三国街道Mikuni Highway
| 三国街道は、新潟県南魚沼郡湯沢町と群馬県利根郡新治村との県境にある三国峠を越えて、越後と関東とを結んでいる街道である。きわめて古くから利用されており、中世には、越後守護上杉氏が関東管領と深い関係にあり、相互の結びつきは強まった。また戦国時代上杉謙信の関東遠征の際に利用されることもあった。 主要街道としての三国街道は、近世(江戸時代)になって、佐渡奉行や新潟港巡検の関八州取締出役などの往復・無宿人の島送り・金銀の江戸への輸送、さらに長岡藩・村松藩・与板藩の参勤交代に利用され重要視されるようになった。(しかし三国峠は、険しい地形と夏の豪雨、冬には大雪が降ることから街道最大の難所とされていた。あまりに険しいことから、佐渡金山のお金荷は、北国街道を主要な経路として運搬された。) 慶長年間(1600年代初頭)に、幕府代官伊奈備前守を責任者として三国峠越えの難所の大普請が行われ、浅貝・二居・三俣の「山中三宿」が上野・越後の住人の移住により設置された。 当時の雪国越後の様子を詳しく紹介しているのが、雪国の暮らしをまとめた鈴木牧之の書籍『北越雪譜』である。「雪=美しいもの」と考えていた関東の人々に衝撃を与えベストセラーとなった。南魚沼市は著者鈴木牧之の生誕地であることから、塩沢宿を「牧之通り」と名付け、美しい町づくりに力を入れている。 長岡には、日本酒、みそなどの蔵が集う醸造の町・摂田屋がある。雪深いこのエリアには、糀や酒粕を使用した発酵食が欠かせない。長居冬季も食生活を豊かにした雪国独自の発酵食文化はこの地域の魅力の一つともいえるだろう。
🌌寺泊宿北国街道や三国街道の宿場町として整備され、北前船の寄港地として多いに賑った。🌌地蔵堂宿信濃川から西川が分流する地点に当たり、「蒲原船頭」の拠点となる信濃川・西川水運の河岸でもあり、ここから寺泊湊の海運と結ばれていた。そのため戦国時代より町場として栄え、近世には市も盛んだった。🌌与板宿三国街道の宿場町であると同時に新潟湊と結ぶ信濃川舟運(長岡船道)の拠点でもあった為、多くの物資が行き交い経済的に発展し"大坂屋三輪家"などの豪商を輩出した。現在でも木造2階建、切妻、妻入、1階正面には「雁木」を備える町家が建ち並び往時の雰囲気が感じられる。また町の中心を通る国道403号線は鈎の手に折れ曲がっており、城下町の町割りの雰囲気を残している。
🌌長岡宿長岡は、牧野氏の城下町であった。戊辰戦争と、第二次大戦時長岡空襲により、町並みは徹底的に焼かれ、往時の面影はない。長岡藩の津留番所のあった川袋から対岸の黒津渡の渡し場にわたる。現在は、その面影は残っていない。長岡藩の津留番所のおかれた高見を経て南下する。新町に宿がおかれていた。城下は、代々の藩主が家中屋敷に植栽を指導していたこともあって、緑深き城下町であった。遠望すると、緑の森の丘に長岡城の白壁が載っているように見え、美しい城であったという。
🌌妙見宿問屋場とともに長岡藩南端の津留番所も置かれていた。妙見から先は榎峠越えの難所である。榎峠は戊辰戦争の際に長岡藩防衛の最前線の要害となったところである。今は川に妙見堰が築かれ、その上を国道17号線が通っていて、往来の困難だったころの面影はなくなった。
🌌川口宿長岡藩主牧野家や村上藩主内藤家、新発田藩主溝口家等が参勤交代の際宿泊する本陣があった。信濃川と魚野川との合流点にある。付近の魚野川は鮭・鱒・鮎・八目鰻などの漁業があり、今も簗場が設けられ観光地として賑わっている。
🌌堀之内宿魚野川水運の要衝であり、近世には年貢米の積み出しのために河岸が設けられた。上田銀山への物資調達や縮の取引などの商業が盛んとなり、とくに縮は小千谷・十日町とともに市場開設独占権が認められて大いに繁栄した。堀之内から栃原峠へと向かう。この峠は万治年間(1650年頃)に、小出島付近での渡河を避け距離を短縮するため、堀之内ー浦佐間を直線で結んで開削されたもので、長岡藩をはじめとする諸藩が参勤交代路として利用した。馬頭観音などの石造物※GOOGLE 画像が多く点在し、往時の姿をよくとどめている。 🌌浦佐宿普光寺毘沙門堂の門前町として開け、また、魚野川水運の船継場・宿場でもあった。
🌌六日町宿江戸時代に入り三国街道が整備されると、六日町には本陣、脇本陣、問屋、旅籠など施設が設置された。越後諸侯の参勤交代、幕府直轄の佐渡金山を管理する代官や役人が宿泊した。六日町宿は魚野川で行われていた舟運(上田船道)の最上流の発着地点であり、長岡城の城下まで舟運を利用しくだることができた。六日町宿は、本陣、脇本陣、行政機関(大肝煎の役所)、船会所、問屋などが集まり、人や物資の中継地点として三国街道屈指の宿場町として賑わった。
🌌塩沢宿高田藩の城下町高田と結ぶ松之山街道の分岐点でもあった為、交通の要衝として発展していた。JR塩沢駅付近が街道の分岐点となっていたが、往時の面影は全くない。薄荷草は、近在で広く栽培されて天保・弘化の頃には平野屋(現青木酒造※GOOGLE 画像 の前身)を中心に薄荷油の製造販売が行われた。平野屋は欅の大看板(柱の高さ三丈というが実は三間余か)を店頭の路上に建て、三国街道を通る人の名物となっていた。
🌌湯沢宿湯沢温泉が平安末期に高橋半六(高半旅館の祖)が偶然に発見して以来、温泉地としても知られていた。当初は上田庄石白郷と呼ばれ、湯沢という地名が出てくるのは江戸時代に入ってからである。
🌌三俣宿三俣宿は三国峠から3番目にあたる。浅貝宿、二居宿と共に三国三宿とも呼ばれ、三宿の中では最大規模となり、本陣1軒(関新右衛門家)、脇本陣2軒(越後屋・池田屋)が設置された。三俣宿の中心付近にある三俣観音堂※GOOGLE 画像 の本尊、聖観世音菩薩は池田家が当地に土着した際奉納したものと言われている。
🌌二居宿旧本陣とされる富沢家住宅※GOOGLE 画像 が残されている。戊辰戦争で建物が焼失したが、明治2年(1689)に再建され、現在では湯沢町指定史跡に指定されている。🌌浅貝宿浅貝宿は慶応4年(1868)の戊辰戦争によって、多くの家屋が焼失した。ホテル御宿本陣はかつて本陣を勤めた綿貫家が経営する旅館宿。🌌三国峠三国トンネルの入口左手から、三国峠への登山道がのびている。30分ほど歩いて峠に着けば、三国の一宮がむかえてくれる。ここから上州である。三国とは、越後・上野・信濃の三国を指すとされ、三国峠には三国の一宮である弥彦社・赤城社・諏訪社が祀られている。 |
浅貝宿
二居宿
三俣宿
湯沢宿
関宿
塩沢宿
六日町宿
五日町宿
浦佐宿
堀之内宿
川口宿
妙見宿
六日市宿
長岡宿
与板宿
地蔵堂宿
関中島宿
渡部宿
寺泊宿 