北国街道 Hokkoku Kaido (Northeast Coast Highway)



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北国街道は、江戸時代に幕府によって、中山道の終点追分宿から高田城下までをつなぐ脇街道につけられた名前。高田から信濃国へ多くの塩が運ばれていたことから「塩の道」と呼ばれた。また北国街道は、加賀の前田家の参勤交代路でもあり、高田は徳川家康の息子松平忠輝が整備し統治した町であった。
その後、佐渡で産出される金銀を運ぶ街道として重要度が増すと、出雲崎まで延長され、やがて新潟湊が発展すると、新潟町までを「北国街道」と呼ぶようになった。

新潟宿

  • 嘉永5年(1852)2月14日、長州の思想家吉田松陰が新潟見物の後、内野・赤塚・稲島を経て岩室に到着。翌日は、彌彦神社を参拝して寺泊・出雲崎へ向かっている。

赤塚宿

本陣は中原家が勤めていた。(👉中原家住宅)

稲島(とうじま)宿

桑原家が本陣を勤める宿場町で、3軒の宿屋と茶屋があった。
明治6年(1873)、稲島の宿場が廃止され竹野町に移って幹線道路から外れると、旧街道筋は村人たち以外はめったに行き交う人もなく、ひっそりとした、たたずまいのみが残った。
街道沿いの由緒ありげな民家や集落周辺は街道の宿駅としてにぎわった往時の風格を残している。また周囲には歴史を秘めた寺や古墳、城跡等々、史実・伝承の跡を豊かにいろどっている。

本間屋の柚餅子

14代将軍徳川家茂に献上され、長岡藩の御用菓子屋に任命された。

🌌伏部道標

ひっそりとした家並み、集落の南端、竹野町へ至る里道の三叉路に建つ「右はやひこ道」の石の道標が往時を偲ばせている。

🌌三根山藩址公園

1634年(寛永11)に牧野駿河守忠成が四男定成に蒲原郡三根山の新墾田6000石を分与し、分家させたのに始まる。1863年(文久2)、時の領主忠泰が高直しにより11000石の三根山藩として立藩し定府大名となった。藩庁は三根山陣屋に置かれた。(☛ 詳細)

🌌景清寺

景清寺縁起によれば、平景清の家来が奥州平沢へ下る途中、この地で馬が死んでしまったので、地名も同じ平沢というのも何かの因縁であろうと馬を埋めて庵を結んだという。境内には大ケヤキがあり、これは、その時、その馬の墓の上に植えたものであるという。
  • 〔宗派〕 浄土真宗 大谷派
  • 〔所在地〕 新潟市西蒲区平沢455
  • 〔問い合わせ先〕 0256-72-7502

岩室宿

当時をほうふつとさせる街並みが現存する。

岩室温泉


灯りの食邸 コカジヤ URL

百年以上の歴史ある古民家を利用して造られた店内には遠い昔から人々が集い賑わっていた暮らしが垣間見える。座敷の一角からは四季を映す庭を眺めることができ、秋には紅葉と共に食事を堪能できる。岩室や弥彦の食材をフル活用したメニューは毎日内容が変わる。

弥彦宿

  • 元禄2年(1689)7月3日に、松尾芭蕉一行は新潟町から徒歩で弥彦へ向かい、午後5時に着いて彌彦神社を参拝したという。(👉松尾芭蕉)
  • 文化11年(1814)8月末、 十返舎一九は弥彦神社に訪ねたと『諸国道中金の草履』に記載している。
  • 嘉永5年(1852)2月15日 、長州の思想家吉田松陰が弥彦神社に参詣している。

寺泊宿

  • 元禄2年(1689)7月4日、松尾芭蕉一行は寺泊の西生寺を詣でた。
  • 文化11年(1814)8月末、十返舎一九は『諸国道中金の草履』によれば弥彦を過ぎた後、波打ち際を3里(約12km)歩いて寺泊に着いたとある。








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