伴百悦 ( ばんひゃくえつ )


文政10年(1827) 〔生〕- 明治3年(1870)6月22日〔没〕

会津藩士伴百悦は、文政10年(1827)、会津藩上級藩士伴佐太郎宗忠(500石)の長男として郭内本四ノ丁三日町口郭門西で生まれる。伴家は代々藩の鷹番頭であった。
明治戊辰の役(1868)において越後口の戦いに萱野右兵衛隊の組頭として参戦出陣した。榎峠や朝日山での戦いに参戦している。後に朱雀二番寄合隊の隊長を勤めている。

(戊辰戦争)

伴は戊辰戦争の前後で毀誉褒貶評価が変わる人物である。戦時の評価は低いが、会津戦争後の遺体処理などで活躍し、会津の恩人となった。
伴の性格は、自分の考えに固執し、こうと決めたら曲げることの出来ない頑固な性格で、 熱血漢でもあった。伴の風体は、背が低くて眇(すがめ)であったことも、周囲にはその性格を際立たせた。遺体処理など、会津のためにという信念があったからこそできた事業であった。
水原陣屋にまだ滞陣していた頃、幕臣坂本平弥率いる遊撃隊200余名が、水原町に来て乱暴を働いていた。会津藩が5,6人で組織した夜警隊に乱暴を働いて逃げ去るという事件がおきた際、伴は100余名の藩兵を引き連れ、坂本の宿に乗り込み、坂本に責任を取って切腹しろと詰め寄っている。これなど伴の性格をよく伝える話である。
水原町の郷土史に、片眼で背の低い隊長が、町ににらみを利かせていたと記されるほど、町民には印象的な人物だったようだ。

伴は、萱野右兵隊の組頭として、水原に出陣している。
5月3日、片貝で佐川官兵衛率いる一隊と新政府軍の間で交戦が行われ敗退する。萱野隊も参戦したが、同じく参戦した朱雀二番寄合隊組頭の土屋総蔵が負傷した。伴は、土屋に代わって寄合隊の頭を命じられた。
5月9日、列藩同盟側では長岡城中に、会津藩、桑名藩、衝鋒隊の首脳部が集まり、新政府軍に対する開戦の軍議が開かれた。伴は寄合隊頭として、佐川官兵衛、萱野右兵衛らと共に出席している。榎峠奪還の戦術を話し合う席で、他藩との連携が必要であったが、伴は大局を見ないで会津藩が有利となるような発言を繰り返し、その都度軍議が中断、議論は進まなかった。結局伴は軍議からの退席を求められている。
この後、伴は二番寄合隊を率いて榎峠、朝日山の戦いに参戦するが長岡城が落城すると、朱雀寄合二番隊頭、萱野右兵衛隊組頭を外れて会津に戻っている。伴はこれまで実戦部隊を指揮した経験がないまま、家格に応じて組頭を命じられていた。戦いでは、自分の考えに固執し部隊を動かすが、目立った戦果を上げることができず、他の同盟軍部隊、特に激戦を潜り抜けてきた桑名藩部隊との連携もスムーズにいかなかった。桑名藩の戦記でもさんざんに評価されている。この後、越後口の戦いに参戦することはなく、若松城の篭城戦などで活躍したとされている。しかし伴がいつ越後を離れたか正確な時期は記録がないので明確になっていない。長岡城落城後、会津藩士伴百悦と名乗る人物が、兵士を連れて現れたという言い伝えが、水原や各地の村々で語られているが、正確なことはわからない。
余談ではあるが朱雀二番寄合隊の頭は山田陽次郎が萱野右兵衛隊組頭は河瀬重次郎がそれぞれ引継ぎ、戦闘で死傷者が多く出、弱体化した部隊の強化をはかり、越後口での戦闘を続けている。

(埋葬方として遺体処理)

