国上寺 燕市



国上寺 五合庵
🔗酒呑童子

和銅2年(709)弥彦大明神の託宣によって金智大徳を開山とし、勅願寺として創建された。真言宗豊山派の寺院で、開山1300年の越後最古の古刹である。
12世紀の前半に成立した「今昔物語集」にも、国上の仏塔を破壊し、その造立を妨害した雷神を、神融解聖人(泰澄大師)が法華経の霊力で制圧し、雷神に清水を湧出させ、堂塔の保全を誓わせたという話が残っている。
現在の堂宇は客僧万元上人が中心となり享保3年(1718)に再建し、県内最古といわれている。代々弥彦神社の別当寺として古記に分明されている。
酒呑童子や源義経・弁慶伝説も残る。良寛ゆかりの五合庵はこの寺の敷地内にある。
本尊は 阿弥陀如来像で縁起等によれば、行基作、婆羅門僧正の開眼にして、聖武天皇の后光明皇后により賜った霊仏であると伝えられている。

文治3年(1187)、源義経が平泉へ逃れる途中に国上寺本堂に隠れていたといわれている。義経自作といわれる大黒天木像が奉納された。この大黒天木像を祀った六角堂(※ストリートビュー)が文化13年(1816)に建立された。
承久3年(1221)、承久の乱の時、後鳥羽上皇・順徳上皇方についたため北条氏によって全山を焼き尽くされ、当山の僧重範は紀伊国へ流罪となった。
戦国時代には、上杉謙信より祈願所として十万石の格式を受け、七堂伽藍が建立された。天正11年(1583)に上杉景勝からも保護を受け、寺領を郡司不入とする安堵状が出されている。
しかし織田信長が延暦寺を焼き討ちした頃、国上寺も何度か焼き討ちにあった。
江戸時代に入ると、慶長16年(1611)に松平忠輝から寺領100石を寄進され、元禄11年(1698)には村上藩榊原氏より新田高50石を除地とし、年貢を免除された。

天和2年(1682)、大和国吉野郡の出身の万元和尚が諸国行脚の途中、国上寺良長住職を訪ねが、寺は本堂も焼け落ちて荒れ放題であった。
見かねた万元和尚は、越後の隅から隅まで30年という年月をかけて托鉢して歩き国上寺の再建に尽くした。再建がなったのは、万元和尚の死後の享保3年(1718)であった。
その間万元和尚が住んでいたのが、良寛が仮住まいしたことで有名な五合庵であった。

良寛は、漂泊の旅から漸く五合庵に定住の地を得て、「いざここに 我が身は老いん 足びきの 国上の山の 松の下いほ」と詠んでいまる。

現在の国上寺の境域は約1万5600㎡、麓の国上集落から東西二つの参道があり、むかし東大門のあった東参道は、杉木立の中の谷間を登る。西参道は途中に良寛ゆかりの乙子神社・五合庵などがある。堂宇は本堂、客殿、六角堂、大師堂(※ストリートビュー)、一切経堂、鐘楼堂、宝物殿、山門(※ストリートビュー)などを備える。ほかに、雷神が湧出させたという雷井戸、建久年間(1190~99)、ここに来て修行の日を送ったといわれる修験者、曽我禅司坊の戒壇跡・宝篋印石塔などがある。本尊には阿弥陀如来を祀っている。宝物殿には良寛の屏風・枕地蔵・京都大江にゆかりの酒呑童子絵巻等がある。

✢2019年(平成31)4月19日 国上寺所にゆかりのある上杉謙信、源義経、弁慶、良寛、酒呑童子が全裸に近い姿で露天風呂につかったり、竜に乗ったりする姿を描いた大作を本堂の四方の壁の外側に設置し公開を始める。燕市は市の文化財に指定されていることから速やかな原状回復を求めた。

