順徳上皇(順徳天皇) The Emperor Juntoku 佐渡市
1197年(建久8)10月22日〔生〕- 1242年(仁治3)10月7日〔没〕 第84代天皇。在位期間 1210年(承元4)12月12日- 1221年(承久3)5月13日 名は守成。後鳥羽天皇の第三皇子。母は修明門院重子。1199年(正治1)親王宣下。 時あたかも後鳥羽上皇の院政下で,上皇は鎌倉幕府の政治権力を抑圧する態勢を固めつつあり,それに消極的な土御門天皇に迫って譲位させ,1210年(承元4),順徳天皇を即位させた。順徳天皇13歳のときである。 天皇はその後,上皇とともに討幕計画を推進し,1221年(承久3)4月仲恭天皇に譲位し,翌月兵を挙げ承久の乱をおこした。上皇24歳の時である。 院宣を知った義時は、諸将と議して、弟の時房、子の泰時らに命じて、東海・東山・北陸の三道から京都に進撃させ、美濃・尾張で朝廷方を破り、承久の変は幕府方の勝利に帰した。 朝廷方の敗北となり、義時は、後鳥羽上皇を隠岐へ、土御門上皇を土佐(のち阿波へ配流)へ、順徳上皇を佐渡へと、三上皇をそれぞれ配流することにした。順徳上皇が、乱に際して積極的な活動をしたと危険視され、父後鳥羽上皇配所より遠隔で、幕府を支えた御家人の支配地が多い越後に近い、佐渡へ配流されることとなった。 7月20日、順徳上皇の佐渡へ配流が決定し、そして翌日には佐渡へ出発という慌ただしい旅立ちであった。 出発時の心細い心境を、 と詠んでいる。 上皇に従って佐渡行きを命ぜられた者は、冷泉中将為家、花山院少将能氏、左兵衛佐範経、上北面左衛門大夫藤原康光で、それに女房の右衛門佐ノ局、別当ノ局、帥ノ典侍らであった。 ところが冷泉中将為家は病気で出発できず、花山院能氏は病を得て途中で帰り、範経は寺泊で倒れ数年後この地で亡くなったともいわれる。病気が回復して佐渡に向ったという記録がないことから、いずれも仮病であった可能性が高い。藤原康光は上皇が亡くなるまで付き従った。 北陸道の御道筋を通って、途中名立(上越市名立)に到着した8月15日に、 という歌を詠んでいる。 こうして船が出る寺泊に着いたが、風待ちのため源義経も身を寄せた寺泊の五十嵐氏の館に滞留した。ようやく寺泊から佐渡に向ったが、寂しい渡島であった。 着船の場所については、佐渡の何処かははっきりしていない。世阿弥の「金島集」によれば、佐渡に着いた上皇は泉(佐渡市金井地内)に御料地を与えられ、仮宮を造営して、行宮としそこに移られた。 21年間の在島期間中は、仏の勤行と歌道をもっぱらにおこなわれた。上皇の流人生活の寂しさ、無聊を慰めたのは、上皇の御許で奉仕した三人の女房であった。1223年(承久5)忠成王、1233年(天福元)に善統親王が生まれ、上皇の死後いずれも京都にもどった。佐渡島内の言い伝えでは、ほかに、島の娘との間に何人か子供が生れたという話が残るが、史実としての記録が存在していなく確かめようがない。 21年間の孤島の生活を送り、この間に、鎌倉幕府の執権は、北条義時からその子泰時の時代になっていた。朝廷から幕府に対し、後鳥羽・順徳上皇の遠流を免じて、帰洛できるよう申し入れたが、泰時は承知しなかった。また、後鳥羽上皇が隠岐の島でなくなったと聞き上皇は深く悲しんだ。 帰還に絶望を感じた上皇は、「存命無益」と仰せられ、ついに絶食を決意され、そのため体の衰弱をきたし、1242年(仁治3)9月12日、在島21年、46歳でなくなった。遺言には、最後まで北条氏に怨みを持っていたことが窺える。 翌日13日に火葬されて、その跡に松と桜を植えて御標とされた。その場所は現在の真野御陵であると伝わる。遺骨は翌年4月28日、藤原康光が奉持して、京都の大原村の法華堂に納めたとされたが、所在が明治まで不明であった。1889年(明治22)6月1日、京都府愛宕郡大原村(現京都市)に大原陵が治定された。 上皇は典籍に通じ,和歌に秀でており,宮中の行事・儀式・政務などを記した故実書『禁秘抄』,古来の歌学・歌論を集成した『八雲御抄』などを残した。 《ゆかりの地》