明治元年12月18日には、若松在陣参謀が塩川謹慎の上田学太輔と猪苗代謹慎の原田対馬とを大町の融通寺軍務局(※地図 ※ストリートビュー)に召喚し、旧会津藩家中の者たちに対する処分を伝えた。同時に上田学太輔と原田対馬に対し、「民生局取締」として若松に残留すべき旧藩士20人を選定せよ、と通達した。20人は猪苗代に謹慎している会津藩の主に上士で、武芸に秀でた者の中から選ばれた。局取締に選ばれたのは、元家老原田対馬をはじめ町野源之助、樋口源助、大庭恭平、高津仲三郎、伴百悦、武田源蔵、田中左内、中山又左衛門、宮原捨六、中山甚之助、吉川尚喜、出羽佐太郎、山内清之助、中川清助、林房之助、筒井茂助、諏訪左内、青山宇之介、小出勝右衛門の計20人であった。
明治2年(1869)1月3日、「滝沢謹慎所」(※地図 ※ストリートビュー)と看板を掲げられた借り上げの滝沢村の農家にみずからも謹慎しつつ、出頭してくる旧藩士たちに謹慎をつたえる、という奇妙な仕事に就くことになった。ただし、自らも謹慎を命ぜられており、許可を得なければ勝手に外部に出ることは禁じられていた。
会津落城後、軍務局は「彼我の戦死者に一切に対して、何らの処置をも為すべからず、若しこれを敢えて為すものあれば厳罰す」という命令を出した。そして新政府軍戦死者の遺体だけを集めて立派な「官軍墓地」をつくったが、他の死体は、空しく山野に放置された。
山国会津も春である。雪が消えるにつれて、山野に放置された死体から立ち上る臭気は、付近住民の堪えがたいものになっていた。遺体取り片付けの請願が、相次いで民政局へ持ち込まれ始めた。
2月1日、東京から遺体処理に関する指示があり、放置してきた民政局も、逆にこの問題処理を急がねばならなくなっていた。
民政局ではこれらの死体を、城の東南小田山下と、西の薬師堂川原の旧藩時代の処刑場に設けられた罪人塚に集めることとした。そしてその作業に当たるのは、民政局で集めた被差別部落の人々であった。処刑された罪人の遺体を葬るのと全く同じ扱いなのだった。旧藩士たちには我慢ならなかった。このころ若松地方に、被差別部落民がどれほどいたかわからない。彼らは全て、人の嫌がる特定の業務に従事させられてきたが、鳥獣や罪人の死体処理なども彼らの仕事の一つとなっていたのだった。

町野と高津が上一ノ町の家を仮寓としている軍務局長三宮義胤を密に尋ね、旧藩士たちのやりきれない思いを直訴することにし、いくども軍務局に足を運んだ。
1月初め、飯盛山で自決した白虎隊士たちの埋葬を許してもらおうと、軍務局を訪ねた時、三宮は白虎隊士の話に同情し、埋葬を黙認してくれていた。
三宮は初め、遺体処理は自分の裁量外であるとしたが、東京と相談し、阿弥陀寺と長命寺への埋葬を許可した。
阿弥陀寺(※地図 ※ストリートビュー)、長命寺(※地図 ※ストリートビュー)への死者の埋葬が始まったのは、2月14日からのこと。実に鶴ヶ城開城からほぼ5か月を閲していた。
埋葬は被差別部落の人々の手によってはじめられた。しかし彼らの作業ぶりを聞いて、藩士たちは涙をのんだ。運ばれてくる遺体は、ムシロに包まれていたり、古櫃、古箱、風呂桶に入れられていたり、中には戸棚に四、五体押し込まれたりする。しかも作業に当たる彼らは、大きな穴を掘り、その中に「死屍を投入すること、恰も瓦石を取り扱うが如し」だという。

