菩提寺山 Mt.Bodaijiyama 新潟市
| 菩提寺山は、護摩堂丘陵の北端に位置する標高248メートルの低山だ。登山道が美しく整備されており、子供から高齢者まで年齢を問わず気軽にハイキングを楽しめる山として広く親しまれている。 周辺には自然や歴史を感じられる見どころが豊富だ。登山口の拠点となる「石油の里」をはじめ、雄滝と雌滝からなる「白玉の滝」、かつて親孝行の権九郎が観音のお告げで発見したと伝わる湧き水「へそ清水」などがあり、森林浴を楽しみながら巡るのに最適な環境が整っている。 広々とした山頂は、かつて法華寺という寺院があった歴史をしのばせる空間だ。五泉市の橋田地区門前集落から山頂を経て小須戸方面へと抜ける山道は「仏路越え(ぶつろごえ)」と呼ばれ、古くからの往来を感じさせる。山頂からの眺望はとりわけ素晴らしく、越後平野の先に佐渡島までをも見渡す大パノラマが広がる。 五泉市側において、菩提寺山は近隣の護摩堂山や高立山とともに「西山三山(にしやまさんざん)」と呼びならわされてきた。手軽なハイキングでありながら、豊かな自然、歴史情緒、そして絶景を一度に堪能できるのが、この山の大きな魅力である。(案内図)
高立山(標高276m) ※GOOGLE 画像高立山は、新潟市秋葉区と五泉市の境界に位置する標高276メートルの山だ。菩提寺山、護摩堂山とともに「西山三山」の一角を成し、護摩堂丘陵のほぼ中央にそびえる。山頂付近まで林道や遊歩道が良好に整備されており、初心者や家族連れでも気軽にハイキングを楽しめる里山として広く親しまれている。登山ルートは複数あり、五泉市側の門前地区から登るコースや、大沢森林公園、石油の里から菩提寺山を経由して縦走するルートなどが一般的だ。道中はブナやミズナラなどの豊かな雑木林に覆われ、春にはカタクリ、初夏には新緑、秋には鮮やかな紅葉と、四季折々の自然美が登山者の目を楽しませてくれる。 最大の魅力は、遮るもののない山頂からの大パノラマだ。広々とした山頂には展望台やベンチ、さらに立派な避難小屋「高立山休憩所(高立山山小屋)」が整備されており、快適に休憩できる環境が整っている。ここからは眼下に広大な越後平野と蛇行する阿賀野川、西側には弥彦山・角田山、東側には菅名山塊や五頭連峰の雄大な山並みを一望できる。さらに気象条件が良ければ、日本海の先に佐渡島までをもくっきりと見渡すことができる。 手軽に登れる低山でありながら、周囲の山々をつなぐ縦走路の拠点としても機能し、優れた眺望と豊かな自然を一度に堪能できるのが高立山の大きな特徴だ。 へそ清水「へそ清水(臍清水)」は、菩提寺山の山頂から白玉の滝へと下る登山道の途中に位置する貴重な水場だ。崖の中腹にある岩肌から、清らかな水が絶え間なく湧き出ている。この湧水には、病の母親を救いたいと一心に願う親孝行の息子「権九郎」の伝説が残る。彼の熱意に心を打たれた観音様が夢枕に立ち、「山の中腹にある湧水を飲ませよ」とお告げを与えたことで発見されたと伝わる。 湧水はそのまま下流の白玉の滝へと流れ落ちており、登山者に涼を届ける憩いの場として親しまれている。ただし、生水のため衛生面からそのままの飲用には適しておらず、天候による水量の変動もあるため、ハイキング時の水分補給は持参した飲料水を基本としたい。 上杉移民一揆慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いの裏で、越後(新潟県)では新領主の堀秀治に対する大規模な反乱「上杉遺民一揆(越後一揆)」が勃発した。