北国街道 Hokkoku Kaido (Northeast Coast Highway)



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出雲崎宿

佐渡の金銀を陸揚げする港として幕府直轄領となり、幕府陣屋がおかれていた。越後一の人口密度を誇る一大交通都市として栄えた。近世に入ると、佐渡金銀山と江戸を結ぶ佐渡三道の一つとして街道が整備され、出雲崎町と佐渡島の小木が船で結ばれる。(👉出雲崎陣屋)

🌌妻入りの町並み

江戸時代に天領(直轄地)として栄えた出雲崎。「妻」を街道側に向けて正面として、その面に玄関があるつくりの家のことを妻入りの町家と言います。間口の広さに屋敷税をかけられていたことから、間口が狭く奥行きの長い「妻入り家屋」が軒を連ねていた。出雲崎の旧北国街道沿いの海岸地区では街道に面している家屋の約80パーセントが妻入りの町家であり、井鼻から尼瀬まで3.6キロメートルにわたって続く日本一の妻入りの街並みを形成している。

北国街道妻入り会館

妻入り家屋を復元した。出雲崎が江戸幕府直轄の天領であった時代から受け継がれてきた伝統的な町屋「妻入り」の間取りを再現した観光交流施設。観光や散策時の休憩所として利用できます。施設内の見学等は自由となっている。

🌌俳諧伝燈塚

芭蕉が出雲崎に1泊したその後、蕉門2世の東華坊は二度までこの地を訪ね、3世盧元坊もまたここに杖をとめて感慨にふけった。出雲崎が生んだ俳人近青庵北溟は宝暦5年(1755)3代に渡る俳人が当地で詠んだ句を刻して建てたと伝えられる。新しい石碑は大正年間に再建されたものである。
  • 〔所在地〕 三島郡出雲崎町尼瀬1592 妙福寺

🌌堀部安兵衛住居跡

元禄年中(1690年代)新発田藩士であった中山安兵衛は生家が没落して浪人中の19歳頃に江戸へ出府の途中この家のところにしばらく住んで、手習師匠をして暮らしていたと伝わる。

🌌勝見稲荷堂 源九郎稲荷神社

守神は高さ7.5㎝。弥檀木像坐体、源九郎稲荷咤枳尼尊と呼ばれ源義経の兜の守護神[狐]を本尊として建立されたとの伝説がある。古くから源氏守護霊神として多くの信仰を集めている。
文治2年(1186)勝見浦に上陸した源義経を見送った静御前と佐藤継信・忠信の母、音羽御前がこの地に留まり、建久元年(1190)一宇を建立したと伝わる。文久元年(1861)朝廷より正一位を贈られた。
  • [所在地] 出雲崎町大字勝見951
  • 〔問い合わせ先〕 ☎0258-78-4395

石地宿

🌌羅石尊

一名羅石大明神ともいい、御神体は「男根」そのままに似た海中天然石がそのお姿である。
かつて海中に屹立する奇岩であったが船の衝突により破損したため,その頭部を祠で祀ったのが発祥という。
ここに鎮座されたのは文政11年(1828)からで、御利益は男女の縁を結び、子授けの神として知られている。また腰から下の病気を治す霊験あらたかな「金神」であるとして、古来より子宝や安産の民間信仰を集め、全国各地からも多くの参詣者があった。祠の床下に鎮座している御神体にふれると念願成就また難病もなおるというので、床下に小窓を開けて手探りながら御神体に触れられるようになっている。
  • 〔所在地〕柏崎市西山町尾町57−1

鉢崎(柏崎)宿

鉢崎関所跡・本陣俵屋跡が残る。鉢崎の関所は徳川幕府の経営する全国53関の中に含まれ、高田藩が管理した。特に奥州筋に対する関門であった。
  • 天明元年(1781)、、米山峠に山崩れが発生し、街道の通行が困難となり鉢崎宿も大きな被害を受けた。本陣「たわら屋」に幕府の役人が出張してきていたが。後の樺太探検で間宮海峡を発見した松田伝十郎が、役人に認められ江戸に上ることとなった。(👉松田伝十郎)
  • 享和2年(1802)10月2日、鉢崎関所で、伊能忠敬一行が、関所の役人から、不審な一行であると止められ、トラブルとなっている。
    測量隊が「幕府御用」の旗をかかげ通り抜けようとした一隊に対し、藩から事情を聴いていなかった関所役人が、測量器具に手をかけ調べようとしたとき、これに忠敬が幕府御用であると激高し、木っ端役人の分際で分をわきまえろと、役人に詰め寄った。忠敬らの一行が規則を無視して通り抜けようとしたのに対し、役人は、規則にのっとって取り調べようとしただけであったが、結局関所役人が⼀応折れて、⼀件落着となったという。