藩士たちは、士農工商のさらに下の身分とされた被差別部落の人々とは、日ごろ何の接触もなかった。言葉を交わす事さえ厳禁され、接触のルーツを全く持たなかった。鷹番頭という役職柄、鷹の餌とする鳥獣を買い入れるため、被差別部落民との接触を日常的に行っていた伴に藩士たちは、交渉を頼んだ。伴はすぐ快諾し、さっそく被差別部落の頭、吉松など数名を伴は呼んだ。
頭は、資金として一千両を要求した。藩士たちは、大町の豪商で町役所借金方をもつとめた星定右衛門に交渉してみることになった。星からは千両が届けられてきた。
一千両を一括して頭に渡すことはできなかった。伴は作業の進捗を見て、作業員に支払いを行った。取締の一人武田源蔵が伴を補佐することとなった。
伴と武田が旧藩の藩籍を脱し、被差別部落入りをすることを軍務局に了承させねばならない。
町野と高津はまた三宮義胤を訪ね、二人の事を告げると、伴と武田を戦死者遺体の「改葬方」に任命する旨、民政局から通知が来た。
伴は、手拭頬かむり、貧し気な野良着姿に身なりを変えて、作業員一人一人に指示して、遺体の尊厳を失わないよう、埋葬作業を進めた。

48坪強のひろさをもつ阿弥陀寺の墓穴もすぐ満杯になってしまった。地上数尺の高さになってもなお埋葬しきれない。残った遺体を長命寺の墓穴に埋めながら数を調べた結果、阿弥陀寺埋葬分は1281柱、長命寺のそれは145柱に達した。
阿弥陀寺にあっては地上に盛り上がった遺体の山を四方から運んだ土と砂で覆い、高さ4尺の長方体の壇を造成。質素な竹垣で囲ってついに作業は一段落した。
阿弥陀寺の、この土の壇の上に、藩士大場恭平の筆になる「殉難の霊」の墓標が建てられ、付近の住民の手によって小さな拝殿らしきものも建てられた。
しかし民政局監察方兼断獄の久保村文四郎が見回りに来て、朝廷に反抗して死んだ者に対して「殉難の霊」とは何事かと言い、この時、現場にいた伴と高津に馬鹿にしたような態度で詰め寄った。
久保村の報告を受けた軍務局から「墓標にある《殉難の霊》とは何事か!拝殿もけしからぬこと。許す事相成らぬ。両方共、即刻取り捨てよ!」との命令があった。民生局からも、伴に対して即刻撤去することが命じられている。
この後も、伴百悦と武田源蔵の仕事は終わらなかった。改葬作業がすすむうちに若松にまで運べない遠隔地に果てた者たちも多いとわかり、かれらは阿弥陀寺、長命寺以外の14ヶ所にも埋葬を許されるに至っていた。その14カ所の墓所をまわり、絵図面に写し取り姓名のわかるものはその名を記録していった。
一ノ堰の光明寺、白河街道の馬入村、猪苗代の両円寺,金堀明神下、強清水、戸の塚原、滝沢峠、滝沢村の妙国寺、塩川村、会津西街道(下野街道)の野際村、関山村、大内村、野州赤留村の北羽黒原、坂下----これらに埋葬された者たちの数を阿弥陀寺、長命寺それに加えると、会津に来援した者たちもふくめて3014柱にも達した。
7月5日から3日間、阿弥陀寺では旧藩士主催による八宗大施餓鬼供養が行われ、ここにようやく取締、改葬方の者たちの苦労は報われたのである。

(束松事件)

明治元年(1868)9月22日の開城と共に、占領軍は融通寺に軍務局を置き、次々に布告を発して軍政をしていたが、1週間後の10月1日には、さらに民政局も設置された。
民政局の機構は、判事の下に庶務方、租税方、営繕方、監察方、会計方、社寺方、生産方など11職種があったが、その中の監察方兼断獄の4人の頭取が久保村文四郎である。民政局は占領軍各藩武官の寄せ集めで構成されたのであり、それだけに武断的、専制的な軍政の色彩が濃かった。監察方兼断獄の筆頭頭取久保村は、まさに警察、検察から裁判官の権限まで併せ持ったような存在だったわけで、「諸事御委任全権」で大きな職務権限を持っていた。
久保村のニセ金造りの取り締まりの苛酷さが、藩士だけでなく一般町民の間にも、その憤激と憎悪の声を広げていた。質の悪いニセ金やニセ札の横行は、戦後の会津地方の混乱の中で、その特徴的なものの一つであった。警察官、検察官、裁判官を兼ねたような久保村は、ニセ金関連の容疑で町民を捕らえると、ろくろく取り調べもせずに、死刑にしてしまうといわれていた。

