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よくわかる会津藩

よくわかる会津藩

  • 作者:菊地明
  • 出版社:晋遊舎
  • 発売日: 2012年12月

戊辰戦争

会津藩関連人物


山田陽次郎
天保12年(1841)〔生〕-明治4年(1871)1月16日〔没〕

会津藩きっての名門、西郷家十代頼母近思・律子の第八子(二男)。家老西郷頼母の弟として生まれる。戊辰戦争時27歳。
嘉永5年(1852)12歳で、小姓頭400石、山田内蔵の養嗣子として米代一之丁の邸に迎え入れられた。
文久2年(1862)、容保が京都守護職を拝命した年に、22歳で軍事方雇の初役を仰せつかり、元治元年(1864)国元にいて代官見習となった。
慶応4年(1868)、軍事方に昇進となる。
3月10日、会津藩は軍制改革を断行した。陽次郎は、添役として朱雀二番寄合隊に編入された。
3月16日、頭土屋総蔵が指揮する朱雀二番寄合隊藩士125人、農兵22人で、越後酒屋の警備に就いた。
閏4月に桑名藩柏崎陣屋で、新政府軍との交戦に備え作戦の軍議を行っている。
5月3日の片貝の戦いは激烈を極めた。中隊頭の土屋総蔵が負傷、隊は瓦解した。5月14日、伴百悦が代わって中隊頭に任じられた。
長岡城落城の5月22日、23日に開かれた加茂軍議に出席し河井継之助の長岡城奪還作戦を支持している。
5月27日の与板口の戦いから陽次郎が伴百悦に代わって中隊頭となり、隊の指揮を執った。
6月5日、与板口の荒巻に転進している。6月11日の久田の戦いなど、寺泊方面で庄内兵などと協力して新政府軍と交戦する
6月23日、隊の指揮を西郷刑部に引き継ぐが、陽次郎はその後も越後に留まり抗戦を続けている。
8月23日、新政府軍に越後街道を封鎖され、城に入城することができず、米沢に向かう。そこで会津が完全に新政府軍に包囲されているという情報を得、救援を依頼するためか仙台へ赴いている。
10月12日、仙台で榎本武揚の艦隊に合して石巻港から蟠竜丸に塔鑑、10月20日、蝦夷鷲の木に上陸した。
榎本武揚指揮下で、会津藩の生き残り70名ほどを集めた会津藩遊撃隊の指図役となった。陽次郎は、江差の戦闘で負傷する。
明治2年(1869)5月16日、箱館で降伏の後、古河藩に幽閉された。
明治3年(1870)3月釈放後、東京にあった斗南藩邸で藩籍を取得、その後も東京に留まる。
4月下旬、同藩能見武一郎と田原左衛門に誘われて、薩長中心の片寄った新政府を倒して、新たな政府を打ち立てようという米沢藩士雲井竜雄の計画に参加するよう誘われた。
7月4日、石橋県庁を奪い取ろうとしたが、実行を見ないまま、他の同志と共に日光・今市で逮捕された。
12月26日、陽次郎は計画の首謀者ではなく、同調者で協力者であったため10年の准流罪の判決を受ける。雲井は斬首の上鳩首、他の首謀者9人が斬首、他に牢内での拷問で死亡したもの17人、刑を受けたものが100人近くに及ぶ大獄であった。
明治4年(1871)1月16日、陽次郎は極寒の箱館の牢舎で獄死した。


