赤倉温泉 Akakura Onsen 妙高市
🔗赤倉温泉の歴史 日本百名山「妙高山」の東側、標高786メートルの高原にある妙高高原温泉 郷でもっとも大きな温泉地。 源泉は、「妙高山」より引湯し、 源泉温度、源泉からの距離、適度な勾配により、各施設の浴槽に満たされるともっとも気持ちのよいと言われる42℃前後になっている。しかも源泉は毎分3400㍑という新潟県屈指の湧出量を誇る。2つの泉質を併せ持つのも珍しい。 温泉街には近代的な設備を誇る旅館、ホテルや土産物店が並んで華やかな雰囲気を漂わせている。 江戸時代末期に高田藩主・榊原家が鷹狩の際の休み所として地獄谷から湯を引いたのが始まりだという。 明治に入ってから本格的な温泉地となり、明治~大正時代には高級避暑地として皇族や華族に愛され、多くの文人や名士たちが好んで訪れた。 尾崎紅葉が「煙霞療養」の中で天下一と著したのを始め文人が次々に訪れ、日本美術界の父と言われた岡倉天心は、大正2年(1913)にこの地の別荘で亡くなった。 また日本でも有数の規模を誇る赤倉温泉スキー場を抱え、民宿や山荘などのリーズナブルな宿から、老舗旅館や高級リゾートホテルといった、幅広い宿泊施設を有する。 妙高山を仰ぎ、日帰り大露天風呂「滝の湯」や足湯公園、岡倉天心六角堂でのんびりするもよし。温泉ソムリエ発祥の温泉地としても知られている。 🔙戻る
🌌日帰り温泉 滝の湯赤倉温泉にある日帰り温泉入浴施設。男女別の露天風呂が各1ヶ所と男女兼用の温泉プールがある。巨岩を積み上げた大露天風呂は一度に50人くらいは楽に入れる大きさで快適そのもの。泉質は硫酸塩・炭酸水素塩泉で美肌の湯として知られてる。施設内には広さ50畳の無料休憩質も完備。 🌌足湯公園温泉街にある無料の足湯。妙高山の山麓から引いた源泉を堪能でき、屋根が付いているので天気が悪い時でもゆっくりと利用ができる。無料で利用できる。営業期間が4月中旬から11月下旬までで、冬期は休業となる。🌌岡倉天心六角堂
🌌赤倉温泉スキー場
赤倉温泉の歴史妙高山は修験道(山伏)の修行する霊山として古代末期から中世にかけて栄え、早くから地獄谷などの湧き出る湯が知られており、近世に入ると麓の村人たちの湯治場として利用されていた。宝蔵院は寺院であると同時に、将軍家より所領100石と妙高山、茶臼嶽、神奈山、火打山、不動山を含む朱印地を認められた領主でもあり、広大な領地を支配し、政治的、経済的に大きな影響力を持っていた。 地元の庄屋らが連名で地獄谷から赤倉へ湯をひくことを願い出たが、宝蔵院は許可しなかった。これは妙高山を御朱印地に持つ宝蔵院へ毎年冥加金を納めて保護されていた関の湯(関温泉)があり、新たに開かれると自分の方への湯治客が減ることを恐れて反対したのである。 文化7年(1810)に名君として知られる榊原政令が藩主になり、藩の財政建直しのため殖産興業に力を入れ、新田開発を進めるとともに、藩士宅に果樹の木の植樹推進など多方面にわたる改革や産業の育成を行い、藩財政の立て直しに尽くした。妙高山麓の田切の庄屋中嶋源八らが妙高北地獄谷の温泉を引いて湯治場を作りたいと願い出ると、政令は藩営の温泉開発に乗り出した。そして藩士松本斧次郎らに命じ宝蔵院と折衝を行わせた。結局、金1100両を宝蔵院へ献金して地獄谷から湯を引くことになった。 文化13年(1816)、温泉場の位置を一本木とし、この地が妙高山の外輪山である赤倉山のふもとにあることから、その後赤倉温泉と呼ばれた。5月16日には藩主みずから家臣を連れて温泉敷地を検分に来た。9月に湯をひく工事が成功し、湯場(共同浴場)2か所が完成した。 高田藩は赤倉の地に「温泉会所」を設け、温泉奉行を任命して取締りに当たらせた、文化14年(1817)5月には、温泉宿を10軒が新たに建築された。この時、和泉屋(現「和泉屋」)、高田屋、永野屋、湯本屋、小方屋、南部屋、村越屋(現「赤倉ホテル」)、高砂屋、遠間屋(現「遠間旅館」)などが開業した。 🔙戻る
🔙戻る
|
|