引き金を引いたのは、会津の上杉景勝を討つべく「会津征伐」を宣言した徳川家康の包囲作戦だ。家康は自ら東側から進軍し、越後領主の堀氏には西側(阿賀野川口)から会津へ侵攻するよう命じた。この挟撃作戦を察知した上杉氏の知将・直江兼続は、堀軍の背後を突いて足止めする奇策を講じる。堀氏の厳しい検地や年貢取り立てに不満を抱く上杉の旧臣や地元豪族、一向宗徒らに密書や資金を送り、越後国内での一斉蜂起を促した。これに応じる形で8月、各地で一揆が爆発的に拡大した。 五泉地区においては、旧上杉配下の有力豪族であった橋田氏や丸田氏らの一族が一揆勢の中核として決起した。彼らが新領主打倒の旗印を掲げ、最大の拠点(本陣)として籠城したのが、西山三山の一角護摩堂山の山頂に築かれた「護摩堂山城」である。広大な越後平野と会津方面への要衝を一望できるこの城は、断崖に囲まれた天然の要害であった。 しかし9月15日、関ヶ原の戦いで東軍が勝利すると一揆勢は致命的な窮地に陥る。東軍側であった堀秀治は、新発田の溝口氏や村上氏らの連合軍とともに一揆の根絶に向けて猛烈な反撃を開始した。 連合軍は護摩堂山城を何重にも完全包囲し、一気呵成の総攻撃を仕掛けた。城内の一揆勢は急峻な地形や曲輪、空堀を活かし、登ってくる敵に岩や丸太を投げ落として激しく抵抗した。山肌が血に染まる激戦が続いたが、物量に勝る連合軍の前に防衛線が崩壊し、護摩堂山城はついに落城した。 命からがら脱出した橋田・丸田一族の残党は、尾根づたいに隣接する菩提寺山へと敗走し、山頂の修験道場「法華寺」を最後の砦として立てこもった。しかし、追撃してきた連合軍に再び包囲され、一族はことごとく討ち取られた。その際、名刹・法華寺も容赦なく焼き払われ、五泉の一揆勢は壊滅した。現在、両山に残る曲輪や空堀の遺構は、この凄惨な攻防戦の記憶を今に伝えている。 菩提寺山史跡(標高二四八米) 一、弘法大師 空海大同四年809四月頃会津恵日寺より此の地に順錫、一寺を建立、菩提寺と名付け、密教布教のため、弟子空法上人を残置、後子院三十八坊に及べりと以来此地を菩提寺山と称す。 二、花立と仏路 余五将軍(平維茂)960~1040晩年東蒲三川村岩津に在住の折「側室菊の方」将軍を慕って京より下向の途中、小須戸町天ヶ沢(尼ヶ沢)で将軍既に死亡と聞き、主従共ども黒髪を切り尼となられた。菩提寺山頂で香華を手向け冥福を祈り遥拝され、この行を終生続けられた。世人香華を手向けた所を花立と呼んだ。又天ヶ沢から菩提寺山迄の道を仏路と呼んだ。花立、仏路、天ヶ沢の地名となり将軍と菊の方の哀話となり伝承された。 三、法華寺 身延山久遠寺に菩提寺山の法華寺が修験道場としての記録が残っている事からしてここは身延門流である。日蓮再生と言われた第十一世日朝法主1422~1500の時代越後、北陸に身延門流が親展した。その頃真言密教寺院から法華宗に改宗されたものと推測される。 四、上杉遺民の乱と法華寺の消失 慶長の五年1600八月、堀直清の三条城が上杉遺民三万余の攻撃を受け落城に瀕す。これが救援のため、溝口秀勝、村上義明、三条城へ赴く。これを阻止するため上杉遺民菩提寺山に布陣「両軍の兵と抗戦すること三昼夜にして遂に敗衄し寺院も又焼亡し、賊将安田平八郎戦死せり」と溝口家史書に印す。 空海法灯を点じて以来八百年戦禍により消滅、菩提寺山千三百年の歴史ここに眠る。 平成五年八月 菩提寺山愛好会 ![]() |
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菩提寺山
登山口
駐車場
へそ清水
白玉の滝
高立山
門前登山口