西郷勇左衛門
文化9年(1812)〔生〕- 明治29年(1896)2月25日〔没〕

会津藩士。西郷源吾近遠の長男。名は近潔。戊辰戦争時56歳。
元治元年(1864)11月に若年寄を命ぜられて700石に加増されている。主君容保が京都守護職のときは、国元を守ることが多かった。
3月15日、新発田藩前藩主溝口静山(直溥隠居後の号)が家老溝口伊織、用人仙石九郎兵衛らを随え、会津街道を通り帰国の途上若松城下に着くと、西郷勇左衛門、西郷頼母らが伊織の宿舎を訪れ、新発田藩が新政府の要請に応じて京都に出兵したことについて詰問した。
また西郷勇左衛門、土屋総蔵は静山一行に同行し、3月22日新発田城下に到着すると、会津藩兵の新発田領内への派兵を認めるよう強要した。
会津藩が越後口への出兵を決定すると、勇左衛門は息子の刑部と共に、進んで出征し酒屋陣屋に入る。勇左衛門はとかく疑念の多い新発田藩との折衝を担当している。
4月10日から2週間ほど、会津藩小千谷陣屋に出張し、先祖以来厚恩を受けたものは報国尽忠の時と、小千谷の有力者に対して新調達金・新献金に対する協力要請を行った。
5月17日、米沢藩の色部隊と中条隊の大軍が水原町に入り、市島家別邸を軍議所と定める。勇左衛門は軍務係秋月悌二郎、庄内藩石原多門らとともに、米沢藩色部長門・中条豊前らと軍議を開いている。
その後、会津軍内で添役の秋月悌次郎と、意見が合わず、ほどなく城中に召還されている。
会津戦後は、他の藩士と共に東京の講武所において謹慎し、謹慎が解かれた後は、斗南の地に移住せず会津に残った。河沼郡・耶麻郡等の小学校教員などを務め、余生を送った。会津武士らしい生き様だったと称賛されている。
尚、勇左衛門の妻イハ51歳、息子刑部の妻イト27歳、刑部の息子敬一郎2歳と娘カネ6歳。勇左衛門の娘19歳は8月23日若松城下に新政府軍が侵攻してきた際、勇左衛門宅で自刃している。

  • ❏墓所
    〔所在地〕福島県喜多方市山都町小舟寺頭無甲1012 泉福寺


西郷刑部
? - 明治元年(1868)9月17日〔没〕

勇左衛門の長男。戊辰戦争時30歳
刑部は、軍事奉行として、父親と共に出征している。
新政府軍に徹底抗戦をして相手側にダメージを与えてから、講和をはかるのが良策だと考えていた。柔軟に新政府軍との解決策を探ろうとする秋月悌次郎とは相容れない強硬派であった。
加茂軍議において、会津藩は長岡城を回復するという河井の考えを採用しても、その後の策が見通せないと疑問を呈していたが、刑部は、河井継之助の長岡城奪還作戦に議論が収斂するよう発言し後押しをした。
その後は加茂本営に詰め、越後戦線の後方支援に努めた。
6月23日から山田陽次郎に代わり、朱雀寄合二番隊の頭に任じられる。9月15日若松城外一ノ堰の戦いに参戦し、刑部は新発田藩が本陣を置く館ノ原を攻撃した。この際、負傷し、9月17日花崎村で死亡している。
尚、父勇左衛門の妻イハ51歳、刑部の妻イト27歳、息子敬一郎2歳と娘カネ6歳。勇左衛門の娘19歳は8月23日若松城下に新政府軍が侵攻してきた際、勇左衛門宅で自刃している。

  • ❏墓所
    (西郷刑部一家之墓)
    〔所在地〕福島県喜多方市山都町小舟寺頭無甲1012 泉福寺



大庭恭平
天保元年(1830)〔生〕 - 明治35年(1902)1月5日〔没〕

大庭弘訓の次男として会津城下に生まれる。恭平は達筆で若い頃から俳句を詠み、詩人としても名高かったという。名前は景範といった。15石三人扶持で若い頃は江戸で後藤某について草書を学び和歌を良くした。会津藩の密偵ともいわれるが、戊辰戦争前後の、恭平の行動は闇の中にあるようで、その軌跡は幾通りにも語られている。

(足利三代木像梟首事件)