明治政府は明治2年(1869)5月初め、戦後の会津経営の現況を観察するため侍従四条隆俊を巡察しとして会津に派遣することを決定。そして6月15日、民生局、軍務局が廃止され、融通寺に若松県仮役所を置くことが発布された。四条隆俊は、そのまま若松県知事となる。
久保村も大施餓鬼供養のおわったころ、任果てて越前に凱旋帰国することになった。それと知り、ひそかに闇討ち計画を立てたのは高津仲三郎と伴百悦であった。ふたりは井深元治、武田源蔵をも同志に誘い入れて久保村の駕籠を越後街道束松峠 ( たばねまつとうげ )(※地図 ※ストリートビュー)に待ち受け、襲撃する計画をたてた。時に7月12日午後八つ刻(2時)のこと。久保村文四郎は山駕籠に揺られて、越後街道を北西に進むみ、束松峠に差し掛かった。
高津と井深が駕籠かきを追い払い、逃亡を防ぐため道の両端を押さえた。高津はいつでも加勢できるように刀に手をかけて見守った。武田は離れて様子をうかがっていた。伴が久保村に声をかけると、久保村も事態を悟り剣を抜いて立ち向かってきた。しかし、シャカと言われた剣客の伴の敵ではなかった。伴が久保村の剣先をかわし、ケサギリに斬り下ろすと久保村はあっけなく崩れ落ちた。
この後、伴は越後方面に逃れ、他の3人は会津方面に戻っていった。

(伴百悦の最後)

新政府から追われ各地を転々とし、1870(明治3)年春、最後に越後大安寺村の大地主坂口津右衛門を頼り、この地にあった慶雲庵に身を寄せた。伴は萱野右兵衛が水原奉行に任じられ着任した際、津右衛門と面識があった可能性がある。また、地主として財を成した津右衛門は、文人墨客や剣術家を自宅に招き交流するなど、近郷では列藩同盟に心を寄せる人物として、また頼られれば断れない人情に篤い人物として知られていた。伴百悦もこの噂を聞いていたと思われる。
慶雲庵から歩いて5分くらいで、大河阿賀野川の岸辺’(※ストリートビュー)に立てた。源流は猪苗代湖で会津では大川と呼ばれていた。穏やかな川の流れを見て、戦いに敗れ、もはや自分の国ではなくなった故郷を想い、各地に散った人たちのことを想っていた。伴は、この時既に死を覚悟していたのではないか。数人の役人に囲まれただけで、戦いもせず自決したのは、この地を死に場所と決めていたからとも考えられる。
越後国内では明治の世になって、戊辰戦争によって村落は荒廃し、新政府の喧伝とは裏腹に農民の暮らしは楽にならなかった。不満は各地で騒動や一揆となって新政府に向けられた。これらの騒乱には、旧会津藩士や旧桑名藩士の残党が関り騒乱を煽っていたことが知られる。また、高田藩に預けられ謹慎していた会津藩士で脱走した者が50人以上いたが、越後に潜伏していることが考えられた。
新政府は、潜伏する旧会津藩士に手を焼いて、探索を強めていた。大安寺村にもその触状が回ってきた。支配地替えで、新発田藩領から越後府支配の直轄領になったこともあり、村に災厄が降りかかることを恐れ、潜伏する旧会津藩士がいると水原の越後府役所に届け出た者がいた。越後府は隣接する村松藩に捕縛取り調べを命じた。
1870(明治3)年 6月22日夜半、村松藩の役人が庵を取り囲んだ。就寝中だった伴は、跳ね起き捕吏の一人を板戸越しに刺した後、相手方の怯んだ隙に喉を衝いて自刃して果てたという。釈迦とあだ名された剣豪であった。伴はかつて剣の修行中に、道場で打ち込まれ、仮死状態となったことがあった。その間に剣の奥義を悟り、息を吹返した後は剣の達人となっていたことから、そうあだ名されたという。享年44歳。
村松の役人は、伴に同行していた従者を引き立て、遺骸がそのまま庵に残されたので、村人は、棺に納めて、引き取り手が現れるまでと埋葬し、簡単な墓石が置かれた。