🌸順徳上皇石碑群 ※GOOGLE 画像順徳上皇上陸の地とされる恋ケ浦。上皇は最初、恋ヶ浦にお住まいになっていたといわれる。ここには、「いざさらば 磯打つ波にこと問はむ 隠岐のかたには何事かある」と、父帝後鳥羽上皇を思う和歌を刻んだ「恋ヶ浦碑」が建っている。しかし、波の音があまりに激しいので、山の上ならよかろうと真野山の堂ヶ原(堂所御所?)へ移られた。するとこんどは松風の音がさわがしく眠れず、「波の音 聞くがつらさに山ごもり 苦は色かえて 松風の音」 と詠まれ、どこへ行っても身の置きどころのないさびしさを嘆かれたという。上皇はその後、泉の黒木御所へ住居を変えている。
🌸黒木御所址 順徳上皇の配所 ※GOOGLE 画像行在所は当初、真野地区国分寺に定められていたが、国守が直接管理していた泉に仮宮を造営して、行宮としそこに移られた。「黒木」という呼称は、丸木や皮附の木材で組まれた当時の建物の外観から名付けられたと考えられており、かつては御所の四隅に上皇が御持仏の観音・弥陀・薬師・天神を祀り、日夜礼拝されていたと伝えられている。 順徳院はこの黒木御所を御遷幸以来崩御までの22年間、行在所とされている。 現在の塚の四囲は、1895(明治28)年に整備に着手し、1910年(明治43)に竹柵を石垣に外廊に木柵を廻らした。 1916年(大正6)7月9日に昭和天皇(当時皇太子)が行啓し、その時の御手植えの松が現存している。 1952年(昭和27)に黒木御所跡の外柵工事並びに正面橋りょう工事なされ、永久整備がほどこされて今日に至っている。 敷地内には、斎藤茂吉や与謝野寛らの句碑、歌碑が立っている。
🌸真野御陵 ※GOOGLE 画像時代の経過によって、火葬塚は荒廃した。佐渡奉行曽根五郎兵衛吉正は、1678年(延宝6)修復おこない陵域8,250㎡を修築した。1889年(明治22)6月1日、京都府愛宕郡大原村(現京都市)大原陵が治定された以降、「順徳上皇の火葬塚」となった。
🌸吉田松陰・宮部鼎蔵詩碑,吉田松陰は1851年(嘉永4)22歳のとき、東北を旅した。白河からは宮部鼎蔵と会津街道を通って越後に向かい、1852年(嘉永5)2月27日に苦労の末佐渡に渡った。2月28日、順徳天皇の真野陵を拝して、悲憤の漢詩を詠んだ。
🌸真野宮 ※GOOGLE 画像
《その他佐渡に流された人物》 🌌佐渡に残る順徳天皇の言い伝えお花塚順徳院に佐渡島内に何人か愛妾がいたことは、言い伝えで知られている。その一人に、熊野神社の傍らの道を北の方に登って、約800mのところにあった館に住む「お花」がいた。その館の所有者は伝わっていない。田舎には珍しく美しい女で、都を離れて、遠い北海の孤島佐渡に日々を過ごす上皇の厳しく暗い心を癒してくれる女性であった。上皇は、このお花に心を寄せて、たびたびその屋敷を訪れたといわれる。現在、屋敷のあった地を、本屋敷と呼んでいるが、これはお花屋敷から転じたものと言われている。熊野神社の付近を「尾花が崎」というが、これは「お花が崎」が転化したものであろうという。 江戸幕府最後の佐渡奉行で、明治政府に召し出されて相川参事を勤め、合わせて10年近く佐渡に在島した鈴木重嶺が明治8年(1875)5月、熊野神社境内に「お花やしきの碑」を建立した。また明治44年(1911)9月、お花屋敷のあった場所にお花塚の碑が建立された。 太平洋戦後、NHK新潟放送局ではこの物語をテーマにして「承久の悲歌」の題でラジオドラマで放送したことがある。