文久2年(1862)に藩主松平容保が京都守護職に任じられて上洛する。これより先、会津藩の重臣である田中玄清や野村左兵衛の密命で浪人となって上洛し、京都で諸藩士と交わり、京地の状況を偵察した。恭平は会津藩を脱藩した長沢真古人から尊王思想の影響を受けて、尊王の志士の仲間に加わった。この時で来た、人脈が敗戦後の会津では役立つこととなった。
文久3年(1863)2月22日には攘夷派による等持院の足利三代木像梟首事件が起こった際、勤王の志の高かった大庭恭平も参加した。
しかし、曝し首に対して容保は激怒し、将軍家へ弓を引こうという行為であると、犯人捕縛の為に全力を注いだ。それまで倒幕派の者とも話し合っていく「言路洞開」と呼ばれる宥和政策を取っていたが、これ以降、尊王倒幕派への一方的な討伐に乗り出した。
これを聞いた恭平は、25日、公用方へ自首して出て、会津藩に情報を流したことから、26日には祇園新地の妓楼奈良屋で一味を捕縛することができた。しかし、容保は、恭平を赦すことはなかった。大庭も犯人の1人として捕縛され、永代謹慎となり、信濃国上田藩に幽閉された。
慶応3年(1867)12月26日、王政復古の大号令がくだされると、慶応4年(1868)1月16日、新政府は恭平たち11名の永代謹慎を解く。免罪となり謹慎先の信州上田藩から釈放されると、恭平は会津藩に帰藩した。
その後、衝鋒隊に軍監として加わることとなった。おそらく、会津藩は、幕府方歩兵隊など旧幕府軍の動きを探ろうとして、恭平を送り込んだと思われる。
この後、越後での戦いや会津戦争で、会津藩と衝鋒隊隊長古屋佐久左衛門との結節点となり活躍した。

(坂本平弥誅殺)

幕府の剣術師範坂本平弥に率いられた、旗本や御家人の二男三男などからなる遊撃隊200余が越後水原に入り込み、市中で乱暴を働いていた。坂本平弥は下野芳賀郡清原村の郷士で、幕府に取り立てられた人物である。水原に来たときには、銃砲など満足に持たない一団であった。会津藩では、新発田藩から銃200丁を供出させ、訓練も行った。
5月3日、片貝の戦いに参戦したが、戦線から遠く離れた位置に陣を置き、戦わないで味方の倍も遠く撤退したという。
5月10日、恭平は坂本が宿泊する郷宿加賀屋に乗り込み、片貝での戦いぶりなど、会津藩にもっと協力し新政府軍と戦うよう申し入れをした。ところが酒を飲み酩酊して、熱のない坂本に業を煮やした恭平は、言い争いとなり坂本を斬殺した。とされているが、恭平自身大酒のみで、酒が入ると性格が変わってしまう人物であった。この時も、些細な口争いから、首を刎ねるまでの大げんかになったのではないかと思われる。恭平の酒癖の悪さは、維新以降も変わらず、職場を転々としたのもそのせいである面があった。

その後、越後での戦闘では軍監として衝鋒隊を指揮し、佐川官兵衛に協力し会津軍と共に転戦した。

(会津戦争)

8月21日、新政府軍が母成峠の戦いに敗れ、新政府軍の侵入を許したという情報を得て、恭平は会津軍と共に若松城を目指し急ぎ撤退する。
8月23日、七日町口での戦いの後、若松城に入城し、松平容保、喜徳にめどおりした。8月26日、恭平は、古屋佐久衛門宛ての容保からの親書を持参した。衝鋒隊は猪苗代方面に進撃したが、退路を新政府軍によって絶たれてしまい、若松城下に引き返すことができなくなった。恭平たち衝鋒隊は、猪苗代から福島城下を経由し、仙台城下に到着する。仙台藩に援軍の要請するが、最早仙台藩には援兵を送るだけの余力がなかった。その後、恭平は古屋と別れ会津藩南摩綱紀とともに会津を救うため庄内藩に援兵を求めて向かう。酒田に到着したのが9月23日で、会津若松城が前日開城したことを知らされた。
庄内藩は新政府軍に対し、9月26日に降伏、開城した。恭平たちは27日に鶴岡城下郊外の櫛引町丸岡で謹慎となった。

