高城・ヒメサユリの小径 Narrow path of Takajo,the Lilium rubellum 三条市



🔗高城城跡

「ヒメサユリ」はユリ科の多年草で昔から三条市下田地区(旧下田村)の山野に群生し、その清楚可憐な姿は多くの方に親しまれ、また三条市の花としても親しまれている。
森町の高城城址はその「ひめさゆり」の群生地として知られ、特に花が咲き乱れる「ヒメサユリの小径」は約1時間の高城へのハイキングコースとなっており、花の咲く時期には毎年多くの方が訪れます。
ヒメサユリの花を楽しむには、長禅寺脇の登山道入口から登り口の「ヒメサユリの小径」まで、かなり急な登り坂を15分ほど歩き、そこからゆっくりと登って10分ほどのあたりからヒメサユリの群生が見られる。

ヒメサユリは日本特産のユリで、宮城県南部、及び新潟県、福島県、山形県が県境を接する飯豊連峰、吾妻山、守門岳、朝日連峰、周辺にしか群生していない貴重な植物。
茎ははまっすぐか、やや斜めに伸びて高さ20~50cm。開花時期は6月から8月で、花には香りがあり、薄いピンク色で斑点がなく、細い漏斗形で横向きに咲く。花径は5-6cm程、長さは8cm程度。



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≪高城城跡≫

室町時代、国人領主として森町の元町を根拠地として下田郷の東半分を支配した長尾氏の一門である下田長尾氏が本拠とした。高城は長尾豊景により応永33年(1426)に築城された。

下田長尾氏の支配は5代150年間にわたり、永禄11年(1568)栃尾城主本庄氏に攻められ落城するまで続いた。
長尾藤景は、戦国時代の武将で、下田長尾氏の5代目の当主である。永禄4年(1561)の第四次川中島の戦いの軍議中に謙信の戦術を批判したことで、謙信と対立するようになる。戦で勝っても支配領土を拡張し、臣下に報償として領地を与えない謙信の政策に不満を抱いていた。
永禄11年(1568)に謙信の命を受けた小泉荘本庄領主本庄繁長から春日山城内本庄氏の館で行われた祝宴に誘われ、その際に弟の右衛門尉景治と共に謀殺された。また同年には栃尾城主本庄実乃によって家老の長尾興里が守る高城城も落城し、廃城となった。
本庄繁長自身も、この討伐に対して恩賞がなかったことに不満を持って同年、甲斐国の武田信玄の要請に応じて上杉氏からの独立を目論み挙兵した。
現在、元町は水田に、森町は百戸を数える街並みの集落となっている。また、高城の入口で元町との接点には、谷川地蔵尊が現在も祀られている。


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三条市指定文化財 史跡
高城城跡
高城城跡は、室町時代、国人領主として下田郷の東側半分を支配した下田長尾氏が本拠とした城で、応永三三年(一四二六)の史料にみられる長尾因幡守豊景によって山頂部に築かれたとされる高城と、その出城とされる森町要害からなる城館跡です。下田長尾氏の支配は、五代・一五〇年にわたり、永禄十一年(一五六八)、栃尾城主本庄氏攻められ落城したといわれています。
高城
高城は、大字森町字船ヶ沢にあり、標高三七三m、五十嵐川との比高三一三mを測る県内でも有数の高所に立地しています。
高城の遺構は、袴腰山から伸びる尾根とその南北の急崖がなす天険の地を利用し、南北一〇〇m、東西五〇〇mにわたる尾根を削ったり、掘ったりして作り出した曲輪、空堀、土塁が堅固に築かれた大規模な山城です。長い尾根には、尾根づたいの侵入を防ぐために、六箇所に深く大きな空堀が掘られています。その空堀で五箇所の曲輪が区画されています。高城の本丸は、中央の最高所に位置する曲輪で、一辺四〇mの方形で極めて大きなものです。その東側には、二の丸、三の丸があり、西側には階段状に小曲輪を配置しています。本丸の南斜面には三本の土塁と四本の堀を並べた畝形阻塞があります。これは、本丸に肉薄する敵方の行動を封じ、曲輪から矢弾を集中させ敵を壊滅させるために築かれたものであるといわれています。
森町要害
森町要害は、大字森町要害にあります。眼下には、下田長尾氏の居館があったとされる字元町地内を見守ることができます。
森町要害の遺構は、高城に比べると小規模ですが、東西三〇〇m、南北五〇mの尾根上に、三区画の曲輪群が築かれています。東の最高所の曲輪が本丸で、二五m四方の広さです。城の出入口である虎口は、土塁と堀で枡形状に防御されています。高城と城下の中間に位置する要害のため、その防備・連絡の役目を果たしたといわれ、また、要害北側の谷間は、会津へ至る馬越え道の道筋にあたるため、関門要害としての機能も考えられています。






























🌌袴腰山





















高城 森町要害 高城ヒメサユリの小径