石油の世界館 World hall of the oil 新潟市




@じゃらん
かつて日本一の産油量を誇った新津油田、そんな石油採掘の歴史、技術をわかりやすく説明します。
石油掘削全盛期に使用した道具「クリマシアター」、従事していた人達の作業衣や日用品、縮小されたヤグラ等を展示を展示しています。
また建物中央では、新津の石油採掘に大きく貢献した、上総掘り(かずさぼり)油井の3分の2の模型をご覧いただけます。

☯2019年7月4日、新潟市は「石油の世界館」の魅力向上への支援を申し出たアラムコ・アジア・ジャパン株式会社(東京都)と、連携協定締結式を行なった。同社は、世界最大の石油王国サウジアラビアの国営石油会社サウジアラムコの日本法人。






新津油田

(第1期)

旧新津市はかつて、石油のまちとして栄えた。
活気を呈し始めたのは、明治20年代後半から、30年にかけてで、手掘りに代わって上総掘が金津地区で取り入れられると、産油量は大幅に増加した。一夜にして十余の会社が生まれた。(☛ 中野貫一)
明治30年(1897)には、米国より輸入された軽便さく井機が初めて取り付けられて威力を発揮した。明治32年(1899)、熊沢、柄目木で噴油、各地から一獲千金を夢見るものが競って訪れるようになった。後に、日宝町の地名となった日本石油会社・宝田石油会社が明治21年(1888)、明治26年(1893)に設立されている。
産油額をみると、明治28年(1895)は3,200円だったのが、明治34年(1901)には、約104,000円と34倍になっている。当時米1俵(60㎏)が4円の時代である。現代の米価格に引き直せば明治34年の産出額は3億5千万円となる。また油井も大きく増加している。
明治27年(1894)の日清戦争と明治35年(1902)の日露戦争は、石油の需要を伸ばし、明治35年の石油の価格は1石(1,800ℓ)1円20銭(現代の価格でおよそ1万円)まで高騰した。
明治43年、柄目木地区の大噴油で、景気は第一のピークに達した。自噴である。一坑50円、150円だったのが1000円(現代の米価に直せば350万円)にも高騰した。一夜にして巨万の富を得るものが続出し、花柳界も大繁盛、新町にあった遊郭は17軒を数え、油だらけの坑夫が歓待された。しかし、この柄目木油田も乱掘の為、明治45年(1912)にはその60%にまで低下し倒産者が相次いだ。

(第2期)

大正に入ると第二のピークができた。小口油田の発見、日本石油のロータリー式削井機使用によって地上54mも吹き上げた。大正6年(1917)には、明治43年(1910)をしのぎ年産12万㎘以上。産油量日本一となり、新津油田の名を全国にとどろかした。
当時は、綱掘りの最盛期で掘削機を動かすスチームエンジンの音が山々にこだました。子供たちはギーコンギーコンと動くポンピングの音を子守唄として育った。石油を運ぶ人夫は列をなし、山は活気に満ち満ちていた。
その後は減少し、平成8年(1996)で採掘が終了した。

(製油所)

現在、住宅地になっている能代川べりの日宝町一帯は、日石、宝田両社の精油タンクが林立した。また、山崎地内には、13もの製油所が並び立ち、林立する煙突から排出される煙は空を覆った。「せんたくができず、部屋が汚れる」という住民の苦情が町役場にもたらされ、町も対応に追われた。
大正10年(1921)には、日石、宝田が合併し、日石となり、以後、弱小会社の統廃合が続いた。

(風物誌)

石油採掘がさかんであったころの風物に、「油舟」「働き女」がある。小口の山で採油された原油は、樽につめ女人夫の背で能代川(現新津川)の船着場へ運ばれ、そこから小さな油舟で川を下り日宝町の製油所へ運ばれた。能代川は行き交う油舟で大賑わいだった。
どこを掘っても油が出たため、飲料水に不自由した町民は、「幸清水」の水が唯一のものとして使用された。朝夕の一定時刻にはこれを汲み、家庭に供給する「水汲み女」が昭和7年(1932)の上水道完成時まで見られたのである。(☛ 幸清水)


🌌新津油田関連史跡

開基坪

源義光(新羅三郎)の曽孫、会津小二郎資義が1200年頃現在の堀出神社の丘陵に築城の際、この付近に濠を掘っているとき、二つの黄金の御神像が掘り出され、その跡から黒い水(石油)がこんこんと湧き出たと伝えられる。この跡が開基坪である。

煮坪

新津油田発祥の地と伝わる油井。慶長13年(1608)ころ、越前国から移住して来た真柄仁兵衛貞賢は、新田開発できそうな土地を探して新津丘陵の周辺を回り歩いていて、この煮坪をはじめ、各地で草水のしみ出す場所を発見したという。勢いが盛んな時代、この油井からは石油・天然ガスと水が混じり合った黒い液体が激しく噴き上がり、沸々と物を煮ているような音が周囲に鳴り響いていた。そのため、この油井は「煮坪」と呼ばれるようになという。

熊沢トンネル

熊沢から草水へと抜けるトンネル。熊沢での産油量増大に伴い、明治33年(1900)に開通した。熊沢でくみ出された原油は油樽に詰められ、この油樽を背負った女性たちが熊沢トンネルを通って能代川(現在の新津川)の船着場に向かった。能代川に運ばれた原油は、油舟に積み替えられて能代川沿いの日宝町などにあった製油所へと運ばれた。























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