(斗南藩へ)

恭平は、庄内藩で終戦を迎え、会津滝沢の謹慎所で謹慎を命じられた。ここで新政府軍から民生局取締に任じられて町野主水・伴百悦などと協力して、戦没者の遺体処理に奔走する。埋葬が終わり、阿弥陀寺の、土の壇の上に大場恭平の筆になる「殉難の霊」の墓標が建てられ、付近の住民の手によって小さな拝殿らしきものも建てられた。しかし、民政局に見とがめられ、朝廷に反抗して死んだ者に対して「殉難の霊」とは何事かと言いがかりをつけられ、撤去を余儀なくされた。この後、恭平は越後高田藩で、会津降人として謹慎をしている。
これには異説がある。恭平は、会津藩の塩川で謹慎となり、その後、越後高田に送られ謹慎していることとなっている。会津藩の諸資料でも錯綜している。

明治2年(1869)6月10日、岡谷繁実が若松城下に着いた。若松を含む岩代国巡察使に随従することを命じられた岡谷繁実は旧舘林藩士で、恭平とは尊王の志士の仲間で旧知の仲であった。
恭平はこの情報を、何らかのルートで得たものと思われる。明治2年(1869)7月に恭平は徒党を組んで謹慎先の高田から脱走した。東京軍務局からは高田を脱走した大庭たちの捕縛命令が出ていたが、岡谷は恭平たちの身の安全を確保している。
松平容保の長男である慶三郎が会津若松城下の御薬園で誕生した。8月21日、恭平は岡谷に容保の実子である慶三郎を藩主として猪苗代の地に5万石で会津藩再興を願い出るなど、岡谷の協力を得て、藩再興に尽力している。
慶三郎に9月11日から20日間、取締り人を命じる巡察使の布告が出された。布告は岡谷の草案からなっている。布告が出されてから20日間、何も犯罪が起こらなければ藩の再興を赦すと言うものであった。逆に約束が破られれば慶三郎を東京の謹慎地へ送り、大庭も高田へ戻されるか斬首ということになっていた。会津若松城下で布告が出された11日以降、政府役人の暗殺事件が起きなくなり、藩の再興が認められることになる。伊達宗城民部興の支持もあり斗南3万石を赦されることとなった。
斗南藩領の田名部へ移住した恭平は、明治3年(1870)7月の斗南藩職制制定に伴い、小属の中の刑法掛に任命され出仕している。明治4年(1871)に廃藩置県、版籍奉還で斗南藩は斗南県となり、弘前県と合併した。

(官吏として)

藩籍奉還後は、明治政府のもとで官吏の道をあゆむこととなる。明治5年(1872)7月31日に恭平は機と変名した。明治6年(1873)10月に恭平は青森県官を短期間努めた後、郷土の会津若松に帰郷している。
10月28日に旧会津藩士では珍しく恭平は若松県に十三等で出仕し、司法省判事補までも命ぜられた。その後、秋田、新潟、弘前、函館の地で法官職に就いたが、その正義感の強い性格から、ならぬものはならぬとたびたび上司と衝突しては異動を繰り返した。新潟時代には坂口五峰(坂口安吾の父)らとともに漢詩の集まり「風月唫社」を興し、詩人として多くの人と交流している。青森県田名部に於いて来た妻と一子精一を呼び寄せている。明治15年(1882)に恭平は函館県に着任したが、北海道庁ができると失職する。明治20年代は北海道と青森の往復を繰り返した。
明治22、23年の頃、還暦を迎えて退職した後は、会津へは帰らず函館で隠棲生活を送り、明治20年代後半より弟の世話になるため室蘭に移住したが、中風症と脳血管障害の為、身動きでなくなる。一子精一は21歳で早逝しており、妻とは離縁している。
明治35年(1902)1月5日に室蘭の弟のもとで死去。波乱万丈に満ちた人生ではあった。享年73。


