三根山藩 新潟市



寛永11年(1634)長岡藩主牧野忠成の四男定成が、蒲原郡内に6000石を分知され、上和納に陣屋を築いたが、享保15年(1730)、陣屋は三根山に移された。
文久3年(1863)、11代牧野忠泰は石直しにより大名に列し、1万1千石を授かると陣屋を改修し、東門、西門、御殿、馬場などを建設するが藩主は定府のままであった。

(戊辰戦争)

慶長3年(1867)の大政奉還以降、国内擾乱の中で越後の情勢も不穏となり、藩主忠泰は慶應4年(1868)三根山藩に帰任することになった。
慶応4年(1868)5月6日、黒川・三根山・村上・村松の各藩が新発田に会合し、先に会津・米沢各藩から申し入れのあった趣旨に沿って会津藩謝罪嘆願書を提出することとし、これを新政府が拒否した場合の武力抗戦の申し合わせを行い五藩による同盟を確認した。長岡藩は慈眼寺における小千谷談判が決裂し、奥羽越列藩同盟加盟に舵を切っていたので、ここに越後六藩を含めた奥羽越三十三藩による大同盟が成立した。
新政府軍と戦端が開かれると、三根山藩は、長岡に派兵した。 しかし、5月19日、長岡城が落城すると、三根山藩は与板藩を通して帰順すべく、家老の神戸十郎右衛門を与板藩に送ったが、庄内藩からの圧力を受けこれを断念した。
庄内藩は奥羽列藩同盟の定めに応じて、石原多門を主将とする援兵250余名を出兵、5月11日鶴岡を出発し、寺泊方面に向かった。5月21日三根山を通過した際、同藩が長岡城落城後新政府軍側に帰順しようとしていることを知り三根山藩を威嚇し出兵を迫った。三根山藩はやむなく半小隊を出し、庄内藩に従軍させた。以後庄内軍と行動を共にし、野積、寺泊、出雲崎と戦闘が繰り返される。
7月29日、新潟湊が新政府軍の手に落ち、長岡城が落城して、列藩同盟軍が総崩れとなると、庄内藩兵は三条方面に撤兵した。三根山藩兵も帰藩してきた。
新政府軍は新潟占領の翌8月1日、同盟軍追撃のため信濃川左岸を進撃した。すでに同盟軍の姿は見られず、8月2日赤塚に達した。
三根山藩では急遽、新政府軍に使者を派遣し帰順の申し入れをした。小藩のことゆえ賊徒に加担したことはやむを得ない面もある、庄内藩を征伐する戦いに参加し実効を示すことで恭順の意志を表せばよく、藩主忠泰の新潟出頭が命じられた。
8月12日に藩主忠泰は藩の全兵力(80人程)を引き連れて、新潟の新政府軍に出向き謝罪の嘆願を行った。嘆願が認められ藩主忠泰は謹慎となり、翌日藩兵はそのまま、与板藩などと共に庄内口に出兵となった。

戊辰戦争後、三根山藩は、戦費などの支出が重荷となって、藩財政がひっ迫した。
明治元年(1868)12月7日、朝敵諸藩に処分が発表され、長岡藩とその支藩の三根山藩は減封を受け、それ以外の諸藩の領地は安堵された。
三根山藩に対しては、一旦は逆賊となった責任が追及されて転封命令が出され、明治2年(1869)10月25日付で、信州伊那郡の内で新領を受け取り、三根山領は水原県へ引き渡すことが指令された。これに対し藩と村役人層が据え置き嘆願を行い、500石を上知し減封することで転封命令は撤回された。
明治3年(1870)、三根山藩は自藩自身まだ余裕のある状態ではなかったが、長岡戦争に敗れ、極度に窮乏状態に陥った牧野本藩を救援するために、牧野忠泰は米百俵を贈った。この逸話は後に山本有三が戯曲にした事で著名になった。(☛ 小林虎三郎)
この年、藩名が丹後の峰山藩と紛らわしいため峰岡藩(みねおかはん)と改めさせられる。
翌明治4年(1871)に廃藩置県が行われ峰岡県となり、同年中に新潟県に併合された。
陣屋地は小公園となり、土木遺構は残らないが、地盤が周辺より若干高くなっていていることで、陣屋があったことが偲ばれる。公園内に「米百俵」の碑が建てられている。

  • 〔所在地〕 新潟市西蒲区峰岡445 三根山藩址公園



















三根山藩址公園 三根山藩藩校入徳館跡