会津街道 Aizu Highway 阿賀町



会津街道 赤谷の戦い
🔗山内宿 🔗赤谷宿 🔗綱木宿 🔗新谷宿 🔗諏訪峠 🔗八木山(焼山)宿


江戸時代、会津街道は会津と越後を結ぶ幹線道路であった。会津若松から鳥居峠を越えて津川に至り、阿賀野川を渡り北に向かい、諏訪峠から当時会津藩領であった行地、綱木、赤谷を経て新発田藩まで通じていた。会津藩では、越後街道・新発田街道と呼ばれていた。
江戸時代の新発田・村上両藩の殿様が参勤交代の際に通った道であることから、「殿様街道」という別名もあった。
またこの街道は、北国街道・三国街道と共に、五街道の一つ奥州街道の白河から分かれて、会津若松・新発田・出雲崎を通り、佐渡金銀山と江戸を結ぶ佐渡三道の一つとして幕府にとって重要な役割を持っていた。会津藩では五街道に準ずる道路として整備に力を入れていた。
1868年(明治元)9月21日、旧会津藩領であった赤谷地方や、津川など東蒲原地方は新政府に領地を没収され、新政府の直轄領となった。その後東蒲原郡は1886年(明治19)5月22日、政府の閣議決定により福島県から新潟県に編入された。いずれもそれまでは会津領で道路の整備等は、会津藩・福島県によって行われていた。(☛ 会津領となったいきさつ 北国街道 三国街道)

寛文年間(1661~1672)の会津藩による街道整備の際に、諏訪峠越えの坂道が全て石畳の道に改められた。今も角島集落から諏訪峠(標高536m)まで断続的に石畳路が残り、当時の街道の面影を残している。道幅約2m、花崗岩の割石や自然石を敷き、急な坂道の箇所には石を階段状に敷いて道が崩れるのを防いでいた。

街道沿いの4ケ所、福取集落の入り口、柳新田から峠に至る途中、峠を北に下り行地に至る途中には、2個一対の一里塚が完全な形で保存されている。会津藩は寛文7年(1667)閏7月に、幕府から、廻国使を派遣するから、領内の道路に一里塚を作るよう申し渡された。若松札の辻(現会津若松市の大町四つ角※地図 ※ストリートビュー)を基点にして、一里塚が作られた。その大きさは大体高さ約3m、周囲20mのお椀を伏せた形状で、土塁の上に榎が植えられていたという。

文人墨客や庶民の利用も多かったと言われている。文化11年(1814)諏訪峠越えをした十返舎一九は「あいづよりゑちごしばたまでいたるかいどうのうち、このとうげほどたかくなんぎなるはなし」(『方言修行諸国道中金の草鞋』)と記している。
嘉永5年(1852)2月、吉田松陰は21歳のとき江戸を出て、佐渡、津軽までの大旅行を試みて、『東北遊日記』を書いたが、その中に雪深い諏訪峠を越えるのに難渋したことが記されている。

慶応4年(1868)の戊辰戦争では、新発田に本営を置いて、参謀山形有朋の率いる長州藩を主力とする官軍が会津城をめざして通った道でもある。

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≪山内宿≫

新発田藩と会津藩との藩境に隣接していた事で新発田藩の山内口留め番所が設けられ、人物改めや荷物改めなどが行われた。
  • 🔸山内口留番所史跡
    新発田藩は、会津につながる米倉・山内の宿場街の設置を積極的に行い、延宝5年(1677)には、散在していた村村を寄せ集めて宿場街を設けた。山内宿は会津藩との境界付近なので、山内口留番所がおかれた。往時は「桂の関」と呼ばれていた。十返舎一九の『諸国道中金の草鞋』に「山の内というふに至れば、新発田よりの御番所あり、茶屋に案内を頼み御断り申して打ち通る」とあり、入るものは改めず、出るものだけを相改めた。番所の遺構は残っていないが、街並みは当時の面影を残す。

    ≪現地案内看板≫
    山内口留番所史跡由来

    本城を警備するのが城門であり町木戸とするとき、藩境を警備するものは藩境の番所である。新発田領はその数が少ない方であり、代表的なのが山内番所である。これは会津街道の藩堺に位置する唯一の口番所である。その歴史は古く往時は「桂の関」と呼ばれていた。

  • 🔸塩止事件
    万治3年(1660)10月10日、新発田藩井上久助,塩止事件の責を負い,会津藩に引き渡されて斬罪に処せられる。当時の幕府の大名廃絶政策はかなり熾烈であり、外様小藩の新発田にとっては存亡の危機であった。この時「拙者に存念がござる」と井上久助(当時54歳)が名乗り出た。久助の身に全く関わりのないことであるが、自ら塩横領の犯人と名乗り、会津に出頭した。 久助は会津藩と新発田藩の藩境(新発田市山内)の番所付近で、会津藩により斬刑に処せられた。

