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戊辰戦争

長州藩関連人物


時山直八
天保9年(1838)1月1日〔生〕 - 慶応4年(1868)5月13日〔没〕

天保(1838)1月1日、長門国阿武郡山田村で、父、萩藩三十人通士時山茂作の長男として生まれた。(※地図 ※ストリートビュー) 名前は養直、直八は通称。
少年時代、岡部半蔵から宝蔵院流の槍術を学ぶ。そのころ同い年の山県有朋と知り合い、竹馬の友となる。
嘉永3年(1850)から吉田松陰の松下村塾に学んだ。高杉晋作らとともに尊王攘夷運動に参加するが、攘夷の不可能を悟ると討幕運動に邁進した。京都ではで各地の志士・浪士と交わり倒幕運動にも参加する。
安政5年(1858)家督を継ぎ、6年(1859)江戸に行き藤森弘庵・安井息軒に師事した。また久坂玄蕃と国事に奔走し、文久2年(1862)諸藩斡旋掛となった。
文久3年(1863)8月、三条小橋の宿屋豊後屋へ土方歳三率いる新選組が筑前の浪士・平野国臣の捕縛に向かった際、時山も長州藩士3人と同宿しており、土方歳三の御用改めを受けた。この時は、長州藩士ということで難を逃れた。
元治元年(1864)6月5日の池田屋事件では、尊王攘夷派志士の会合に参加予定であったが、時間に遅れ難を逃れた。7月19日に起きた禁門の変で長州へ敗走した。
帰国後、高杉晋作が奇兵隊を設立すると創設メンバーとして参加し、4カ国連合艦隊と下関で戦うなど、奇兵隊の軍監として活躍した。
慶応2年(1866)、幕府による2回目の長州征伐では、小倉口で山県有朋とともに戦い、少人数の奇兵隊で幕軍を敗走させた。
慶応4年(1868)奇兵隊参謀として越後口に出征した。
時山は、人を引き付ける不思議な魅力を持つ人間であり、その単身痩躯の身体からは精神力、気力が満ち溢れ、直情径行で一本気であった。
総督府参謀の山県狂介(有朋)とは同じ年齢ということもあり、お互いの長所・短所を補い合いながら幕府による長州征伐など数々の戦場を車の両輪のように切り抜けてきた。
朝日山の攻撃に際しても、応援を待たず攻撃をかけたのは、功を焦ったからではなく、自らの過去の戦闘の経験や状況を判断して開始したものと思われる。幾多の戦場を、持ち前の直観と突破力で切り抜けてきた時山も、相手の指揮官が立見であったことが誤算であった。立見は、状況を客観的に掌握して戦略を立てる人物である。賊軍でありながら後の明治政府で陸軍大将にまで昇進した人物であった。単に時山の運が尽きたのではなく、戦略家としての差が出たように思われる。
時山直八は、他の戦死者とともに船岡山西軍墓地に埋葬された。また残された遺体を葬った墓が、浦柄神社にある。
  • ❏墓所
    〔所在地〕小千谷市稲荷町11 北越戊辰戦争西軍墓地
  • 小千谷市浦柄660 浦柄神社
  •   山口県萩市山田 楞巌院