秋月悌次郎
文政7年(1824)7月2日〔生〕~ 明治33年(1900年)1月5日〔没〕

会津藩士丸山胤道(150石)の二男として若松城下に生まれる。丸山家の家督は長男の胤昌が継ぎ、悌次郎は別家として秋月姓を称する。
藩校日新館に学び秀才の誉れ高く、天保13年(1842年)、19歳の時選ばれて江戸に登り昌平黌に学び、のち舎長となった。藩名で関西各藩を歴遊して報告の書17巻を呈した。長崎では、同じく遊学中の長岡藩河井継之助と邂逅し親交を深めている。
藩主松平容保の側近として仕え、文久2年(1862年)に容保が幕府から京都守護職に任命されると、公用方に任命され、容保に随行して上洛。
藩内佐幕派からの追い落としで、慶応元年(1865年)には左遷され蝦夷地代官となる。慶応3年3月(1867)命によってふたたび京に上った。
戊辰戦争では3月15日、藩の軍事編成の一環として、現在の役職会津藩公用方のまま、越後の新領及び預り領の蒲原、魚沼両郡にわたる11万3000石詰め勤務を命じられ、16日幌役(参謀役)に任命された。秋月は、越後口総督の一瀬要人に従い、これを補佐するため、越後口の本営が置かれていた水原に赴き、密に、旧知の仲であった長岡藩の河井継之助などと面会し、越後各藩との連携を探り、事態の打開を図っている。また、食料や武器弾薬が越後から会津藩へ滞りなく送られるよう手配するなど、専ら裏方として尽力している。

越後での戦況が思わしくない中、会津に帰って副軍事奉行となった。若松城の開城に参画し、手代木直右衛門とともに会津若松城を脱出し米沢藩へ赴き、その協力を得て新政府軍首脳へ降伏を申し出た。
猪苗代において謹慎を命じられたが、謹慎所を密に脱出し、越後水原に滞陣していた奥平謙輔に面会し、藩主容保の助命嘆願を行い、小川亮、山川健次郎の2人の有能な若い会津藩士を預けている。奥平は二人を書生としている。

明治元年(1868年)には会津戦争の首謀者と認められ、終身禁固刑となるが、明治5年(1872年)に特赦によって赦免される。明治維新後は、胤永と名乗っている。
同年、新政府に左院省議として出仕し、東京大学・各高等学校の教授を歴任した。熊本高等学校教授では小泉八雲と同僚であった。
明治28年(1895)官を辞して東京に住し、病を得て明治33年(1900年)、75歳で死去。

