会津街道 Aizu Highway 阿賀町



会津街道 赤谷の戦い 新発田藩の戊辰戦争

赤谷の戦い

慶応4年(1868)7月下旬、会津藩は越後国内の戦況を憂慮して、7月28日、松平容保が急遽、越後方面の軍事局がおかれた津川※地図への出馬を決意し、8月1日野沢宿本陣※地図 に着き、そのまま13日まで滞陣した。
容保のもとには、越後方面の敗報が次々と届いた。3日には、新潟湊での敗報と長岡城の再落城の報が届いた。4日には、村松城の落城の報が、5日には米沢藩の総督色部長門の討死の報が、8日には長岡藩からの避難民が奥只見に殺到しているとの報が届き、容保は本陣から動けなくなっていた。

7月28日会津藩では、藩境の赤谷を守備すべしとの命令を発し、遊撃隊が急行している。
遊撃隊頭に三宅小左衛門が、組頭には樋口伸三郎と赤埴平八が任命された。赤埴は東方で力士隊を率いて活躍していたが、越後の急によって移ったのである。
8月2日、遊撃隊と力士隊が赤谷に到着した。またこの日、会津藩境の警備に分散配置された藩兵は手一杯で、赤谷に向ける兵員がなかったため100名ほどの白虎一番寄合隊の出兵が決定され、中隊頭原隼太に率いられて到着した。ほかに、地元の猟師等から編成した猟師隊60名ほどがいた。
会津藩の総兵力は350名ほどで、会津領界の境川※地図 に沿って大砲の配置や胸壁の構築などを行い布陣した。

新政府軍も、中々山村周辺に兵を配置して、会津兵との間で小戦闘はあったが、一気呵成に攻め込むことはせず、着々として戦線を充実させていた。両軍は境川を挟んで緊張が高まった。
新政府会津口征討軍(新発田藩、加賀藩、長州藩、芸州藩、薩摩藩)1600名、砲10門が会津街道を進軍した。
8月13日、新政府軍は、会津藩境の新発田藩領山内村に進軍し、会津藩兵が高所に大砲を設置しているとの知らせがあったことから、本道赤谷村街道を直進して攻撃する隊と、迂回して間道入鳥越より榎平通へ進撃する別働隊で二正面作戦を立てた。
一方赤谷の本陣に集合した会津兵は、350人を数えた。ただちに遊撃隊を二隊に編成して、本隊は200人。中隊頭三宅小左衛門がこれを率い本道方面に向かい、残り150人は組頭樋口(高津)仲三郎が指揮して榎木平へ向かった。赤埴平八の力士隊は本隊に編入されている。
8月14日午前2時、おりからの雷雨の中、新政府軍本隊は先鋒に新発田藩一小隊、安芸藩半隊、長州干城隊一小隊と砲二門、御親兵一小隊で、街道上を進撃し山間の隘路を進軍した。
本隊がちょうど角石原にさしかかったころ、山から降りてきた会津藩兵の迂回隊に急襲された。たちまち白兵戦となった。槍隊など白兵戦を得意とする会津軍が強く、先鋒の新発田藩兵は、斬り伏せられ、小隊長窪田源五左衛門以下10余名の戦死者を出した。新発田藩兵はこれまで実戦経験がなく戦闘に対する覚悟が会津藩兵に比べて劣っていた。この戦の中、白虎隊士佐々木新六郎が戦死した。享年16歳。新政府軍本隊は一旦、退却し山内村付近に集結。隊伍を整え、雨も上がって天気も回復した夜明けを待ち、銃火器中心の反撃に転じた。
一方、迂回隊は先鋒に新発田兵一小隊、徴兵五番隊一小隊、長州奇兵隊一小隊、薩州兵一小隊、薩州砲一門が進発した。榎平では雨中の暗闇の中、樋口(高津)仲三郎に率いられた会津兵と激戦が繰り広げられた。新政府軍は、会津藩陣地の背後に迫ろうと、八方山(※地図 ※ストリートビュー)を攻撃し、会津兵を打ち破り山頂を奪取した。
新政府軍は、八方山上に砲四門を上げた。早朝、視界が明けてくると、山上にあった新政府軍は、会津街道の隘路に進出してきた会津藩兵に対して間断ない砲撃と銃撃を浴びせた。
会津藩が使用した銃が単発式の弾込め銃(ヤーゲル銃)であったのに対して、新政府軍が使用した銃が連発式の新式銃であるなど、圧倒的な兵力と銃火器の差があった。隊長三宅小左衛門は槍をもって、敵陣に突入し奮戦したが、乱闘の中で敵の槍をうけて戦死した。また遊撃隊組頭兼力士隊頭の赤埴平八は刀を振りかざし敵陣に突撃したが、十数発の弾丸を受けて倒れた。新政府軍の、間断ない砲撃と銃撃の中で、遊撃隊は大半が死傷し総崩れとなった。



