菩提寺山 Mt.Bodaijiyama 新潟市



護摩堂丘陵の北端に位置する菩提寺山(248m)。登山道が整備された。
気軽にハイキングの楽しめる山として、子供からお年寄りまで年齢を問わず親しまれている。
「石油の里」や雄滝・雌滝からなる「白玉の滝」、昔、親孝行の権九郎が観音様のお告げで発見した湧き水「へそ清水」など、周辺には見どころが多く、森林浴とあわせて訪ねるにはうってつけである。
菩提寺山の山頂は広くなっているが、かつて法華寺があったことがしのばれる。橋田地区門前集落から、菩提寺山山頂を経て小須戸方面に抜ける山道は「仏路越え」といわれており、山頂から見る佐渡まで望める眺望が素晴らしい。五泉市側では護摩堂山、高立山、菩提寺山を西山三山と呼びならわしている。(案内図)

🔶門前登山口
「菩提寺山入口」の大きな石柱があり、約20台ほど止められる駐車場がある。幅広い切通の坂を登る。20分で、寺本地内から取り付けられた作業林道に出る。作業林道を5分ほど歩くと、「山頂まで15分」の標柱があり、雑木林の平坦な山頂となる。整備のよい山頂広場には、ミニ・アスレチックももうけられている。眺望は、東側に五泉の市街と菅名山塊を望める。



高立山(標高276m)

菩提寺山山頂から下り、林道をさらに30分歩くと、「高立山不動尊跡地」の木製看板と「高立山登口」の石柱がある。しばらくは杉木立の道を登ると、20分で山頂に着く。手入れのいい山頂から、菅名岳や白山が望まれる。




へそ清水

水は崖の中腹から流れ出ている。伝説によれば、腹が痛いと苦しがっていた母親の為に息子が観音様にお願いすると、「菩提寺山の中腹に岩にしたたりおちる湧水を飲ませよ」というお告げに従って飲ませたら母親は元気になったという。以来、へそ清水と名づけられたという。この水は白玉の滝流れ落ちている。


上杉移民一揆

慶長5年、徳川家康は会津の上杉景勝を討つべく、越後領主堀秀治に命じて阿賀野川口から会津へ進行させ、自らは東上して白石口から進んで包囲する作戦を計画したといわれる。
これを察知していた上杉の知将直江山城守兼続は、堀家の支配に不満を持つ越後地在の豪族を誘って一揆をおこさせた。8月会津上杉氏は越後に侵入し、上杉遺民一揆を扇動したが、越後堀氏の一族や与力大名の溝口・村上氏が反撃した。
これが「越後一揆」または「上杉移民一揆」と呼ばれるものである。五泉地区では橋田、丸田氏などの豪族が一揆に加わり決起したといわれている。
関ヶ原での家康方東軍の勝ちによって、堀・溝口・村上の一揆鎮圧は激烈なものとなった。橋田・丸田一族も護摩堂山城から追われ、菩提寺山の修験場「法華寺」にたてこもって戦ったが、この地で討たれ法華寺も焼き払われたという。


菩提寺山史跡(標高二四八米)
一、弘法大師
空海大同四年809四月頃会津恵日寺より此の地に順錫、一寺を建立、菩提寺と名付け、密教布教のため、弟子空法上人を残置、後子院三十八坊に及べりと以来此地を菩提寺山と称す。
二、花立と仏路
余五将軍(平維茂)960~1040晩年東蒲三川村岩津に在住の折「側室菊の方」将軍を慕って京より下向の途中、小須戸町天ヶ沢(尼ヶ沢)で将軍既に死亡と聞き、主従共ども黒髪を切り尼となられた。菩提寺山頂で香華を手向け冥福を祈り遥拝され、この行を終生続けられた。世人香華を手向けた所を花立と呼んだ。又天ヶ沢から菩提寺山迄の道を仏路と呼んだ。花立、仏路、天ヶ沢の地名となり将軍と菊の方の哀話となり伝承された。
三、法華寺
身延山久遠寺に菩提寺山の法華寺が修験道場としての記録が残っている事からしてここは身延門流である。日蓮再生と言われた第十一世日朝法主1422~1500の時代越後、北陸に身延門流が親展した。その頃真言密教寺院から法華宗に改宗されたものと推測される。
四、上杉遺民の乱と法華寺の消失
慶長の五年1600八月、堀直清の三条城が上杉遺民三万余の攻撃を受け落城に瀕す。これが救援のため、溝口秀勝、村上義明、三条城へ赴く。これを阻止するため上杉遺民菩提寺山に布陣「両軍の兵と抗戦すること三昼夜にして遂に敗衄し寺院も又焼亡し、賊将安田平八郎戦死せり」と溝口家史書に印す。
空海法灯を点じて以来八百年戦禍により消滅、菩提寺山千三百年の歴史ここに眠る。
平成五年八月 菩提寺山愛好会















































菩提寺山 登山口 駐車場 へそ清水 白玉の滝 高立山 門前登山口