  • ❏墓所
    〔所在地〕東京都港区 青山霊園
  • ❏記念碑
    秋月悌次郎詩碑



高津仲三郎
文政10年(1827)〔生〕-明治10年(1877)2月7日〔没〕

儒学者高津平蔵の三男、350石。宝蔵院流槍術と神道精武流剣法免許皆伝。
文久2年(1862)閏8月、藩主容保の京都守護職拝命に伴い、藩士の二男、三男等の中から、弓馬槍刀の四術を極めた者や準ずる者から、「京都常詰先備甲士勤(別撰組)」と称して、約25人を選抜し藩主に扈従したが、その一人に選抜される。
性格は一本気で熱血漢であった。逸話には事欠かない。
慶応3年(1867)、大政奉還後、会津藩は守護職を罷免されたので、別撰隊は大坂にに移動した。
開戦前夜に大坂にいた時、揖関郷左衛門と名乗る大剛の薩摩藩士と路上で鉢合わせし、一対一で真剣勝負を繰り広げた。そして揖関を切り殺してしう。刀は刃こぼれして、鋸のようになったといわれる。容保はこの話を聞くと、刀料として、金百両を下賜したという。
慶応4年(1868)1月5日、鳥羽、伏見の戦いで、左胸下三寸を射抜かれて、重傷を負い、大坂へ後送された。更に江戸へ護送され、芝の藩邸の病院へ入り、治療を受けていた際、将軍徳川慶喜が傷病兵の見舞いに廻ってきた。陪臣の高津は、その時、遠慮もなく将軍自身や幕兵(旗本)のだらしなさを面罵し、返す言葉もない将軍をほうほうの体で退散させた。後日、この直言の件は、会津藩家中に、布令となって廻ったと伝えている。
戊辰戦争時、7月28日、会津藩では藩境の越後口赤谷を守備すべしとし、遊撃隊を急行させている。遊撃隊頭に三宅小左衛門が、組頭には高津仲三郎と赤埴平八が任命され、激闘。その後、抗戦を続け最後は会津城に入城した。
降伏後は、猪苗代で謹慎していたが、新政府軍軍務局からの達しを受け、「若松取締」に任じられる。町野源之助とともに、軍務局と交渉し、戦争で放置された屍体処理・埋葬に尽力する。
民政局、監察兼断獄の頭取役久保村文四郎(福井藩士)の悪政に憤慨し、明治2年(1869)6月、伴百悦等とともに、任務を終わって帰郷の途についた久保村を束松峠で待ち伏せし、誅殺し逃亡した。
明治9年(1876)、不満氏族が各地で決起した、熊本での神風連の乱、福岡での秋月の乱、そして長州萩では前原一誠らの乱がおこった。10月29日、旧会津藩士永岡久茂他14名もこれらに呼応して、挙兵し千葉県庁を襲撃しようとしたが、不審に思った者の通報により駆け付けた警官隊と切りあいとなり未遂に終わった。
高津は中原成業の偽名で参加していたが、自首し明治10年(1877)2月7日斬罪に処せられた。(思案橋事件)