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≪赤谷宿≫

会津藩と新発田藩との藩境に隣接していた事で会津藩の赤谷口留め番所が設けられ、人物改めや荷物改めなどが行われた。
  • 🔸角石原古戦場跡碑


    ≪現地案内看板≫
    角石原古戦場跡
    角石原は、明治元年8月14日薩長連合軍と会津軍が正面衝突の大激戦地で最後は会津軍が崩れ、中々山、赤谷の民家を焼いて潰走した戦いだったが、この戦いは領内が戦場となり新発田藩も多くの犠牲者をだした戦いであった。戊辰の役後70周年を記念して戦場後の、角石原に碑が建てられた。

  • 🔸会藩戦死碑
    ≪現地案内看板≫
    会藩戦死碑
    この碑は明治十七年七月の建立である。百四年前である。今より百二十年前この地は角石原の戦いを中心として戊辰戦争の戦場であった。当時の赤谷は会津藩領であり地域を流れる境川をはさみ新発田藩と相対していた。 慶応四年(明治元)戊辰の年、八月十三日から八月十五日にかけ激しい戦いがくり拡げられた。記録によると、八月十三日暁七ツ時(午前四時すぎ)右に加治川の深渕・杉林、左に城山の麓に小柴茂る中々山角石原にて合戦、両軍とも灯消し相進む、時に雷雨怨天も分からず、忽然発砲、直ちに接戦、銃丸雨霰のごとく、或いは短兵相接して入り乱れる。とある。 官軍(新発田長州薩摩加賀芸州の各藩)、兵力千六百名、砲十門に対して迎える会津軍百六十名、農兵六十名、接戦したて戦い止まず。一進一退の戦況であったが装備、兵力弱小、加えて後援続かず、味方死傷多く、遂に敗れ、綱木より諏訪峠を越え津川に落ちのび、さらに会津に退く。 慶応四年(明治元)八月十五日夜のことである。 この間にあって、赤谷地区住民は会津藩代官の命により、老若男女避難したが、屈強の男子や重立衆は会津藩に組して一部は農兵、力卒となり物資の運搬、伝令、死傷者の搬送など懸命に使役活動に従事した。力戦奮斗すれども利あらず遂に敗走に及ぶ。住民はこの状況をどんな感懐で直視したであろうか、住民はこぞって戦後処理に従事したが、中でもわれらの先輩諸氏は戦いに敗れたとはいえ、人間的崇高な心情を持ち続け、この地に散った会津藩士の霊を弔うべく有志を募りこの碑が建立されたのである。 われらはこの行動に対し共感と深い感動を覚えるものである。 ここに昔日の思いをこめさらに日本の永久の平和を希求しお不動様の地よりここに移築し広く供覧するものである。 昭和六十三年十二月 戊辰百二十年のよき周期を記念して 赤谷地区 会藩戦死者供養実行委員会

  • 🔸一里塚
    8mの円の基盤の上に表層土で3mほど盛り上げている。徳川幕府の命で慶長9年(1604)会津藩がきずいたものである。

    ≪現地案内看板≫
    新発田市指定史跡
    旧会津街道一里塚
    一里塚は、街道に一里ごとに築かれた左右一対の盛土で、慶長九年(一六〇四)、徳川家康が織田・豊臣二氏の古制にならい、秀忠に命じ江戸日本橋を起点として東海・東山・北陸の三街道に築かせたのが最初である。江戸幕府は、のちに三街道以外にもこの制度を広め、諸藩もこれにならい、主要街道や脇街道にも築いた。
    米沢・会津・三国・北国・北陸などの街道が走っていた本県には、当時これらの街道とその脇街道にあわせて一千ヵ所近くの一里塚があったが、今では半壊状態のものも含めてわずか八ヵ所しか残っていない。
    この一里塚は、会津藩が築いたもので、新発田や村上など下越の藩主が参勤交代の際に利用した会津街道に遺る四ヵ所のうちの一つであり、市内に遺る唯一のものである。一対のうち一基が遺されている。
    昭和四十八年一月指定
    新発田市教育委員会


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≪綱木宿≫

宿場として栄え、旅籠が20軒ほどあった。そのなかで昭和初期まで営業していた「山城屋」で今も石の看板が残っている。
嘉永5年(1852)2月8日、諏訪峠を越えてきた吉田松陰と宮部鼎蔵はこの山城屋に宿泊した。

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≪新谷宿≫

新谷宿は会津街道宿場町で、村上藩の藩主の本陣(阿部家)が設けられ、新発田藩の藩主も休息で利用していた。旧阿部家は戊辰戦争で官軍の攻撃により灰燼に帰したが、翌年いち早く再建された。
再建された建物は、その後、新潟市内のレストラン「奥みかわ」として移築され、現在は、所有者が変わり、「ノラクチーナ新潟鐙店」となっている。 ※ストリートビュー
  • 🔸新谷本陣跡
    • 〔所在地〕新潟県東蒲原郡阿賀町新谷

