱雀四番士中隊を引き継で、津川口から会津城までの戦いを指揮している。朱雀四番士中隊は会津軍の中核部隊で、萱野右兵衛も一隊を率いて源之助に協力していた。
会津戦争後は、源之助ほか20名の藩士が、鶴ヶ城開城後「謹慎ノママ居残リ取締リ申付ル」との新政府軍軍務局からの達しを受け、民政局取締役に任じられた。
源之助は、この時できた政府役人との繋がりを利用して、会津復興のために、町人などのために便宜をはかっていた。
明治2年(1869)になって、前藩主松平容保に嫡男容大が誕生して家督相続と藩の再興が許されたとき、下北半島の旧南部藩領斗南3万石にするか、会津に隣接する猪苗代3万石にするかの選択を迫られた。
源之助は猪苗代派の代表となって、東京に赴いた。激しい議論となったが、刀の腕はたつが、議論になると弁の立たない源之助は、論争にまけて、移住先は斗南と決まった。
源之助は、会津復興のため、藩士の身分を捨て、会津に残り、政府との人的なつながりを利用してブローカーのような役割を担っていた。
右兵衛が移住準備の打ち合わせのため、会津に戻った際、源之助と会い旧交を温めたことが推察される。
源之助は、越後口の戦いで、右兵衛の誠実な性格や部隊を統率する責任者としての能力を知っていた。是非、会津に残り、会津復興に力を貸してほしいと話したと思われる。右兵衛も会津復興の一助になりたいと応じたとことが考えられる。
移住を取りやめるには、勝手に行うことはできず、政府の了承や、会津側の責任者梶原平馬の了解が必要であった。源之助が、手をまわして了解をとったと思われる。梶原には、陸奥国斗南藩は、初めから苦難が予想されており、国元の会津にも然るべき人物を残しておきたいという判断があったと思われる。
そんな折、かつて萱野右兵衛隊に参加していた、会津本郷の陶工たちから是非にと招かれ、本郷に移住したのである。


墓所


記念碑

萱野隊長之碑

萱野右兵衛の四十九回忌に当たり大正6年(1917)建立
  • 〔所在地〕福島県大沼郡会津美里町瀬戸町 白鳳山(岩崎山)公園

・明治戊辰戦役萱野隊記念碑

昭和32年(1957)9月24日、戊辰役90年祭に際し、萱野隊士柏村善平の孫柏村毅(東京急行電鉄専務)建立した。
  • 〔所在地〕福島県大沼郡会津美里町瀬戸町 白鳳山(岩崎山)公園

(☛ 柏村毅)














新潟県内の戊辰戦争(北越戊辰戦争)史跡 Boshin War historic spot and Museum in Niigata








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