今昔物語集より
昔、修験道の神融解聖人(泰澄大師 682年7月20日 - 767年4月20日)は法華経の修行を行い全国を行脚した。
ある時、神融解聖人が国上山に立ち寄ることがあった。住人がこの山に塔を起て供養しようとすると、雷電が空から下って来て、塔を蹴壊して、空に上っていった。住人は落胆したが、再びまた、改めて塔を建てた。
神融解聖人は、住人に向かって、法華経の力で雷電からこの塔を守ってやろうと誓い、住人ともども塔の下で、一心に法華経を唱えた。
すると空は暗くなり、雨が降ってきたが、なお法華経を唱えると、身体を五所縛られた15,6歳の雷が、神融解聖人のもとに落ちてきた。神融解聖人は雷から、供養の塔を壊す理由を問いただし、仏法によって戒めた。また、この寺は水の便が悪かったことから、水を出すよう命じた。
雷は、堂塔の保全を誓い、清水を湧出したので、神融解聖人はこれを許し、雷は空に上っていった。この後、雷が誓ったように数百年の間塔が壊るることはなかった。また、この山の東西南北四十里四方、雷の音を聞くことはなく、清水(雷井戸 ※ストリートビュー)も枯れることなく湧出したという。



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酒呑童子

酒呑童子の出生地は越後とされているが、新潟県には、酒呑童子出生にまつわる伝説が多く残されている。
平安初期(8世紀)、恒武天皇の皇子桃園親王が、越後に流罪となったとき、石瀬俊網は妻と共に皇子に従ってきて、砂子塚(燕市 旧分水町大字砂子塚)に城を築き城主となった。妻との間に子ができなく、信濃戸隠山に参拝祈願すると懐妊し、16ヶ月間母の胎内にあって酒呑童子は誕生した。この地には酒呑童子誕生の地と伝えられる「童子屋敷」が今も存在する。
幼名は外道丸、手のつけられない乱暴者だったので、8歳の頃、新潟市楞巌寺(旧岩室村)で勉強し、国上山国上寺へ稚児として預けられた。神仏混淆で、国上寺は弥彦神社の別当寺となっていたので、外道丸は弥彦神社の稚児も兼ね務めた。稚児の仕事は、国上寺と弥彦神社を往復し、書簡を運ぶことであった。外道丸は母が亡くなったことを機に改心し、仏道修行と学問に励んだ。

外道丸は類まれな美貌の持ち主で、多くの女性たちに恋慕された。近郷近隣の娘たちから行李が一杯になるほどの恋文が届いたが、仏門にあり、一心に修行に励む外道丸はそれらに見向きもしなかった。
そうしたうちに、外道丸に恋した娘たちが、次々と死ぬという噂がたった。ある日、叶わぬ恋を悲観したひとりの娘が淵に身を投げ自殺してしまうが、これを聞いて驚いた外道丸がこれまでにもらった恋文を焼きすてようと行李を開けると、中から娘たちの怨念が白い煙となって立ち昇り、外道丸は気を失ってしまう。
目を覚まし、異変に気がついた外道丸が鏡井戸(「童子水鏡の池」)を覗くと、水面には鬼の形相に変わった自身が映っていた。鬼になった外道丸は国上山の中腹にある断崖の穴(「岩屋」)に身を潜め、自らを「酒呑童子」と名乗るようになった。

国上から逃げ出して弥彦へ移ったが、弥彦大神の住まいで安住が許されず、ついに峰づたいに西へ向かった。まず向かったのは長岡市軽井沢(旧栃尾市)である。ここは、国上寺で一緒で一の子分と言われた茨城童子の出身地であった。熊袋(旧栃尾市)からは、虎熊童子が子分に加わった。次に、松之山の金剛童子をはじめ各地で同士を募り、石熊童子ややなきた童子の子分らと、戸隠山の方へ姿をけしたのち、仲間を増やして丹波の大江山に辿り着いた。そして何年か経つうちに、国上や弥彦の人達は、丹波の大江山に酒呑童子がいることを語り聞いたということである。

大江山の酒呑童子たちは、徒党を組み、金棒や刀を奮い、配下の鬼と共に夜な夜な平安京を荒らしまわり、若い娘たちをを誘拐し、乱暴したりその血肉を喰ったという。その傍若無人ぶりはまさに鬼の所業であった。