  • ❏墓所
    〔所在地〕中原成業の墓 新宿区市ヶ谷富久町9-23 源慶寺


一ノ瀬要人
天保2年(1831)〔生〕 - 明治元年(1868)9月22日

名前を伝五郎隆知という。 一ノ瀬家の九代目にあたる。家老西郷頼母の3番目の妹、幾与子を妻としている。(山田陽次郎は義理の弟ということになる)
その性格は、細かいことによく気付き、気配りができ、面倒見がよいが、一面意固地で、頑固な面がある。どちらかと云えば女性的な性格で、部下からは慕われていたという。
越前に向かった水戸の天狗党を追討するため、会津藩が藩士を送った際、藩の都合で業務に差が出たが、一部藩士に手当が支給されなかった際には、抗議の為、全家老に役職辞退の願書を送っている。
一方、有事に際しては、組織の長として部隊を動かす、判断力や決断力には劣っていた。後、越後戦線で共に戦った米沢藩の甘糟備後が次のように評している。「一ノ瀬は温良の人なれども、惰弱にして他の才気なし」。
文久2年(1862)に、会津藩主松平容保が京都守護職として上洛した際に、番頭として随行した。
元治元年(1964)7月19日、長州軍・水戸の天狗党が上洛し、御所を襲撃した。蛤御門付近で会津軍と激突したが、御門を守備していた要人率いる一隊が勇戦し、薩摩藩の援兵もあり長州兵を撃退した。(禁門の変)要人は、藩から功績を評価され、100石加増をうけ600石となった。
慶応2年(1966)9月に父の一ノ瀬要人隆鎮が他界すると、家督を引き継ぎ九代目要人隆知と名乗る。翌月、若年寄に任じられ、1,150石の禄高を賜った。
慶応4年(1868)2月に入ると、家老1,500石に昇格、越後口の総督に任じられ水原陣屋に入り、会津藩兵1,300人を指揮することとなった。
閏4月に入り、新政府軍が山道軍と海道軍に分かれて進軍してくると聞き、要衝小千谷陣屋に入り、会津軍の指揮を執る。小出島方面に井深宅右衛門と藩兵200名、雪峠方面に衝鋒隊半隊を主力とする200名を派兵して守備を固めた。閏4月27日、戦闘となったが圧倒的兵力差で苦戦し、敗退。雪峠から撤退した衝鋒隊が陣屋に戻ると、一ノ瀬はいち早く妙見に去っていた。衝鋒隊古屋は陣屋に残された、銃砲、旗、雑具等を舟に積み込み撤退。翌日、妙見で要人に引き渡している。この件で、衝鋒隊指図役頭取の楠山兼三郎は会津藩は頼むに足らずとして、隊を辞し故国に帰った。また、古屋との間でも軋轢が生じている。
5月19日、長岡城が落城すると、要人は河井継之助に、藩主牧野一族の会津避難を進めると共に、秋月悌次郎と、討死を覚悟した河井継之助を説得し思いとどまらせている。
5月21日・22日、加茂の本営で軍議が開かれた。要人は与板口を担当し、600名を率いて進軍し、地蔵堂に本営を置いた。
長岡城を巡っての攻防戦は、その後も続き、7月25日に奪回するものの、河井が重傷を負うと、長岡藩兵の士気が著しく低下した。また、新潟が陥落すると、奥羽の糧道を断たれることをおそれた米沢・仙台藩兵は、八十里越から自国へと撤退していった。29日には長岡城が再落城、長岡藩兵も会津に居る藩主の下に向かった。
越後には、会津藩・桑名藩・庄内藩の一部しか残らず、防衛線を維持することは困難となった。
8月2日、会津軍は、要人の指揮の下、村松城を占拠し、ここで新政府軍を食い止めようとした。翌3日、五泉方面から進撃してきた新政府に攻撃され、敗退。4日、越後での最後の戦場となった加茂に向かう。ここで、桑名藩兵と共に、10倍の戦力の新政府軍と戦うが敗退。沼峠から会津領に入る。佐取・・・石間・・・五十島と、阿賀野川を挟んでの攻防戦となった。
21日、大鳥圭介が主将として兵800名で守る母成峠を、薩摩・長州など新政府軍3,000名が突破したという報が入る。津川口に在陣した要人たちは、この敗報が届くと、一路、若松を目指した。しかし、入城することができず、23日に小荒井村に本営を置いた。
9月10日、城外の諸隊が熊倉に集結した。要人は萱野権兵衛や上田学太輔ら諸将と協議して兵を塩川・小田付・漆村の各街道に配置した。
14日、塩川に集結していた要人ら諸隊は、その夜、城外の敵兵を撃破すべく、若松の西方をまわり、城南の一ノ堰村に向かった。
15日、一ノ堰村周辺で、終日、弾丸が飛び交う激しい銃撃戦であった。会津軍は勇戦した。この中で、総督の要人は徳久の戦闘で、自ら銃を撃ち、味方を激励した。その最中、重傷を受けて倒れた。
17日も新政府軍の一隊が、一ノ堰の会津軍を攻撃した。要人は、陣地に留まり、大きな声で味方を激励した。会津軍は奮闘し新政府軍は敗走したが、要人は、傷が悪化したので、桑原の病院に後送された。
21日、会津藩士桃沢彦次郎が、要人に開城を告げる松平容保の親書を渡した。一気に張りつめていた気力が、抗戦の構えを捨てずにいた要人の身体の中から失われていくのが見えた。
翌22日、要人は、桑原の病院で息を引き取った。享年38歳だった。