奥平謙輔
天保12年(1841)1月21日〔生〕~明治9年(1876)12月3日〔没〕

戊辰戦争時27歳。
天保12年(1841)2月12日、長州藩士奥平清兵衛の五男として萩城下土原に生まれる。文久3年(1863年)の下関戦争では先鋒隊士として参加。慶応2年(1866年)には干城隊に配属された。
戊辰戦争時干城隊は170名ほどの中隊で、前原一誠が隊頭を勤めていた。奥平は参謀として東奔西走で越後、会津と転戦した。最後は会津に滞陣した。
その性格は、恐ろしいくらい激しい性格で、周りを恐怖に陥れる場面もあったが、一面では人情味の有る人物でもあった。
会津に滞陣したおり、若松城に籠城していた旧知の秋月悌次郎に書状をしたため、開城を勧めている。その手紙は切々と説得する文面で、奥平の文才が見られる。
また、後に奥平が水原に引きあげると、秋月は謹慎所を脱走して奥平に逢い、藩主容保の助命を嘆願している。またその際、秋月からの要請をうけ、会津の将来有望な若者を書生として引き受けている。奥平は、伊藤博文のようにプラグマティックに立身出世を追い求めるタイプの人間ではなく、人情に篤いという二面性があり、これが後の萩の乱に巻き込まれていく要因となった。
(戊辰戦争時)
7月29日、新政府軍が新潟町への上陸作戦を敢行した際には、奥平謙輔がまず信濃川を越えて対岸の平島を偵察した。のち、新政府軍は同盟軍陣地を一斉に砲撃し、次いで沼垂から総軍が渡河して下所島を占領したのである。長州干城隊が占拠していた町会所の前では、網袋に入った生首三つを引きずる新政府軍兵士の周りに人だかりができていたという。
8月3日、新政府軍長州藩の干城隊参謀奥平謙輔と軍監桂譲助が使者として帰順を申し入れた三根山藩赴き、藩の家老らと会い、小藩のことゆえ賊徒に加担したことはやむを得ない面もある、庄内藩を征伐する戦いに参加し実効を示すことで恭順の意志を表せばよく、藩主忠泰の新潟出頭を命じている。
8月10日、米沢藩征討のため、安芸藩寺本栄之助、土佐藩深尾三九郎、長州藩奥平謙輔、薩摩藩村田勇右衛門等の参謀が下関の豪商渡辺三左衛門家を本営と定めて入居した。兵の配置や、攻撃の手順を打ち合わせた。
8月14日、新政府軍は赤谷を守備する会津軍陣地攻略の作戦を立て、八つ時(午前2時)準備を整え、七ツ時(午前4時)進撃を開始した。主力は長州で、先鋒として新発田藩と芸州の部隊が督励されていた。奥平謙輔の干城隊と、その指揮下で越後の草莽隊も参戦している。
8月28日、米沢藩の降伏交渉が、沼村の船山久助宅で行われた。米沢藩の斎藤と黒井の二人が出席。薩州の村田、長州の奥平、芸州の寺本その他諸藩の重役が出席した。新政府側から講和の三条件が示され、米沢藩はこれを受諾している。
(佐渡統治時)
明治元年(1968)11月、奥平謙輔が草莽隊の北辰隊をひきいて、越後府権判事として佐渡へ渡り、中山信安から権限を引き継いだ。明治2年(1869)8月には職を辞しているから約8か月の在任期間であった。
もともと、佐渡の責任者は、長州などの藩士の名前が挙がっていたが、辞退がつづいた。佐渡は島流しのイメージが強く、これから中央で立身出世を目指すものにとって魅力ある役職ではなかったようである。
水原で一緒だった前川一誠が越後府判事に任命されていたことから、奥平は佐渡判事を引き受けた。
奥平は短期間であったが、矢継ぎ早に変革をおこなった。その中でもっとも佐渡の人達に衝撃を与えたのは寺院の廃寺統合であった。佐渡は周囲53里(212キロ)、当時戸数18,811戸、人口81,360人という島であるのに、寺院が539ヵ寺あったという。これを戸数に割り当てると35戸に対して一寺の割り当てになり多すぎるとした。また他に修験者のいる寺141院があったが全部廃止とした。結局531ヶ寺は、わずか80ヶ寺だけに存置が許された。
明治維新における廃仏毀釈運動は全国的なものであったが、佐渡の廃止統合は行き過ぎだといわれ、後任の新五郎が佐渡権知事となり、翌年55カ寺が復活した。
(萩時代)
郷里に戻ってからは攘夷論を説き、新政府の方針に不満を募らせる。明治9年(1876)には前原一誠を盟主に萩の乱を起こしたが敗走し、12月3日に斬首となった。享年36。



三好重臣(しげおみ)
天保11年(1840)11月14日〔生〕- 明治33年(1900)11月28日〔没〕

長州藩士、三好五右衛門の五男として長門国萩で生まれた。幼名、軍太郎。
文久3年(1863)奇兵隊に入隊して外船砲撃戦に参加し、慶応2年(1866)6月幕長戦に奇兵隊中の参謀として豊前小倉口の太貫山・赤坂で敵を撃破した。のち品川弥二郎らと提携して事に当たり、慶応3年(1867)薩長連合して出兵上京、慶応4年(1868)戊辰戦争に越後へ進軍した。