隊長が戦死し瓦解した会津藩兵には退路を断たれる懸念が生じた。朱雀四番士中隊を佐川官兵衛から引き継いだ隊長町野源之助が赤谷の本陣に入り、総崩れとなった会津藩兵を立て直し防戦に努める一方で、津川の軍事局にいる家老上野学太輔に援兵を依頼した。横山伝蔵の朱雀四番足軽中隊が出撃したが、到着間に合わず支えきれないと判断した町野は、総退却の命令を下した。
会津兵らは、赤谷村に火を放って、南方一里ばかりの綱木村へ退いた。赤谷の被害は全村に及んだが、境橋より北は残らず焼け、休む間もなく新政府軍の追撃を受けた綱木宿は、土蔵1ヶ所、水車小屋一つを残して丸焼けとなった。新谷宿は火をかける時間もなかったのか比較的被害が少なかった。
会津軍は15日の夜、津川へ退き、麒麟山の中腹や関川・金毘羅社・西村の山頂などに胸壁を築いた。新政府軍は会津藩兵を追撃し、網木・新谷の諸村を占領し、16日には、阿賀野川河岸角島に到達した。
この激戦で、両軍合わせて70名の戦死者出ている。このうち20名ほどが会津藩兵といわれている。

会津藩は新政府軍の小川庄への侵攻に備えるため、あらかじめ川筋の村々に命じ、舟の積荷は残らず引き上げ、舟は阿賀野川の西岸へ引き寄せ、大平田舟は囲い置き、毎日の生活には小舟を用いるようにさせた。
結果、阿賀野川に達した新政府軍は、会津軍に全ての舟を抑えられ川を渡ることができず、10日間、川を挟んで激しい砲撃戦が続いた。
参謀山縣有朋は、新発田から船大工を連れてきて舟を建造しようとした。2度諏訪峠を通って新発田城下まで往復したと伝わっている。その時、木を切りだした跡が今に残る。
一方、水原方面から阿賀野川沿いを進撃した新発田藩他新政府軍別動隊は、会津軍が峻嶮な地形を利用して築いた胸壁に手をこまねいて、会津藩本営のあった谷沢村を陥落させることができなかった。
8月23日には、関東を進軍した奥羽先鋒総督府軍が会津城下に突入した。津川の軍事局でこれを聞いた陣将上田学太輔は、8月25日になって、津川から兵を退き、会津城下に向かった。山縣ら、新政府軍はようやく阿賀野川を渡ることができた。また新政府軍別動隊もようやく谷沢村を占領することができたのである。
翌26日から新政府軍は、占領地域の治安維持や租税の徴収を主な任務とする民政局を津川に置いた。この先、新政府軍は占領した会津領の村々に対して、「罪なき者は一切お構い無之事。但したとえこれまで手向かい候者たり共、降参する者は許す。朝敵をかくし置間敷事。当年之儀は年貢半方被下候事」の三ヶ条を布告して人心の掌握に努めた。