龍王岩 ※GOOGLE 画像承久の乱(1221)に敗れた順徳上皇は、佐渡へ流された。ある日、現在の姫崎灯台付近で舟遊びをしていたとき、腰の刀を海に落としてしまった。手を尽くして海底を探したが見当たらず上皇は大変悲しんで、歌を詠んだという。『束の間も はなさじものと思ひしに 波の底にもさや思うなり』 上皇が諦めかけたところ、水底がにわかにざわめきたち、竜王が岩の傍らから刀を口に咥えて現れたという。上皇は大いに喜び、この岩を「龍王岩」と名付けたという。 阿弥陀堂跡 崩御の地順徳上皇は黒木御所に移るまで、佐渡内で数回所在地を変えている。真野では真輪寺の阿弥陀堂に住まわれていた。真野宮は、明治元年(1868)の神仏分離令により、真輪寺が廃寺となって神社となり、「真野宮」に改称したものである。阿弥陀堂は真野宮の裏手一段高くなった場所にあり現在「順徳天皇行在所址」の碑が立っている。 一説では、阿弥陀堂は現在の真野宮から林道を登ること約4キロの山中に、真輪寺奥ノ院として阿弥陀堂があったといわれている。堂所御所跡といわれ『順徳天皇行宮遺跡』の碑が建っている。 順徳上皇が真野にいた頃、この辺りに咲いていた小菊の花を愛され、 『いかにして契りおきけむ白菊を 都忘れと名づくるも憂し』
という歌を詠まれ、この菊を「都忘れ」と命名された。それからこの小菊を都忘れと呼ぶようになったという。後に、21年間の孤島の生活を送り、帰還に絶望を感じた上皇は、阿弥陀堂に籠って絶食を決意された。そのため体の衰弱をきたし、この地で亡くなられたと伝えられている。 真法院の苔梅 ※GOOGLE 画像両津地区梅津の真法院境内の前庭に生育する梅の木である。このウメは樹高約10m、根元幹囲3.1m、胸高幹囲2.6mの大樹で、花は美しい淡紅色の八重咲である。毎年3月下旬〜4月上旬頃に開花。先代の梅ノ木は幹を覆う苔の間に花を付ける様子が見事であったことから「苔梅」と名付けられたといういわれがある。現在の樹の苔は成長途上のようである。このウメの由緒には、承久3年(1221)に佐渡配流となった順徳上皇の御手植えとの伝承があるが、その後の記録によると、大正7年(1918)4月19日の羽黒大火により当初のウメは大半が類焼しており、その焼け跡の根元から新たな芽が生じ育ったものが現在のウメとされる。 なお、大火後に当地を訪れた歌人の吉井勇は、「いたはしと帝を思はば焼枯れぬともまた咲けよ佐渡の梅の木」と詠んでいる。現在、ウメの樹勢は旺盛である。
二宮神社 ※GOOGLE 画像順徳天皇と,右衛門佐局との間に誕生した第二皇女(忠子)が生まれた時、幕府は守屋勇四郎春虎に養育を命じた。幕府は皇女のため仮殿を築造した。野菖蒲が咲き乱れる様子を見た順徳上皇が菖蒲殿と命名したとされる。順徳上皇が死亡後、皇女(忠子)が18歳で亡くなられた折、守屋勇四郎春虎が遺髪を霊として祀ったが、後深草帝の時代に二宮大明神として社殿が築かれたといわれる。皇女の遺髪を祀った菖蒲殿と宮内庁管轄の墓所のほか、茅葺き寄棟造りの能舞台が建っている。令和3年(2021)11月22日、放火により本殿が全焼焼失した。幸い能舞台は焼失を免れた。 令和5年(2024)8月、残された能舞台も火災により焼失した。
廣臨(ひろみ)親王順徳天皇の第2皇子廣臨(ひろみ)親王は帝のあとを追って従者12人と佐渡に渡ろうとしたが、警戒が厳重で島に渡ることができなかった。親王は居所を移しながら潜伏し能代(のうだい)の領主能代左衛門尉に身を寄せていた時、事が鎌倉幕府に伝わり殺害を命じられる。親王は,小口村まで逃走し追い詰められて自害した。貞応元年(1222)11月19日、親王16歳であった。親王の遺体は小口村の村民が墳墓を造り弔った。 生き残った従者が都に戻り報告をしたことにより、後堀河天皇(在位 承久3年(1221)7月9日 - 貞永元年(1232)10月4日)の勅許を得て、寛喜元年(1229)に能代氏の居館跡に社地を賜り廣臨親王を祀った若宮神社が建立された。 その後小口村の墳墓の所在は不明となったが、元文年間(1736−1740)、偶然に発見され、小口神明宮の鎮座する観音山の山頂の墳墓の跡に若宮社が祀られた。観音山の名は,広臨親王の守り本尊の観音菩薩を祀るために建てられた観音堂に由来する。 2020年11月3日、若宮の自害から800年を記念して小口自治会が建立した石碑の除幕式が行われた。
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