当寺、明治の世になったとはいえ、いまだに江戸時代の風習が色濃く残っていた。村は封鎖的で他国者の入り込みには特に厳しかった。他国者が、流行り病や犯罪を持ち込むことを恐れてのことであった。村は五人組の自治制度がひかれ、お互いに監視していたので他国者が入り込めば、直に村中に知れ渡った。
江戸時代であっても、お尋ね者がひっそり身をひそめるとしたら、人口の多い江戸に入り込むか、人の住まない山奥にでも隠れる以外方法はなかった。
伴は、他の3人を逃がすため官憲の注意をひき、はじめから見つかることを覚悟で、一人越後方面に逃げたとも考えられる。他の3人は会津方面へ戻っている。

その後伴の遺体の引き取り手は現れず、会津の人たちからも忘れ去られた存在となり、墓は朽ちるままになっていた。昭和41年(1966)3月、越後交通社長柏村毅(会津会会長)が整備改修を行い、墓碑も設けられた。その後、更に改修が行われ、平成11年(1999)10月には、慶雲庵より百悦の遺骨を分骨、会津若松市大窪山麓に佇む祥雲山善龍寺※地図 に墓碑とともに墓石が建立され、ようやく会津戦争で散った仲間が眠る会津の地に戻ることができた。慶雲庵は廃寺となり既になく、百悦の位牌(戒名 修功院殿百法勇悦居士)は同村盛岩寺※地図に移されている。(尚設置された墓碑は、当時の地元長老の話を元にしており、正確な史実ではない。この墓碑を元に紹介している例がままある。)
坂口津右衛門は旧会津藩士の重罪人を匿った首謀者として拘束され、若松県に送られ取り調べがおこなわれた。津右衛門宅からは印刷機が発見され、各地で贋がねづくりが横行していた状況から、百悦と謀って贋がね造りを計画したことが疑われた。百悦とは旧知の間柄であった以外に匿ったことに他意はなく、印刷機は新政府軍の軍票印刷に使用し、政府に対する騒乱を計画していた様子もなかった。また戊辰戦争時は地域の有力者として新政府軍の徴用に協力していた点などが考慮され、お構いなしとなり10月29日に帰村した。津右衛門は文豪坂口安吾の祖先といわれている。
尚、束松事件にかかわった他の三人について、井深元治は明治6年(1873)密告により横浜で捕縛され、拷問により獄死。高津仲三郎は明治9年(1876)、思案橋事件に連座し翌年(1877)斬首される。武田源三は捕縛されることなく逃走し、行方不明となっている。


🤩高津仲三郎

文政10年(1827)〔生〕-明治10年(1877)2月7日〔没〕
儒学者高津平蔵の三男、350石。宝蔵院流槍術と神道精武流剣法免許皆伝。鳥羽伏見開戦以前は会津藩最精鋭部隊別撰組に所属。
伴百悦と同じ年齢だが、性格は伴以上に一本気で熱血漢であった。逸話には事欠かない。開戦前夜に大坂にいた時、揖関郷左衛門と名乗る大剛の薩摩藩士と路上で鉢合わせし、一対一で真剣勝負を繰り広げた。そして揖関を切り殺してしまったのだった。
鳥羽、伏見の戦いで負傷した高津が、江戸の会津藩芝屋敷の病院にいるとき、将軍徳川慶喜が傷病兵の見舞いに廻ってきた。陪臣の高津は、その時、遠慮もなく将軍自身や幕兵のだらしなさを面罵し、返す言葉もない将軍をほうほうの体で退散させた。
戊辰戦争では、越後口の赤谷の戦いで遊撃隊の組頭として活躍している。
1876年(明治9)、不満氏族が各地で決起した、熊本での神風連の乱、福岡での秋月の乱、そして長州萩では前原一誠らの乱がおこった。10月29日、旧会津藩士永岡久茂他14名もこれらに呼応して、挙兵し千葉県庁を襲撃しようとしたが、不審に思った者の通報により駆け付けた警官隊と切りあいとなり未遂に終わった。高津は中原成業の偽名で参加していたが、自首し翌2月7日斬罪に処せられた。(思案橋事件)
  • 〔墓所〕中原成業の墓 新宿区市ヶ谷富久町9-23 源慶寺

