会津藩 福岡陣屋と酒屋陣屋



(福岡陣屋)

会津藩は蝦夷地警衛費捻出のため、かねて安房・陸奥の下免の地5万石と越後国同高との替地を幕府に願い出ていたが、文久元年(1861)4月岩船郡、上・中蒲原郡、三島郡、魚沼郡の内5万石の替地が許された。
文久2年(1862)、会津藩は阿賀野川沿いの福岡村(現阿賀野市分田)に福岡陣屋の設置を決め造営は元治元年(1863)であった。その経費については福岡村庄屋の塚野藤七が引き受け、諸経費は民間の拠出によるように10月に代官から命じられた。
陣屋の場所は上福岡と西岡の間に設けられた。陣屋跡は45間×35間の敷地で5間幅の濠をめぐらしていた。この陣屋は慶応3年(1867)6月酒屋に移転するまで約3年間使用され、会津藩新領の統治の中心として存在した。
慶応3年(1867)2月23日に野村円蔵が会津藩新領奉行を命じられ福岡陣屋に到着した。

(酒屋陣屋)

慶応3年(1867)6月、代官所陣屋が福岡村から酒屋村(新潟市)に移された。酒屋村へ移転の理由は、水運を通じて新領内の連絡に便利であること、山国の会津藩にとって、酒屋は新潟湊に近く、新潟湊から信濃川~小阿賀野川~阿賀野川~会津へとつながる河港町としても発達していたこと等が考えられる。

しかしもともと陣屋施設がなかったので、庄屋北上家宅を仮役宅陣屋として普請に取り掛かり、その経費は酒屋村に割り付けた。9月に野村円蔵は会津藩公事奉行仮役に転じ、越後新領郡奉行仮役に名倉新兵衛が交代した。
慶応2年(1866)の新領は凶作であった。慶応3年(1867)の春先から年貢の納入が始まると、新領の領民たちは年貢減額の嘆願を行った。
しかし会津藩は京都守護職として京都の治安維持に当たり、幕閣の中枢に座していたため、凶作にも関わらず年貢を減免する余裕はなかった。凶作による領民の年貢半減の嘆願など聞き入れる余地もなく、領民との間に緊迫した空気が生じた。
慶応4年(1868)幕府水原代官所支配地およそ6万石が会津藩の預かり所とされた。藩はこの命令を1月29日に受け取り、2月28日、番頭の萱野右兵衛を新領と預所の総奉行に任命した。萱野右兵衛が水原に着任したのは3月14日であった。
2月2日、酒屋陣屋で会津・長岡・村松・新発田・村上の5藩が8日間にわたり会議が開かれ、新潟港の管理について申し合わせをしている。
前日の2月1日、幕府側は、水原代官所や出雲崎代官所の幕府支配地を、会津・米沢・桑名・高田の四藩に預けると決定した。
会津藩の越後国内での兵力増強が活発となり、2月20日ごろには、勅使に不敬を働く者が無いようにという名目で、大砲組・備組・番頭組・会津藩遊撃隊などを越後に出兵することを各藩に通知した。これによって越後諸藩に圧力を加え、諸藩が新政府に走るのを監視しようとした。酒屋陣屋には300人を置き、新潟町にも300人を派遣した。



酒屋会談

慶応3年(1867)9月15日、会津藩主導で越後諸藩など14藩が新潟古町の料亭鳥清で会合した。会談の結果、各領内の取り締まりを厳しくし、各地探索の様子を知らせ合うことなどが取り決められた。毎年5月15日に会談を開くこととし、次回は会津藩の主催とした。
しかし、慶応3年10月14日、徳川慶喜が大政奉還を申し出、慶応4年1月の鳥羽・伏見の戦いで幕府方が大敗したことによって、時代が大きく転換した。
会津藩は年が明けると長岡藩や村松藩などを説いて5月の開催約束であった会合を繰り上げて開催するように迫った。
酒屋会談は2月2日に開かれ、会津・長岡・村松・村上藩などの代表が出席したが、高田藩は出席しなかった。