井深宅右衛門
天保元年(1830)1月26日〔生〕- 明治30年(1897)3月19日〔没〕

宅右衛門は知行550石で物頭を務める井深清太夫重保の長男として生まれた。母は会津藩士柴太一郎の次女リツ子。家老西郷頼母近思(1700石)の四女八代子を妻とした。名を重義、幼名を梶之助、清兵衛と言った。
嘉永5年(1852)父の死去により、家禄550石の井深家を継ぐ。
文久元年(1861)に町奉行となる。
文久2年(1862)には江戸常詰で御聞番となり、松平容保が信頼する家臣の一人として藩政に携わっていくこととなった。
文久3年(1863)藩主容保が京都守護職となったことから、宅右衛門は命令で軍事奉行仮役として幕末の京へ赴く。
慶応2年(1866)に会津へ戻り学校奉行に就任。藩校日新館館長として教育にあたる。後の白虎隊士らが在籍していた時期である。会津藩では軍備の増強や洋式訓練などを採り入れ、教育内容を軍事優先とする色彩を濃くしていった。
慶応4年(1868)正月2日、先鋒隊として越後へ向かうことになった。18歳以上の日新館生徒と教師からなる一隊で、100名足らずであったが、越後にある会津藩領の警備が目的であった。越後酒屋陣屋に到着すると、鳥羽・伏見の敗戦がもたらされた。
この時15歳であった長男・梶之助は同行を許されなかったが、後を追い宅右衛門と同陣している。
閏4月、越後口総督一ノ瀬要人の下で第二遊撃隊を指揮して、小千谷陣屋に入る。小出島方面に進撃してくる新政府軍に備えるため、町野源之助が奉行を努める小出島陣屋に進軍。閏4月27日、激戦となるが敗退し、六十里越方面にいったん撤退するが、越後に留まる。
5月10日、長岡藩が開戦を決意し、榎峠奪還を同盟軍は目指した。井深の第二遊撃隊は迂回隊として長岡藩川島億次郎隊に同行した。長岡藩隊と新政府軍間で銃撃戦となったが、長岡藩隊は新政府軍に押されてじりじり後退した。井深は、長岡藩隊に代わって、前線にたち、衝鋒隊と共に、突撃を繰り返し、峠を制圧した。
7月29日に長岡城が落城すると、同盟軍は総崩れとなり、藩境防衛に移った。
然し、新政府軍が会津若松城城下へ侵攻した報がもたらされると、会津軍は津川口から若松城に向け撤退することとなった。
宅右衛門は入城に成功して籠城戦に加わり、用人として松平容保・喜徳父子と行動を共にしていた。
9月22日、会津藩は降伏、城を明け渡した。11月になると、宅右衛門は久留米藩有馬邸にお預けとなった藩主松平喜徳に付き添い、江戸の有馬邸で謹慎生活を送った。
明治2年(1869)5月18日、会津藩家老萱野権兵衛長修は会津藩の責任を取って切腹することになった。宅右衛門は容保と照姫からの書状を預かり、権兵衛と面会した。重義は権兵衛とおない歳で、小さい時からの知り合いであったこともあり、権兵衛長修は別れ際に、箸を取り出し、溝口派一刀流の秘伝を伝えたという。秘伝はその後も会津で伝えられている。
明治3年(1870)5月、容保の実子容大が斗南藩知事に任命されると、藩士たちは斗南に移住を始めた。
宅右衛門は五戸に移住し、反物屋を開いたが、武士の商法とでもいうか、たちまち失敗した。明治6年(1873年)に会津へ戻り、商人として生業を立てることを諦め、若松区長、小学校教員、南会津郡書記、田島村戸長を勤めた。しかし斗南の地を離れて故郷に帰ったものの、その生活はみじめなものだった。会津では学校奉行として努めた日新館跡の近くにある若松栄町の借家で細々と生活するようになった。しかし会津藩士としての意地を貫き通すことは忘れず、貧しい生活にも拘わらず子供たちの教育は怠らなかった。辰戦争を挟んでの苦労などで次第に病魔に冒され、明治30年(1897)3月19日に病死した。享年68歳。墓は青山霊園の井深家墓地内にある。

  • ❏墓所
    〔所在地〕東京都港区南青山二丁目 青山霊園