村山半牧自決の地 Kyogoku Tamekane exiled to Sado 見附市



勤王家であり画家であった半牧 ( はんぼく )は、文政11年(1828)2月4日に生まれた。父は小須戸の村山左内(尚古堂)、母は奈加といった。半牧は6人兄弟の二男だった。
通称秀一郎といい半牧は号で、名乗ったのは晩年になってからである。
16.7歳の頃から、画を長谷川嵐渓に師事した。
弘化2年(1845)、18歳の頃、嵐渓の下でもめ事が起き、京都へ去った。後、半牧は山陰・山陽を歴遊し、九州の長崎に留まり、この間に画技が大いに進んだ。やがて京へ戻り、藤本鉄石、山中静逸ら勤王の志士と親交を結んだ。半牧も勤王思想に傾倒してゆく。鉄石は天誅組に加わり、文久2年(1863)挙兵するが失敗し、天誅組は悉く戦死または捕らえられ斬罪に処せられた。
半牧も幕府から追われる身となり、三条に戻り四の町の弟の善治遯軒(鳳池斎)方に落ち着いた。半牧が絵筆を断って、勤王運動に邁進したのはこの時からであるといわれる。
加茂の小柳春堤・雛田松渓はその同志であった。慶応4年(1868)3月、戊辰戦役起こるや、半牧は同志とはかって、越後平定の建白書を作成、春堤らと高田の新政府軍総督府へ献じているし。北越戦争が始まると、あえて同盟軍内に住居し、身を挺して新政府軍に情報を送り続けた。
半牧は片口村(現三条市)の松尾与十郎家にあったが、同盟軍の探索きびしく、与十郎の案内で、当時、新政府軍の占領地域にとなっていた見附内町の庄屋近藤家へ移った。しかし、今町の戦いでの同盟軍の攻勢によって、見附が再度同盟軍の手に落ちると、新政府軍に与した者の探索が厳しく行われ、発見され次第斬罪に処せられた。(☛ 今町の戦い)
半牧は実弟善次郎がもたらした友人雛田松渓、小柳春提らが処刑されたという誤報を信じ、慶応4年(1868)6月14日早朝、この地にて自決して果てた。行年41歳であった。
遺骨は明治24年(1891)三条へ改葬されたが、墓石は近藤家裏山に残されており、歌二首が刻まれている。
『月も日もみな常暗となれる世に我ひとつ木の魂は物かは』
『すめらきの道とふ道はあれはててわくかたもなき世こそかなしき』
朝廷は忠勇を賞して明治2年(1869)子に三人扶持を給し、同11年(1878)明治天皇北陸御巡幸の際に祭祀料を賜い、同31年(1898)正五位を贈られた。


宏1052) 村山半牧 日本画 「風景図」 軸 箱付 真作 /(新潟三条南画幕末維新志士長谷川嵐渓)





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