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≪諏訪峠≫

寛文年間(1661~1672)の会津藩による街道整備の際に、諏訪峠越えの坂道が全て石畳の道に改められた。今も角島集落から諏訪峠まで断続的に石畳路が残り、当時の街道の面影を残している。道幅約2m、花崗岩の割石や自然石を敷き、急な坂道の箇所には石を階段状に敷いて道が崩れるのを防いでいる。新発田藩主が参勤交代で通ったことから、地元では「殿様街道」とも呼んでいる。
峠付近の面積1ヘクタールがブナの純林となっている。比較的若い樹が多い中、直径1m以上の巨木も見られ、森林浴や歴史散策に最適である。

峠頂上に立つと、四方に広がる雄大な眺望はすばらしく、快晴の日には磐梯山など会津の山々や新潟湊から海を行き交う船をはるかに望むことができたという。

十辺舎一九が文化11年(1814)の晩秋に諏訪峠を通り、のち「方言修行諸国道中金の草鞋」に、「四方を見晴らし、景色のよきところ多くあり、峠に至れば、茶屋二軒あり。砂糖餅を売る。また雑煮もあり。」と書いている。
嘉永5年(1852)2月8日には、当時21歳であった吉田松陰が江戸を出て、佐渡、津軽までの大旅行を試み、諏訪峠を越えている。「雪深く路険しく行歩甚だ難し。八ッ田、福取及び此、最も深雪を称すと言ふ」と『東北遊日記』に詳しく著されている。
戊辰戦争時、新政府軍参謀だった山縣有朋は、かつて松下村塾で師であった吉田松陰が記述した『東北遊日記』を読んで、「諏訪峠ノ険ハ、曽テ松陰先生ノ紀行文ニヨリテ之ヲ知リ居タレバ・・・」、想像していたより諏訪峠越えが思いのほか簡単だったと、後の回想録「越の山風」で語っている。
  • 🔸行地の一里塚
    諏訪峠頂上から下った山道をはさんで一対をなし、周囲20m、高さ3mあり、山の形に気づかれている。
    • 〔所在地〕東蒲原郡阿賀町行地
      ※地図

  • 🔸吉田松陰之詩碑
    • 〔所在地〕東蒲原郡阿賀町京ノ瀬1425 諏訪峠
      ※地図

  • 🔸柳新田の一里塚
    諏訪峠の山道をはさんで一対をなし、周囲8m高さ3mあり、地形の関係で小ぶりに造られている。

  • 🔸角島の追分道標
    角島の諏訪峠登り口近くには、馬頭観世音石碑、地蔵菩薩石碑と並んで追分の道標があり、「右新発田村上、左水原、五せん小川道」と道順を記している。

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≪八木山(焼山)宿≫

江戸時代、小宿ながらも八木山(焼山)村には蒲原郡海道組十か村平堀村・天満村・花立村・焼山村・倉平村・田沢村・福取村・八田村・宝川村・白坂村の郷頭を務めた渡部家があり、本陣、問屋問屋場は、江戸時代の街道の宿場で人馬の継立、助郷賦課などの業務を行うところで、駅亭、伝馬所、馬締ともいった。 業務の主宰者は問屋と称され、その助役の年寄、さらに人馬の出入りや賃銭などを記入する帳付、人馬に荷物を振り分ける馬指などの者がいた。を兼ねていた。会津藩主の領内巡見や新発田・村上藩主の参勤交代の折に休憩などに利用されていたため「殿様の間」「家老の間」などが造られており、現在も保存されている。村の道路にはさんじょうや、しばたや、やまだやなどの旅籠屋の看板が並び、往時をしのばせている。
十辺舎一九や吉田松陰がこの宿を利用している。
会津藩は会津街道に一里塚を築いたが、焼山の道では地形が険しくて、塚を造れず石で代用した「一リ石」が置かれている。
現在は新しく国道49号が造られ、旧街道は昔の面影をとどめている。

  • 🔸渡部家

  • 🔸八木山の一り石
    八木山は、山道の険しい地形から塚を築くことができず、長方形の石が置かれた。
    2個一対で、それぞれ高さ90cm、幅60cm、奥行50cm。「一リ石」の名とともに、享和元年(1801)の建立年が石に刻まれています。 国道49号の改良工事に伴い、現在地より下方の旧道にあったものを移転しました。

  • 🔸福取の一里塚
    福取の集落からすぐ、旧道(会津街道)をはさんで杉木立の中に一対をなし、周囲20m、高さ3mありおわんを伏せた形をしている。
    • 〔所在地〕東蒲原郡阿賀町福取
      ※地図

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