この行いを見過ごすことが出来なかった時の天皇は源頼光に対し、鬼たちを討伐するよう勅令を出した。頼光は藤原保昌と、頼光四天王(渡辺綱、卜部季武、碓井貞光、坂田金時) を引き連れて、神仏の協力を得て山伏に身をやつして酒呑童子の住処へ潜入する。自分たちは鬼たちの仲間であると信じさせ、鬼の力を封じるという神酒を呑ませ、身の上話を語りながら気をゆるした酒呑童子の寝首を掻いて討伐した。

一方で、悪鬼として逃亡の果てに大江山で成敗された酒呑童子であるが、実は京で晒された首は本物ではなく、本当の首は「首塚神社」に手厚く葬られ、今も信仰を集めているという。頼光の騙し討ちにあい、討伐された酒呑童子たちであったが、本当は京の都で、人々に崇められ、慕われていた酒呑童子に嫉妬した都の貴族たちが、鬼の話を作り上げ、殺してしまったともいわれている。

🔷酒呑童子屋敷跡(酒呑童子誕生之地)

酒呑童子神社

「外道丸」が稀に見る美男子で、山ほど届く恋文を開かずに国上寺で仏道の修行に専念していたが、ある女性が返事が来ないと命を絶ったことから、恋文の入ったつづらを開けると煙が立ち上り、外道丸は鬼の顔に変わり酒呑童子になったとの伝説が残る。
自らの行いを反省し、恋文を大切にする縁結びの神になったとこれを祀り、平成7年(1995)に道の駅国上の裏手に神社が建立された。
社務所はなく、絵馬が道の駅国上で販売されている。

越後くがみ山酒呑童子行列

酒吞童子が、赤・青・黄の3鬼とそのしもべの6鬼を率いて現あらわれ、国上に集う人々の健康繁栄・恋愛成就・家内安全・商売繁盛など願いの成就を祈る。500名を超える参加者がそれぞれの願いをこめて鬼メイクや鬼グッズで鬼と化かし、願いを叶かなえるために練り歩あるく。
  • 〔開催日〕 毎年9月最後の日曜日
  • 〔開催場所〕 酒呑童子神社
  • 〔主催者〕 ☎0256-63-7630 一般社団法人燕市観光協会 酒呑童子行列実行委員会
  • 〔WEB〕https://event.tsubame-kankou.jp/sake/





<現地案内看板より>
酒呑童子伝説
むかし、桓武天皇の第五子、桃園親王が越後に来り、お供をしてきた否瀬善次俊綱という人が砂子塚に住み、城を築いた。そして俊兼の時、子供に恵まれなかったため、信州戸隠山の九頭竜権現に祈願したところ、妻が身ごもり十六ヶ月目に男児が生まれ、外道丸名付けられた。
大きくなるに従い乱暴者になり、八歳のとき和納の楞巌寺にあずけられたが、乱暴は止まらず、こんどは分水町の国上寺へあずけられた。
その後乱暴を心配した母親が亡くなったと聞いた外道丸は、ひたすら修行に励むようになった。外道丸はまれに見る美男子だったため、近住近郷の娘たちからの恋文が山のようにたまったが、目もくれず心から仏を礼拝する毎日だった。ある日、返事の来ないことを悲観した一人の娘が淵に身を投じてしまった。
これを聞いた外道丸は恋文の詰まったつづらを開けたとたん紫の煙が立ち昇り外道丸は気を失ってしまう。しばらくして、自分の顔の異変に気付き、鏡の井戸に顔をうつして見ると、悪鬼の形相に変わっていたという。
仏道修行を捨てた外道丸は、国上山の中ほどにある断崖穴にこもり、数々の悪行をはたらき里人を悩ませた。そして幾日か過ぎ古志郡、軽井沢の茨城童子を従え、そのほか多くの無頼の徒を集め、頚城郡賀風ヶ嶽・信州戸隠を経て、ついに丹波の大江山におもむき、千丈嶽にこもったという。


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