🌌鉢崎の関

鉢崎の関所は徳川幕府の経営する全国53関の中に含まれ、特に奥州筋に対する関門であった。
米山尾神の山塊が日本海に落ち込むように絶壁をなして、上越と下越地方を分界している。2つの地域を結ぶ経路が米山三里の峠といい、この坂口に設けられた関門が鉢崎の関所である。
この関所の運営管理は高田藩に委任されていた。榊原時代の関所規則がある。
1、朝六ツ時(午前6時頃)人が見分けられるほど明るくなった頃に木戸を開けて、暮六ツ時(午後6時)木戸を閉じること。夜間に飛脚等急ぎの者が通る時は、その理由を詳細に改めること。
2.日中、風雨が激しい時以外関所周辺を見回り、不審なことや破損個所があれば、年寄り(責任者)に通知すること。
3.関所内に備え置く道具については、丁寧に扱い、番替えの時は改め、引き渡すこと。
4.関所周りの掃除と、火の元については注意すること。
5.火事や騒動が発生した際は、木戸の早鐘を鳴らして急を告げ、番人は全員番所に集まること。
6.大名や直参旗本が通行するときは、部屋から下りて下座して迎えること。
7.女性が通行するときは、人見女役が念を入れて調べ、これに立ち会うこと。また通行人から賄賂を受け取ったり、理不尽の行いの無いようにすること。

春日新田宿

🌌加賀街道と松並木

北国街道は佐渡金山からの金荷を江戸に運ぶため、五街道につぐ重要な街道として信州中山道追分宿から分岐し、越後高田城下を通って、出雲崎まで幕府によって整備された。
加賀百万石の前田氏をはじめとする北陸諸大名は参勤交代時、高田城下を通過することが決められていた。五智から高田城下までは、特別に加賀街道と呼称された。高田藩が道路の整備にあたり、松の木が沿道に植えられた。
昭和10年(1935)頃は、100本以上も数えられたという松並木も今は本願寺国府別院周辺の道路に10本前後が散見されるまでに減少し、往時の面影はない。

高田宿

徳川家康の息子松平忠輝が高田城を築城し整備した城下町として発展した宿場である。軍事的性格の強い城下町高田では、治安維持のため伊勢町口、陀羅尼口、稲田町口の三ヶ所の出入り口に番所があった。番所の主な任務は通行人の取り締まりと商品の運上金徴収、抜荷防止などであった。番所を通って高田城下に入ると、旅人たちは馬から下りなければならなかった。くわえ煙草も禁止されていた。(👉高田城)

百年料亭 宇喜世 URL

江戸時代末期から続く老舗料亭。魚市場や卸業の店が軒が店が軒を並べる仲町で、江戸時代末期に初代が仕出し屋をはじめ、幕末から明治初めに割烹料亭となった。国登録有形文化財でもある書院造の建物に一歩足を踏み入れると、古の風雅を肌で感じることができる。季節ごとに変わる数種類のメニューを用意し県外客からも人気だ。2階の153畳の大広間は、折りあげ格天上など宮大工の技が各所に施されている。歴史ある建築物と老舗料亭の味を心行くまで堪能したい。

高橋孫左衛門の笹飴、翁飴

江戸時代初期から北国街道沿いに立つ飴屋。日持ちの良さが特徴の翁飴は高田城主が江戸へ参勤交代に出向く時の土産としても使われた。

🌌大田切清水

大田切は昔から交通の難所とされ、参勤交代で通りかかった人の喉を潤してきたという。馬頭観音が祀られ、石仏の下からはこんこんと清水が湧き出ている。(☛ 詳細)

関川宿

関川関所は徳川幕府の経営する全国53関の中に含まれる関所で、越後国唯一の「重関所」と指定されていた。高田藩が委任され管理をおこなっていた。
本陣は大石家が勤めた。(👉関川関所)









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