閏4月21日、新政府軍は山県狂介と黒田了介を参謀とする本隊海道軍と、軍監岩村精一郎が指揮する山道軍に分かれ高田城下を出発する。海道軍は軍監として三好軍太郎が指揮して、柏崎を守備する桑名藩兵と、閏4月27日に鯨波で交戦する。激戦の末、翌28日に柏崎に入り、本営を置いた。
山道軍は、会津軍と交戦し、閏4月27日には会津藩小千谷陣屋に入り、長岡藩との藩境にある三国街道榎峠を奪い兵を配置した。
5月12日、開戦を決意した長岡藩はじめ、同盟軍に榎峠を奪還され、新政府軍は守勢に立っていた。参謀、山県は、三好軍太郎に命じて、信濃川を渡河し長岡城を急襲する作戦を作成させた。
5月19日、三好軍太郎は長州・高田の兵を率い、大雨で増水し、濁流渦巻く信濃川を、煙霧に乗じてひそかに渡河を決行した。薩摩藩兵も続き渡河したので、手薄だった長岡城は落城、見事な奇襲作戦であった。
新政府軍は、一挙に前線を見附・三条方面にまで押し上げた。前線の本陣を今町永閑寺におき、新政府軍を指揮するため、三好軍太郎が入った。
6月2日、今町の戦いが行われ、河井継之助に指揮された同盟軍が、今町と中之島に襲いかかった。三好軍太郎は、中之島の危急を聞き手兵を引き連れて応援に向かったが、敗退、今町も壊滅的敗北となり、新政府軍は戦線を長岡まで後退せざるを得なかった。この戦いで三好軍太郎は銃創を負い、負傷している。山県も、軍太郎の負傷を嘆いたという。

戊辰戦争凱旋後、明治3年(1880)陸軍大佐となり、東北鎮台司令長官となり、明治10年(1877)の西南戦争に第二旅団長として出征、平定後に陸軍少将、翌年陸軍中将に進み、第一師団長となり、次いで軍監に親補、明治27年(1894)枢密顧問官に任ぜられた。年61で病没。



滋野謙太郎(清彦)
弘化3年(1846)2月8日〔生〕 - 明治29年(1896)9月16日〔没〕

長州藩士・真弓田謙次信眞の長男として長門国阿武郡生雲中村に生まれる。
17歳で高杉晋作の創設した奇兵隊に入隊して、書記や伍長となる。18歳で第一次幕長戦で目覚しい活躍をし、また第二次長州征伐の小倉口の戦いでは第一銃隊長として活躍をする。
戊辰戦争では奇兵隊第一小隊長として、各地を転戦する。山県の信頼が最も厚かったといわれる。この頃、真弓田から滋野に改姓している。
朝日山の戦いでは、小千谷三仏生で奇兵一番隊を指揮して、同盟軍と交戦中であったが、山県から小千谷本営に来るようにとの指示を受け、5月13日早朝、小隊70名を率いて、小千谷本営に向かう。朝日山攻撃を指揮する時山を支援するため為、山県と供に横渡の本陣に向かうが、時山は既に進発していた。戦いは、新政府軍の敗退で、時山の首級を抱える兵士にも途中遭遇するが、尚も攻撃に向かおうとする山県を諌めて引き留め、思いとどまらせている。
維新後は陸軍にすすむ。明治4年(1871)、陸軍少佐へと異例の昇進を遂げている。
佐賀の乱には佐賀征討総督幕僚参謀として出征。また西南戦争では、明治10年(1877)2月から10月までの間、西南戦争征討総督本営参謀として出征。
明治20年(1887)5月24日、佐賀の乱・西南戦争の軍功により男爵を授けられる。
明治25年(1892)11月、中将昇任。
明治29年(1896)、胃癌のため、東京市麹町区富士見町の本邸にて死去した。享年51。