町野源之助(主水) Gennosuke Machino
| 町野源之助(主水) 天保10年11月25日(1839年12月30日)〔生〕 - 大正12年(1923)6月9日〔没〕 父家老付組頭300石の町野伊佐衛門閑栄、母キトの子に生まれる。通称は源之助。会津では佐川官兵衛とならび称される武勇の士であった。町野家は、初め蒲生氏郷の家老として仕えたが、主家が移封されたとき従わず帰農した。保科正之が領主となると、召し出されて仕え、それ以来代々重臣として松平家に仕えてきた家柄である。 文久元年(1864)、御家老組組頭の役職にあった父伊左衛門の親介添として、京都守護職本陣に向かう途中、桑名藩士と口論となり2人を斬ってしまったが、通常なら切腹となるところ、相手が先に刀を抜いたこと、藩主同志が兄弟であったことから、死を免ぜられ、京都の会津藩本陣となっていた光明寺の仮牢に入牢。7月禁門の変では牢をけ破り脱走し、蛤御門に駆け付け、九尺の槍を振って突進、一番槍を目指すが窪田伴治に続き、飯河小膳とともに二番槍の功名を挙げる。手柄をあげるが許されることなく、罪人として3年間越後国蒲原郡津川で謹慎となった。この期間に、源之助は津川から新発田藩境にかけての地理に精通し、これが後の新政府軍との攻防戦に役立つこととなった。 源之助はこの時28歳で、その体格は、身長5尺7寸(1m73㎝)で当時としては大柄であった。一方、性格は、口下手で、議論になると激高し刀に手をかけることがあった。桑名藩士とも口論の末、刀に手をかけてしまった結果であった。 議論より実行力が必要な戦闘の場面では良い方に向かうこともあったが、平時で重要な判断を必要とする場面では逆に裏目に出てしまうこともあった。 1月7日、鳥羽・伏見の戦いの敗報が届くと、会津若松城中は騒然となる中大評定が開かれ、400余名が出席したという。源之助も座に列していた。町野源之助は、御蔵入奉行兼幌役を命ぜられる。 2月15日、3人の配下と兵50余名を率いて、まだ雪の深い六十里越を越えて小出島陣屋に着任した。この一行に、源之助の弟で16歳の町野久吉が、無理に願って同行した。 源之助は、新政府軍の動静を若松や越後口本営の水原へ通報し、地元で農兵を募って国境の要所、三国峠の守りを固めた。(☛三国峠の戦い) 閏4月24日、関東方面から新政府軍が侵攻を開始し、激戦となったが、衆寡敵せず敗退し小出島に退却した。 (小出島の戦い)
(小出島の戦い以降)小出島の戦いに敗北すると、源之助は一旦会津に戻った。7月下旬、会津藩は越後国内の戦況を憂慮して、町野源之助に対して越後国内に戻り朱雀士中四番隊の佐川官兵衛を助力するよう命じた。源之助は修験隊80名を指揮して越後口に出撃。遊軍として越後各地で活躍する。 7月29日、一旦恢復した長岡城が再落城し、同盟軍の諸将は、三条で今後の方策を協議している。源之助も加わり、一旦同盟軍の本営のある加茂まで退いて、態勢を立て直すこととなった。 8月2日、撤退を開始した同盟軍に新政府軍が急襲した。川を挟んでの銃撃戦となる中、西郷吉二郎率いる薩摩藩番兵二番隊を撃退し新政府軍精鋭部隊の侵攻を防いでいる。(☛五十嵐川の戦い) 8月4日、村松城での戦い、加茂での戦いの後、越後国内の会津藩領がほぼ制圧され、会津藩と桑名藩を主力とする同盟軍は、沼峠を越え会津領に入った。 源之助の隊は、阿賀野川沿いの要所、小松・石間と宝珠山で激戦を繰り広げ、中ノ沢・川口・三日月・五十島を転戦している。19日からは津川周辺の白崎・吉津街道・権現森山の守りに付き、新政府軍の前進を拒んでいた。 8月14日、会津藩領赤谷で、新発田方面から進軍してきた参謀山縣に率いられた新政府軍(新発田藩、加賀藩、長州藩、芸州藩、薩摩藩)1600名と会津軍の間で激戦が繰り広げられた。