明治に入ってから、長州藩干城隊を率いて戦った隊長奥平謙輔は、赤谷の戦いでは会津藩の槍隊の強かったのが忘れられない、と、会津の秋月貞次郎に語っている。

🔸大慶寺・戊辰役殉難者の碑

戊辰戦争の赤谷・角石原で戦死した会津藩士5名の慰霊碑

🔸角石原古戦場跡碑

明治元年7月、新政府軍を8月には奥羽追討軍総督仁和寺宮を新発田に迎え、会津征討の越後口の本営が新発田城に置かれた。新政府軍の先鋒として会津街道へ攻めた新発田藩兵は、総隊長の家老溝口内匠の指揮のもと、会津領域の中山村(現中々山)付近で陣地を築いた。 会津藩も中山村の山中に陣を構えた。そして8月14日早朝、戦いは始まった。激しい戦いで最初は新政府軍に不利であったが、もり返して会津藩を赤谷に敗走させた。 新発田藩も多く戦死傷者を出した。戦場跡碑は市内中々山地内県道沿いの山裾にある。
戊辰の役後70周年を記念して戦場後の、角石原に碑が建てられた。

≪現地案内看板≫
角石原古戦場跡
角石原は、明治元年8月14日薩長連合軍と会津軍が正面衝突の大激戦地で最後は会津軍が崩れ、中々山、赤谷の民家を焼いて潰走した戦いだったが、この戦いは領内が戦場となり新発田藩も多くの犠牲者をだした戦いであった。戊辰の役後70周年を記念して戦場後の、角石原に碑が建てられた。

🔸会藩戦死碑

≪現地案内看板≫
会藩戦死碑
この碑は明治十七年七月の建立である。百四年前である。今より百二十年前この地は角石原の戦いを中心として戊辰戦争の戦場であった。当時の赤谷は会津藩領であり地域を流れる境川をはさみ新発田藩と相対していた。 慶応四年(明治元)戊辰の年、八月十三日から八月十五日にかけ激しい戦いがくり拡げられた。記録によると、八月十三日暁七ツ時(午前四時すぎ)右に加治川の深渕・杉林、左に城山の麓に小柴茂る中々山角石原にて合戦、両軍とも灯消し相進む、時に雷雨怨天も分からず、忽然発砲、直ちに接戦、銃丸雨霰のごとく、或いは短兵相接して入り乱れる。とある。 官軍(新発田長州薩摩加賀芸州の各藩)、兵力千六百名、砲十門に対して迎える会津軍百六十名、農兵六十名、接戦したて戦い止まず。一進一退の戦況であったが装備、兵力弱小、加えて後援続かず、味方死傷多く、遂に敗れ、綱木より諏訪峠を越え津川に落ちのび、さらに会津に退く。 慶応四年(明治元)八月十五日夜のことである。 この間にあって、赤谷地区住民は会津藩代官の命により、老若男女避難したが、屈強の男子や重立衆は会津藩に組して一部は農兵、力卒となり物資の運搬、伝令、死傷者の搬送など懸命に使役活動に従事した。力戦奮斗すれども利あらず遂に敗走に及ぶ。住民はこの状況をどんな感懐で直視したであろうか、住民はこぞって戦後処理に従事したが、中でもわれらの先輩諸氏は戦いに敗れたとはいえ、人間的崇高な心情を持ち続け、この地に散った会津藩士の霊を弔うべく有志を募りこの碑が建立されたのである。 われらはこの行動に対し共感と深い感動を覚えるものである。 ここに昔日の思いをこめさらに日本の永久の平和を希求しお不動様の地よりここに移築し広く供覧するものである。 昭和六十三年十二月 戊辰百二十年のよき周期を記念して 赤谷地区 会藩戦死者供養実行委員会

≪この戦いで戦死者の墓≫

会津藩

  • 白虎寄合一番原隊佐々木新六郎(16歳)、光照寺(会津坂下町字茶屋町甲3911)
    父親の玄武寄合一柳隊佐々木佐左衛門(59歳)も赤谷で戦死している
  • 遊撃隊三宅隊小隊頭兼力士隊頭赤埴平八(34歳)、大龍寺(会津若松市慶山2丁目7-23)
  • 遊撃隊隊長三宅小左衛門(46歳)、會藩戦死碑
    敵陣に突撃して死亡した為、遺体は回収されず、新政府軍兵士によって損壊され、捨てられたものと思われる。

新発田藩

  • 小隊長窪田源五左衛門(48歳)、大善寺(新発田市大栄町2丁目5-22)




















町野源之助

山縣有朋








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