各藩出席者は
長岡藩 … 植田十兵衛
村松藩 … 斎藤久七 ・ 前田又八
新発田藩 … 七里敬吉郎 ・ 井東八之丞
村上藩 … 鳥居与一郎 ・ 水谷孫兵衛
一ノ木戸陣屋(高崎藩領) … 深井小一郎 ・ 市川作右衛門
会津藩 … 菅野安之助 ・ 井深宅右衛門 ・ 池上武助 ・ 名倉庄右衛門(新兵衛)・ 樋口作左衛門
であった。越後一の大藩である高田藩は出席を見送った。

会津藩は、新政府が討伐の軍をむけている、いずれこの軍は、越後地方にも侵攻するであろうから、会津藩を含め佐幕的な越後諸藩が同盟を結んでこれを拒もうという意図があった。しかし、会津藩以外はまだ新政府軍は国境に迫っておらず、佐幕的対応を言明せず、あいまいな対応であった。
会津藩は越後各藩とも新潟港の重要性を強く意識しており、今般京都方面の事変の規模からみると、新潟港へ来船するような大事あるやもしれないのでこれを阻止するため、新潟港管理の申し合わせを行い、一致した行動をとることを申し合わせた。

一.新潟港を始め、公辺御領分(幕領)残らず当国諸藩へ一任し、各藩より人数差し出し置き、御警衛筋厳重取締り、公辺御安体にしたい。
一.右について多くの入費を必要とするので、年貢及び港運上等を以て、人数の賄、台場築造、大砲鋳造、新潟表警護などに充てる。その外、要害の場は追々整備する。
一.年貢及び金銭出納のことは、公辺は勿論、諸藩立ち合いの上取り計らう。
一.外国船貿易の儀は、経験がないので、御奉行所で取り扱い、諸藩会合の上、万事取り計らいたい。

会談後一同は新潟奉行所に向かい、奉行に決定事項を報告した。



また3月15日、会津藩の秋月悌次郎が、藩の軍事編成の一環として、現在の役職会津藩公用方のまま、越後の新領と預領11万3000石詰め勤務を命じられ、16日幌役(参謀役)に任命された。秋月は、越後口総督の一瀬要人に従い、これを補佐するため、越後口の本営が置かれていた水原に着任した。
3月16日には、土屋惣藏の朱雀二番寄合隊の藩兵125人と農兵22人が酒屋陣屋の警備についた。部隊の一部は新発田藩領に向かい、去就が決まらない新発田藩を牽制した。
会津藩は、迫る戦争に備えて資金を調達するため、領内の村々に対して年貢の前納を命じ、御用金や御頼金などを割り当てた。
新政府軍が越後に進攻し、会津藩との戦闘が始まった。三国峠・小出島で敗戦した会津藩は戦闘継続のためには軍資金が必要であるとして、閏4月27日、水原・小千谷の預領及び越後新領に合計4万2000両の軍用御備金を賦課し、5・6月の両月に納入すべきことを命じた。相つぐ御用金の賦課にたまりかねた領民は、免除を乞うたが許されなかった。
7月29日信濃川渡河作戦が行われ、新潟町が新政府軍に制圧される前日の7月28日越後新領郡奉行仮役名倉新兵衛は陣屋内で自刃したとされているが、確証はない。
8月2日朝、酒屋陣屋は俵柳村出身の小林政司が組織した金革隊によって攻撃され炎上した。
米沢藩の参謀甘糟継成がその戊辰戦争日記で会津新領の領民たちは、会津藩に対して憎しみを感じ、「恰も仇敵の如」くであったという。同盟軍に味方し軍事行動する者は少なかった。新領の領民たちの中で、勤王思想に傾倒して草莽隊に参加する者もいたが、会津藩に反感を抱いて加入したものも多かったという。

水原に民政局が置かれると、福岡陣屋の有った地は、新政府の直轄領となった。会津藩の陣屋造営に協力した領民は、その責任を追及されるのを恐れたのか、陣屋を徹底的に破却し、現在では全く痕跡も残っていない。地元の人でさえ、かつて陣屋のあったことを知る人は少ない。

酒屋陣屋碑

〔所在地〕新潟市江南区酒屋町832-2

福岡陣屋跡

〔所在地〕阿賀野市西岡













新潟県内の戊辰戦争(北越戊辰戦争)史跡 Boshin War historic spot and Museum in Niigata

















酒屋陣屋碑 福岡陣屋跡 水原陣屋