間瀬海岸 Mase Coast 新潟市
🔗間瀬石 間瀬海岸は、白い凝灰岩が長さ100メートル余りに渡って生みに突き出た白岩や、獅子岩などの景勝が連続する。多宝山の西麓が日本海に落ち込むあたりの海岸。 弥彦山の裏手にある、野積浜から角田峠まで続く越後七浦シーサイドラインからは、真っ青な日本海の美しさとともに、数々の奇岩が織りなす景勝に出会える。 この付近には史跡・名勝が多く、年間を通してたくさんの人が訪れる。 数ある奇岩の中で、間瀬海岸に独特の奇岩風景を作っているのが「枕状溶岩」です。今から約2000万年以上前の海底噴火によって,粘性の小さな玄武岩質溶岩が、水中に流れ出したときできた。不規則につながった楕円形の岩塊が累積し、断面がちょうど重ねた枕を積み重ねたような形をしていることからそう呼ばれるようになりました。全国でも分布はきわめて珍しく、昭和36年(1961)に県の天然記念物に指定された。 そのほか、小説家の渡辺淳一さんの『かりそめ』の舞台にもなった、間瀬海岸のシンボル「白岩」、別名「沖弁天」とも呼ばれ、豊漁を祈願する弁財天が祭られている枕状溶岩でできた「弁天岩」、横から見ると獅子の頭のように見える「獅子ケ鼻」など、道路脇のがけからさまざまな種類の岩を楽しめる。 また海岸近く、明治のころまで栄えた 間瀬銅山跡に新潟市在住の彫刻家早川亜美氏作、高さ16メートル余りの「越後七浦観音像」がたてられている。(案内図) 🌌越後七浦観音現在の観音像は2代目である。初代の観音像は昭和46年(1971)8月弥彦山の麓に魚籃観音像として開眼した。地域住民の信仰を集めていたが、多年の風雪害により損傷も次第にはげしく遂に昭和58年(1983)6月閉眼した。観音像再建を望む声が強まり昭和60年(1985)9月、魚籃観音の再建遷座を見るに至った。大きな鯛の上に乗った身の丈8m(本体 5.2m 台座2.8m)のスマートな青銅の観音様は、穏やかな日本海をみつめ、冬には強風の下で荒波をじっと見すえている。 海難救助、遭難者の冥福、家内安全、交通安全、商売繁盛、魚霊供養の祈願等、又水子供養の観音様として親しまれ、広く地域住民の信仰をあつめている。 毎年、越後七浦観音例大祭が:6月中旬に行われている。
🌌越後七浦シーサイドライン柏崎市と新潟市を海岸沿いに結ぶ国道402号のうち、長岡市寺泊町野積浜から新潟市西蒲区角田浜(角田峠)までの延長13.9kmの間を越後七浦シーサイドラインと呼んでいる。奇岩織り成す景勝が楽しめる海岸沿いを走る道路。立岩から角田浜までがシーサイドラインの中でも特に奇岩の連続する最も美しい区間で付近に史跡・名勝が多いのも特徴。 🌌間瀬下山海水浴場
🌌間瀬田ノ浦海水浴場
🌌弁天岩豊漁を祈願する弁財天を祀る岩。枕状溶岩で出来ている。🌌獅子が鼻横から見ると2頭の獅子が海に向かってほえている姿に見えることからこのように呼ばれている。🌌白岩間瀬海岸のシンボルともなっている白岩。凝灰岩でできている岩で、海へ約100mも突き出た文字通り白い岩。白い肌を海の中に横たえて、その白さと緑の松との対照は素晴らしい景観をかもしだしている。この付近の粘土を使って焼き物も作られている。🌌立岩日本海の荒波が削った切り立った岩で天然記念物になっている。🌌花立岩海に浮かぶ奇岩の上に松の木のそびえたつ。岩全体を花生けにみたて、そこに松を差したような感じから名づけられた。🌌弥彦浦遊歩道白岩や花立岩や荒足岩など種類の違った岩が次々に目に入る。入口から300mぐらいの所羽入の磯の手前に、岩場を這うように野生のツバキが群れをなしている。春先は、訪れる人も少なく、密に咲き誇っている。🌌角田浜
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間瀬石間瀬海岸には「間瀬枕状溶岩」を含む、約2000万年前のものとみられる海底噴火による玄武岩質の火砕帯が多く分布している。枕状溶岩は玄武岩質の溶岩が水中に流出したときに特徴的にできる構造で、溶岩が枕のような形で固まり、それが積み重なって地層を構成している。表面は水と接触して急冷するために、ガラス質となり、内部には放射状のわれめが発達する。岩片の隙間に方解石、沸石、魚眼石等の美しい結晶が多くあり採取することができる。 全国でも分布は珍しく、1961年(昭和36)に県の天然記念物に指定された。 枕状溶岩は弁天岩より断続して岸壁に沿い、切通しやトンネル付近、立岩両側の岸壁にもその露頭がある。 (採石)間瀬石の歴史は百年余であった。文化年間(1804-1818)、年友村(寺泊)の銅山出稼ぎ者によって発掘されたと言われている。耐火性・保温に優れ、水中での退化にには強いことから、炊事用かまどに利用された。また外国に対し政府の威信を表すため、『擬洋風建築』が建てられたが、間瀬石がそれに利用され、明治2年(1869)に、新潟運上所が建設された際には、間瀬石が石庫に使われた。 銅山の閉山に伴い仕事を失った職人たちは、その技術を生かすべく、石工へと転職し、間瀬石の採石が盛んになった。 しかし、水中での退化には強いが寒暖差に弱く時の経過によって風化する短所があった。建物等に利用する需要はなくなり、新潟運上所の石庫も昭和38年(1963)に解体されている。 採石場は閉鎖され、下山海水浴場前の下山トンネル脇に、間瀬石の旧石切り場跡が残る。 🌌採石場跡採石場は閉鎖され、下山海水浴場前の下山トンネル脇に、間瀬石の旧石切り場跡が残る。🔙戻る
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