🤩久保村文四郎

?〔生〕- 明治2年(1869)7月12日〔没〕
越前藩士。
嘉永5年(1852)4月3日、「御充行」五人扶持で御徒に召し出される。御徒とは藩主が出かける際の、ボディーガードの役目を負い、出かける先々で問題が起きないよう、あらかじめ調整する役目を担っていた。
安政3年(1856)3月5日、父は老年で隠居、彼が跡を継いで、御徒として、切米15石3人扶持を賜った。
翌4年(1857)、久保村文四郎と改名する。
慶応元年(1865)5月、御徒目付に任じられる。
慶応4年(1868)、鳥羽、伏見戦のころは、老侯松平春嶽のお供で堺にいたが、閏4月に帰藩している。
9月6日、狙撃隊御徒目付として越後方面へ出張となった。しかし、もはや会津藩の敗北は決定的で、久保村は戦場での戦闘を経験をすることはなかった。
10月1日、越前藩と新発田藩は、会津で北陸道参謀から「大小荷駄方可被相勤事」を命ぜられ、後方補給の業務を担当することとなったが、その組織は、民政局が新設された時の骨格となった。越前藩はその役人も出すことになり、結果、民政局に越前藩出身者が多くなった。
11月16日、久保村は、民生局の監察兼断獄方になるよう参謀から命ぜられる。監察兼断獄方は、警察と検察から裁判所までの権限を一手に持っており、民政局でも大きな力を有した。
明治2年(1869)2月7日、監察兼断獄方の頭取に昇進した。
薩長土をはじめ、戦闘を経験してきた諸藩の武士たちの中では、実戦も経験せず、遅れてやってきた久保村は肩身の狭さを感じたに違いない。久保村は民政局の役人を命ぜられたとき、その劣等感を吹き飛ばすため、必要以上に張りきっていたと思われる。
会津の町民などからは非情酷薄な人間と見られ、その逸話が多く残されている。
あるとき、滝沢村肝煎吉田伊惣治が飯森山の一角で黒羅紗の制服をつけた日新館の学生と思われる四つの小柄な死体を見つけた。伊惣治は不憫に思い、家に戻って棺桶を二つ作製。二つずつ納め、ほど近い妙国寺の墓地に埋葬した。それが官兵の知るところとなり、謹慎所の獄に繋がれた。町野主水が民生局の監察方兼断獄に掛け合ったところ、久保村文四郎は、伊惣治を釈放する代わりに、寺に埋葬した遺体を元あった場所に戻すように命じたのであった。
国元では軽輩で大きな仕事は任されなかったが、ここ会津では絶大な権限を手に入れたのである。時代は下級武士でも能力さえあれば、重要な役割を担えるように変わっていたのである。

🤩柏村毅(1898~1973)

福島県会津美里町(旧会津本郷村)生まれで旧士族、祖父が萱野右兵衛隊の一員として越後口の戦いに参戦している。東急電鉄専務や関東バス社長を務めた陸運界の実業家であった。当時、越後交通(本社長岡市)の会長を務めていた田中角栄に請われて、越後交通の社長に就任していた。
昭和42年(1967)5月から昭和48年(1973)3月の間、会津会の会長を務めている。
柏村は、ほかに京都の鳥羽伏見の戦いなどで亡くなった会津藩の戦没者の為に、会津藩兵が本営とした黒谷金戒光明寺に墓標を建立したり、戦犯として斬首された家老萱野長修のために会津に萱野國老敬仰碑を建立している。





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