春日山城 Kasugayama Castle Ruins 上越市
春日山城は、上越市中屋敷、高田平野を見下ろす海抜180m余りの春日山(蜂ヶ峰)に残る山城跡。春日山はじめ峰が多いので八が峰(鉢が峰)といわれ、謙信の頃には春日山城といわず、「はちがみね」「春日山要害」と言われた。 平安時代の永保3年(1083)、源義家の構築といわれるが確証はない。南北朝時代越後守護上杉氏の府中館に属し、有事の要害として利用された。 春日山の名は越後守護上杉房定が山頂に上杉氏の祖神の春日山神社を祀ったことによる。春日山神社は、のちに鬼門鎮護のため、春日山城下大手前に移され、今も残っている(春日神社)。 16世紀初頭、守護代長尾為景(謙信の父)の代に下克上によって越後支配の実権を握ると、本格的城郭として修築がなされた。 (長尾為景時代) 謙信の父長尾為景が実権を握ると、修繕して城に変えた。為景の晩年には諸将の反乱が相次ぎ、城の近郊である三分一原で合戦が行われ、天文5年(1536)に為景が死んだ時には、敵が城の間近にまで迫るという危機にさらされる。 (上杉謙信時代) 為景の死後は、嫡子・長尾晴景が跡を継ぐが、病弱で器量に乏しく、天文17年(1548)、長尾景虎(謙信)19歳のとき重臣・直江景綱らのクーデターによって家督を相続した。天文18年(1549)1月春日山城に入城。春日山城に入った謙信は、本丸や二ノ丸、米蔵、家臣たちの邸宅などを次々と整備する。 永禄7年(1564)には、武田信玄と対陣の最中であったが、留守を守る家臣に大門と大手門の築造を命令、天正元年(1573)には、本丸、二ノ丸、三ノ丸などに塀を築造することを命じている。 こうして、本丸の周囲4~5kmの範囲に置かれた砦群と、高田平野の周辺部に築城された支城を持つ、広大な春日山城がほぼ完成したといわれる。謙信はこの城を本拠に30年間、戦を繰り返したのである。 戦国大名の居城としては典型的なつくりで、頂上から本丸、二ノ丸、三ノ丸を置き、空濠や塹壕を築いて強固なものであった。全山要塞化されていた。 東北に向かう険しい尾根を削った本丸からの眺めは雄大で、佐渡ヶ島、米山などが見られ、全面の平野部は山下と呼ばれた当時の城下町跡である。本丸西直下に直径10m、深さ10m余りの大井戸、北に護摩堂跡・毘沙門堂跡・不織庵跡がある。二ノ丸に嗣子勝景の邸。三ノ丸には三郎景虎の邸。これを中核としてまわりの尾根から山腹にかけて壕・土塁・崖で画されたおびただしい曲輪が認められる。 愛宕谷に面する東北側の山腹から平地にかけて根小屋の屋敷地が密集し、階段状に重臣の邸があった。中央の「御屋敷」と呼ぶ110m50mの広場は、城主の居館跡である。御老母屋敷跡は、謙信の母の住居跡と言われ、現在童話作家小川未明の父澄晴建立の春日山神社がある。 また、春日山の麓には運営的都市が営まれた。謙信は、城下町などの整備につとめ、小京都にも比せられるほど発展し、人口5~6万人に達したという。 (上杉景勝時代) 天正6年(1578)、関東出陣を前にして謙信は急死。その跡目をめぐって、景勝と景虎の二人の養子の間で争いが起こり(御館の乱)、景勝が先に春日城を占拠し勝利した。この戦いで春日山城は門や橋など各所を破損。のちに破損した箇所の修築を行い、慶長2年(1597)完了している。 家督を継いだ景勝はこの城に拠って、天下統一を目指し北陸支配を強める織田信長・豊臣秀吉両雄と対峙した。 (堀秀治時代) 上杉景勝は豊臣政権下で五大老を務め、慶長3年(1598)に会津へ転封。その後、堀秀治が30万石を領して春日山城主となり、要害、根小屋、総構え全体的にわたりさらに補強が加えられた。愛宕谷の広い開口部北側の東城砦を基点に南へ1キロ余りにわたる土塁と壕の形跡は堀氏時代の総構えの名残である。 堀秀治は春日山城の強化に力を注ぐ一方で、上杉遺民一揆に悩まされたことから、交通の要衝に位置する近世城郭福島城(上越市港町)の築城にも着手した。 