慈光寺 Jikoji Temple 五泉市



村松市街から南へ滝谷川沿いに7kmほどさかのぼったところ、白山(1,012.4m)北腹の谷あいにある曹洞禅刹。
同寺は村上の曹洞宗耕雲寺の末寺で、応永10年(1403)に、領主神戸太郎最重の開基、顕窓慶字和尚の開山、耕雲寺(村上市)の能勝傑堂禅師の勧請開山と伝えている。同寺は荘田300石、殿堂、伽藍のある大規模な寺であった。
これ以前は、当地は白山信仰が隆盛を極めていて、白山を中心とする山岳宗教の霊場として、修行の場とされていたらしい。白山の頂上には白山権現を祀る祠があり、当地が白山信仰の中心地であったことを偲ばせる。
慈光寺には天狗にまつわる言い伝えが多く残されている。寺院が建立された際、大きな杉の木を使ってあまりにも立派な伽藍、殿堂が出来たので、土地の人々はこれを人間業ではなく、天狗のしわざだと恐れたという。現在でも寺のすぐ裏に、『天狗堂』※ストリートビューが祀られている。このことは修験の盛んな地に修験者(山伏)たちの協力によって曹洞宗の寺院が建立されたことを示唆している。
慈光寺はのち戦乱で一時衰えたが、元和4年(1618)、村上城主となった堀直竒が寺領100石を寄進し、再び隆盛に向かった。村上堀家は寛永19年(1643)に断絶したが、分家の村松藩堀氏の帰依が厚く、寺領100石を安堵し保護の手を加えた。
29世高足衡田和尚の時の江戸中期、村上の耕雲寺、岩室の種月寺、南魚沼の雲洞庵とならび曹洞宗越後四道場の一つとなり、寺運は隆盛を極め、神田月泉・滝谷琢字らの名僧が輩出。
江戸時代に同寺は幕府から10万石の格式を与えられ、300石のお墨付きをもらったと伝えられている。現在なお、十万石の格式をあらわす朱塗りの駕籠が保存されている。

寺域は広く約5万6000㎡。黄金の里会館※ストリートビューから慈光寺の間、500m余りの長い参道※ストリートビュー沿いには、樹齢300年を越える100本近い老杉の見事な並木(県指定天然記念物)が続き、昼間でも薄暗い。
並木を抜け、石段を登って山門※ストリートビューをくぐった奥に、木々におおわれた山腹を背にして、宝暦13年(1763)再建の、本堂※ストリートビュー・庫裏・僧堂・衆寮・開山堂・白山堂など、回廊で結ばれた七堂伽藍が並び立つ。
いかにも禅寺らしい、静かなたたずまいである。本尊には聖観音菩薩※ストリートビューをまつっている。
寺宝としては、後鳥羽天皇宸筆の金剛経、光明皇后筆の法華経、楠正成の所用という鎧が所蔵されている。ちなみに勧請開山の能勝傑堂は正成の3代目の孫と言われている。

慈光寺と戊辰戦争

慶応4年(1868)7月25日、新政府軍が新潟太夫浜に上陸し、村松藩には緊張が走った。同月27日藩主堀直賀は、藩主・藩士の家族に避難を命じた。この日、前藩主堀直休の奥方千寿院(弘子の方)と直休の弟貞治郎(直弘)は慈光寺に退避した。
慶応4年(1868)8月1日、長岡城再落城の翌日、村松藩では城中で、大評定を行い藩の態度を協議した。結果、藩主直賀以下抗戦派家臣団士卒100人は、村松城を出て、米沢藩に向かい、新政府軍に対して抗戦することに決した。
抗戦派の藩士が慈光寺まで来て、米沢に向かうよう詰め寄ったが、仙寿院、貞次郎らは同行せず慈光寺にとどまった。そこへ勤王派の士が続々集まってきた。勤王派藩士近藤安五郎は見附にいたが、逸早く新政府軍に投降し、官符を得て慈光寺に帰り、それを同志にくばり、この符を所持する者を正義党とした。
ここで仙寿院以下正義の士たちは勤王の志を遂げ、かつ貞次郎を擁立して藩主とするため新政府軍に投ずることと決した。8月4日、寺を出て、五泉に滞陣する新政府軍に仙寿院と貞次郎は家臣200人を率いて投降した。貞次郎らは直ちに五泉で謹慎を命じられた。後、謹慎を解かれた貞次郎は村松に戻り、藩主直弘として領地を安堵された。


❏〔所在地〕五泉市蛭野870

❏〔問い合わせ先〕 0250-58-4000

❏〔アクセス〕
  • 🚅…JR磐越西線「五泉駅」より車で30分
  • 🚘…磐越自動車道「安田IC」より車で40分

❏〔宗派〕 曹洞宗

❏〔周辺の観光施設〕

❏〔HP〕http://www.jikoji.jp/





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