会津軍は敗れ、阿賀野川を越え津川本営まで撤退した。新政府軍は阿賀野川に到達したが、あらかじめ川に浮かぶ舟を会津側が回収していたので、渡河することができず、川を挟んでの砲撃戦に徹した。 新政府軍はここで10日間足止めをくらったが、8月23日になって奥羽先鋒総督府軍が会津城下に突入した情報が届くと、25日町野源之助は、会津城下に向かって撤収した。(☛ 赤谷の戦い) (会津城下での戦い)8月27日早朝、高久の陣に、源之助を含め会津軍が集結する。城から家老西郷頼母が来て、一隊は城外で敵の侵攻を阻止するようにという君命をもたらした。9月8日、小荒井方面で、敵の侵攻に防戦したが、支えきれず熊倉まで撤退した。 この地に、陣将一ノ瀬要人・上田学太輔・諏方伊助・上田八郎右衛門などが集結、城外で戦う部隊の大部分を占める兵力であった。 熊倉の戦いでは会津軍が勝利をおさめたが、「すでに米沢藩は新政府軍に降伏した」との報せがもたらされた。 9月15日、10時頃、町野隊を先鋒に、新政府軍と激戦となった。この戦いは会津藩最後の大規模な作戦で、会津諸隊が参戦した。越後口総督一ノ瀬要人ら、諸隊長も負傷戦死していく中、源之助も負傷した。萱野権兵衛の命で、源之助は米沢藩降伏の情報を報告するため9月18日、城中に入る。 この日、藩主容保は降伏を決意し、使者を派遣することとした。途中事故等を恐れて、使者を秋月悌次郎ほか数組に分けて出発させたが、源之助はその1人に任じられた。 9月19日、小荒井村米沢藩本営に行き、会津藩降伏の意向を伝え、米沢藩の案内で21日新政府軍本営に降伏を伝える。 9月23日、町野源之助は、降伏の使者を務めたことから、本来は塩川組に入れられるべきであったが、籠城組と見なされ猪苗代で謹慎となった。ここで城に籠城していた父伊左衛門と再会する。
(会津藩降伏以降)12月、源之助ほか20名の藩士が、鶴ヶ城開城後「謹慎ノママ居残リ取締リ申付ル」「但シ滝沢謹慎所ヨリ外出ヲ禁ズ」との新政府軍軍務局からの達しを受け、民政局取締役に任じられた。新政府は、まだ領内に潜伏する会津藩士を出頭させ謹慎させたりするのに、同じ会津藩士であった方が都合よく進むこと、また領外から市中に贋金を持ち込む者があり、これを取り締まる必要があった。選ばれた人間は、武芸に秀で、腕がたつものが選ばれている。この中に、伴百悦もいた。「若松取締」に任じられ、伴百悦らと戦死者の埋葬に尽力した。この時、源之助は敗戦後の会津若松の復興に尽くそうと決意し、名前を主水と改名した。 戊辰戦争で死んだ会津藩士は3014人で、その半数が会津盆地で命を落とした。 10月1日に民政局は2000余の会津藩士の遺体を阿弥陀寺(七日町)と長命寺(西名子屋町)に埋葬するよう命じた。しかし冬期降雪期は、一切戦死者の処置を禁ずる明治新政府通達が出され、遺体は野ざらしとなった。 雪が解けると、カラスや野犬に食い荒らされた無残な遺体が姿をあらわした。腐敗が進んで持つと手足が抜けてしまうような状態で、若松の町は遺体の腐臭で覆われていた。 埋葬作業は被差別部落の人々によって行われた。箪笥の引き出しを利用したり、粗莚に包んだりして、寺院の境内に掘った大きな穴まで引きずって行って埋葬するのであるが、遺体に対する扱いは、物を投げ捨てるような対応であった。 身分制度のあった時代、武士が直接賎民と接触することはできなかった。町野は鷹蕃頭として鷹の餌の鳥獣を買い入れるために例外的に賎民と接触が認められていた藩士伴百悦と相談し、伴は自ら賎民に身分を落とし、直接遺体の埋葬作業に当たった。 町野は遺体処理に同情的な軍務局長官三宮耕庵義胤を訪ね、その計らいで伴は「埋葬方」に任じられた。