慶長12年(1607)に、福島城が完成し、秀治の子忠俊が、家臣や寺社とともに移ったため春日山城は廃城となった。こうして、約250年間上杉氏の越後統治の拠点だった春日山城は、その役目を終えたのである。(☛ 堀秀治・福島城・上杉遺民一揆) 昭和10年(1835)8月27日、春日山城は国の指定史跡となった。平成18年(2006)4月6日、 日本100名城(32番)に選定された。 また、近くにある林泉寺の惣門は、春日山城の搦手門を移築したものであると言われているが、確証はない。(案内図) ✣2014年(平成26)11月6日、杉謙信の居城、春日山城のジオラマが完成し、市埋蔵文化財センター(同市春日山町1)でお披露目された。 一本イチョウ春日山城跡二の丸にある一本イチョウがあり、11月下旬から色づき始め、訪れる人の目を楽しませている。≪現地案内看板≫
春日山城 上杉謙信公の居城として知られる春日山城は、今から約六〇〇年程前の南北朝時代に築かれたといわれており、越後府中(直江津)を守る拠点であった。 その後、謙信公の父為景・謙信・景勝の三代にわたり普請に努め、現在見られる大城郭になったと考えられている。 春日山城の特徴は、標高一八〇メートルの本丸跡から山裾まで連続する屋敷群と、裾野に巡らされた総延長一二〇〇メートルの総構え(通称監物堀)である。 関東管領として、関東・北陸に覇を唱えた戦国大名の居城にふさわしい大城郭といえる。 謙信公銅像 上越市内を見下ろす謙信公の銅像は、昭和四十四年に滝川美一によって制作された。 標高三〇五センチメートル、重量八〇〇キログラム。 🌌春日山城跡散策春日神社下の駐車場に車を止め、春日神社に続く石段を登り、春日山神社を右に出て、上杉謙信公像の前を通り三ノ丸に向かう。森に入るとヤブサメの声が聞こえてくる。さらに本丸を目指して山を登っていくとメジロやヤマガラ、ウグイスのさえずりや姿を見ることが出来る。急な坂を登り切ると、本丸跡だ。山頂では、上昇気流をつかまえて滑空するトビ、サシバなどの猛禽類を見ることが出来る。 山頂の護摩堂から階段を下ると約10分で春日神社の裏に出る。昔からの植生の残る森ではオオルリの姿と歌声を聞くことが出来る。森の奥から時折、アオゲラやコゲラのドラミングが響いてくる。 春日山神社 ※ストリートビュー旧高田藩士の小川澄晴が、上杉謙信を祀った神社の無いことを嘆き、神社の造立を計画。同志と図って浄財を集め、山形県米沢市の上杉神社より分霊された上杉謙信公を祀り、同34年(1901)、神明造の今の社殿が建てられた。境内には、澄晴の子で童話作家の小川未明(1882~1961)の、『雲の如く高く くものごとくかがやき 雲のごとくとらわれず』を刻んだ詩碑がたつ。 神社へは車で行くルートと135段の石段を登るルートがある。石段は急勾配のため、足腰が弱い人は注意が必要だ。荘厳な空気が漂う社殿は、平日の雨の日でも次々に参拝客が訪れて信仰の高さが伺えた。 拝殿の脇からは天守台や毘沙門天へ向かう散策路があり、天守台からは眺望抜群。また神社の北下方に『御屋敷跡』と呼ばれる平坦地があり、そこが謙信が普段の生活を送った屋敷跡とみられている。
紅葉 社殿の周辺には、真っ赤なカエデや黄色のヤマモミジが彩る。 〔見頃〕 11月中旬~下旬 🌌春日山神社記念館 ※ストリートビュー謙信の遺品の白地毘の字の旗と懸り乱龍の旗、旧米沢藩主上杉家から寄せられた紺地日の丸の御旗などが展示されている。社務所売店では御朱印のほか、謙信公のグッズもそろい、ブショウマニア垂涎ものだ。
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春日山城 本丸跡 春日山城跡ものがたり館 春日山神社 上杉景勝屋敷跡 毘沙門堂 直江屋敷跡 春日山城 大手道 入り口 上杉謙信公銅像 林泉寺 春日神社