幸清水 ( さきしみず ) Saki shimizu 新潟市



新潟市秋葉区の名勝秋葉山の登り口右側に、こじんまりとした公園があり、「幸清水」はこの公園の中ほど、杉木立の下に湧き出している。
新津は石油地帯のため、昔から飲み水に恵まれていなかった。これを見兼ねた庄屋長井久左衛門が1807年(文化4)、水脈を探しているうち、秋葉山の麓で尽きない水が湧く清泉を発見し、自費で設備を整えて町民に自由に利用させた。
さらに、久左衛門は京都の公卿で、歌人で能書家として有名な花山院愛徳に清水の名と由来文を請い、清水は「幸清水」と命名された。
清水はその後も尽きることなく湧き続け、1932年(昭和7)、上水道が完成するまでおよそ130年間、町民の命の泉となった。
当時、この清水前には朝夕一定時刻になると水汲みの人びとの長い列ができ、なかには運搬を請け負う人もいて水桶を天びん棒でかついで行き交う水汲み女衆の姿は新津独特の風物になっていた。
水道が敷かれた当初、しばらくは汲まれていたが、山地の開発によって水源が絶たれたためか、清水は次第に少なくなり、今はわずかにわき出る水に往時をしのぶことができる。
一帯は幸清水公園として整備され、同じく公卿、芝山持豊が詠んだ和歌一首を刻んだ石碑が建てられている。
昭和50年(1975)12月2日、新津市(現新潟市)の文化財に指定されている。※ストリートビュー

≪現地案内看板≫

史跡 幸清水
所在地 新潟市秋葉区秋葉1丁目4270番地の1
所有者 新潟市
文化財指定年月日 昭和50年12月2日 新津市文化財に指定

伝来 むかし、新津は水の質が悪く、そのため町民は飲料水の不足に悩み続けていた。かねてから、その悩みを救うために、水脈を探していた庄屋長井久左衛門は文化4年(1807)6月、ついにこの地に泉を発見、自費を以て附近を整備し、これを町民に自由に汲ませていた。
「其水沸騰而溢其味清冽而甘」と、江戸の儒者亀田鵬斎も述べているように、汲めども尽きないこの清水は、以来、昭和7年に上水道が完成するまでの約130年間、人びとの生活を潤す幸の泉となった。

昭和50年12月2日 新潟市教育委員会





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