三宮は元近江国の寺院の息子であった。勤王の志士と交わりを持つうち、仁和寺宮の近くに仕え会津に派遣されてきたが、当時まだ26歳であった。死者を弔いたいという町野の気持ちはよく理解でき同情していたという。 こうして阿弥陀寺1281、長命寺 145など16ヶ所に総数1634の遺体が、 2ヶ月にわたり埋葬されたという。 明治2年(1869)になって、前藩主松平容保に嫡男容大が誕生して家督相続と藩の再興が許されたとき、下北半島の旧南部藩領3万石にするか、会津に隣接する猪苗代3万石にするかの選択を迫られた。 主水は猪苗代派の代表となって、東京に赴いた。一方東京謹慎組は陸奥北郡に意見は一致していた。明治3年(1870)1月、元佐山藩邸の松平容保の謹慎所で、猪苗代と陸奥北郡の地に移転することについて意見が戦わされた。 家老の山川大蔵と広沢安任らは、会津から離れ下北半島に移住することによって新政府に対し遺恨のないことを示し、将来の立藩につなげたいと主張した。一方町野主水は戦災で荒廃した会津に残り、復興に意を注ぐべきであると猪苗代派の代表となって論戦となった。 論戦では結論が出なかったが、会議の後陸奥移住派の永岡久秀と口論となり、激高し刀に手をかけてしまい、それがきっかけになって下北に立藩することに決定した(斗南藩)。翌年明治3年(1870)、会津藩士と家族1万5千人が斗南に移住することになったが、町野主水は会津藩士の身分を捨てて会津に残ることとし、若松北小路52番地に居を構え会津若松復興に尽力した。 こののち、主水は若松取締としてできた新政府との人脈を利用して、旧藩士の就職の世話や、商人が商売のため行政の許可を得なければならないときその折り合いをつけてやったり、会津復興のためと思われることに尽力した。 ただその性格は直情的で、会津復興のためにならないと自分が判断すると、世間の正義がどうかは一切構わずに行動した。その例が、会津帝政党に参加したことである。自由民権運動が広まり会津に自由党ができると、会津の為にならないと、力による弾圧に手を貸している。(清水屋旅館事件) 主水は3回結婚をしている。2番目の妻イシとは、町野家が途絶えることを心配した人の紹介で結婚した。間に、武馬と女子2人が生まれた。妻イシは産後の肥立ちが悪く死亡している。 3番目のマツは、子供たちの世話や教育がおろそかになりがちとなることを主水が恐れて、妻として迎えたという。主水48歳、マツ21歳であった。マツとの間に子供ができなかったので、養女をもらい、死んだ長女のナオに姿を重ねてとてもかわいがっていたという。 町野は明治2年(1869)と明治4年(1871)に小出島を再訪した。小出島陣屋の仮菩提寺に定めていた萬行寺 を訪れ、会津戦争で自刃した家族や戦死者の供養を依頼している。 晩年は会津藩戦没者の霊を慰める団体、会津弔霊義会の設立を願い、発起人の代表となっている。生涯、彼の心底にあったのは「弔霊」の二文字ではなかったろうか。 大正12年(1923)6月9日に老衰で没している。83歳。町野は生前、葬儀では、自分だけ立派な葬式を出しては、会津戦争の戦死者に申し訳ないと、遺体に粗莚をかぶせたのみの状態で墓所まで運ぶよう遺言した。葬式で、再婚後の子の武馬は厳父の遺言に従い葬儀を執り行ったという。町の通りを抜き身の槍と刀を持った人間に先導された裸馬が、粗莚にくるまれた死体を荒縄で引きずって墓まで運んだ。町野主水は後世、最後の会津武士と呼ばれた。 三国峠の戦いで弟久吉が失った槍を返すという話を主水は断ったが、この槍を譲り受け、鶴ヶ城に納めたのは武馬である。 ![]() |
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