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福島潟 Fukushimagata 新潟市



🔗福島潟開拓の歴史 🔗福島潟の名前の由来

福島潟は越後平野の中央部を流れる阿賀野川の東側、新潟県新潟市北区にある淡水湖。面積は271haあり、潟と名のつく湖の中では新潟県内で最大。かつては600haの面積を有する潟湖であったが、あいつぐ干拓事業によって水面と低湿地が縮小された。潟の中州は野鳥の営巣地、渡り鳥の飛来地として知られている。
福島潟は、国の天然記念物でロシア・カムチャツカ半島から約3,000羽以上渡ってくるオオヒシクイ(雁の仲間)の日本一の越冬地となっている。毎年2月中旬ごろまで観察できる。他に220種以上,の野鳥が確認されている。
「ビュー福島潟」の6階や屋上からは360度潟の様子が一望できる。また映像展示室のモニターからリアルタイムの動植物の様子が映し出される。鳥の情報も含め格好の観察ポイントといえる。風景をカメラにおさめるには、四季を通じて朝日・飯豊連峰からの日の出から早朝が一番よい時間帯とされている。

春には3km程の桜並木が開花する。また4月上旬~5月上旬になると、水の公園福島潟内(約3ha)一面に菜の花畑が広がる。また自然学習園周辺には、市の準絶滅危惧種に指定されているサワオグルマの花が見ごろを迎える。

初夏には、繁殖期を迎えるオオヨシキリコヨシキリカッコウのほかオオジュリンのさえずりも聞くことができる。分布の北限として有名なオニバスの花が咲き競う。

晩秋の11月の晴天の朝、川霧がたち朝焼けの風景に運が良ければ、白鳥やヒシクイの乱舞が見られる。
冬のガン・カモ、ハクチョウ類のシーズンには、カモ類を狙うオジロワシノスリチュウヒオオワシハヤブサチョウゲンボウを見ることができる。

マコモやヨシなどの抽水植物群落、浮葉植物や沈水植物などが450種類以上確認されて、日本の絶滅危惧II類(1997年レッドリスト)のオニバスアサザガガブタミズアオイなど全国的にも希少となっている植物の北限の地としても確認されている。

福島潟は環境省の「日本の重要湿地500」、「21世紀に残したい日本の自然百選」、「にいがたの景勝百選」などに選ばれており、さらに「福島潟の草いきれ」として環境省の「かおり風景100選」にも選ばれている。


オニバス(スイレン科)は、日本の水生植物の中で一番大きな約2mの葉をつける一年草。大きな葉に小さな紫紅色の可憐な花。 開花期間は7月末~9月中頃まで見られる。


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オニバス(鬼蓮)は、浮水性の水草であり、夏ごろに巨大な葉を水面に広げる。本州、四国、九州の湖沼や河川に生息。植物全体に大きなトゲが生えており、「鬼」の名が付けられている。特に葉の表裏に生えるトゲは硬く鋭い。葉の表面には不規則なシワが入っており、ハスやスイレン等と見分けることができる。また、ハスと違って葉が水面より高く出ることはなく、地下茎もない。

サワオグルマはキク科の多年草で、高さ80cmほどになり、いくつもの花を花束のようにまとまって咲かせるのが特徴。水の多い土地を好み、毎年4月から5月にかけて咲く。




オオヒシクイ

オオヒシクイは、ロシアのカムチャッカ半島などを繁殖地とし、毎年9月下旬になると豊栄市(現新潟市北区)の福島潟にわたって来る。現在、福島潟は日本最大の飛来地となっており、全国に飛来した10,000羽のうち、7,000羽が越冬する。
大型のガンの一種で、ヒシクイの亜種で、全長約90cm、翼を広げると1.8m以上になるガンの仲間では最大で、オスは体重が6kg近くになるという。褐色の体毛に覆われ、黒いくちばしの先にオレンジ色の模様があるのが特徴だ。
豊栄市(現新潟市北区)による調査団がつくられ、平成11年(1999)6月には、長い間謎だった繁殖地が突き止められている。
湖沼や水田などの湿地を好み、マコモの地下茎、水草のほか、イネの落穂なども食べ、越冬期間中に、一夫一妻で生涯にわたるペア関係を築く。
オオヒシクイは数の激減を理由に、昭和46年(1971)6月、狩猟鳥から転じて、国の天然記念物に指定された。

福島潟開拓の歴史

葛塚郷は、凹地状の地形の為、一大湛水の湿原で、内側には「よし」や「まこも」が繁茂し、人は住んでいなかった。その広さは水面だけで800町歩(約800ha)強、さらにその周囲の湿原は3000町歩(約3000ha)に及んだといわれいる。
享保15年(1730)、新発田藩が松ヶ崎で砂丘を切り開き、信濃川へ合流していた阿賀野川を直接日本海へ流したため、湿地帯の湛水が吐き出され、潟周辺が干上がった。

(山本丈右衛門)
この干上がり地に初めて開発の計画をたてたのは、頚城郡鉢崎村(現柏崎市)の山本丈右衛門であった。丈右衛門は30石(3町歩)程の百姓である同時に、穀物等を商う商人であった。彼は干上がり地の開拓を思い立ち高田藩・水原代官を通じて幕府に開拓を再三願い出て、宝暦5年(1755)に許可を得、4700両の資金を借り受け、新鼻・太田地区の約300町歩の開拓に着手した
丈右衛門は、まず阿賀野川へそそぐ加治川の支流の瀬替えを行い、次いで新井郷川のはけ口を改修して、潟に流れ込む水量を少なくしたり阿賀野川からの逆流を防ぐ工事を行った。
しかし、資金不足や難工事のため、開拓予定の303町歩のうち、新鼻や太田地区など89町歩(89ha)を開発したところで、明和7年(1770)に病死した。
子の権右衛門等幾人もの人が事業を引き継いだが、資金の手当てが出来ず先が見通せなくなったことから、幕府は水原代官所領内の富豪、市島徳次郎等13人衆に引き継がせた。

(13人衆)
1789年(寛政元)には、水原町市島徳次郎ら13人衆が工事を引き継いだ。開拓場所を土手で囲み、水を抜いて水田にしたり、潟に流入する河川の上流から土を流し、潟の底を高くする工法を採用した。さらに潟の全面干拓を目指し、浜茄子新道、山倉新道などの堤防を築き、潟を分割したが、洪水などで不成功に終わった。13人衆の開発面積は潟周辺部の452町歩にとどまった。
この開拓にともない遠く白根・五泉・新津・亀田から入植農民が相次ぎ、小作農層を形成し新田村落が形成されていった。これら村落には、開拓先駆者たちの功を讃える功労碑的な墓碑や神社が建てられた。宝暦年間に形成された新鼻や前新田には、丈右衛門の墓碑がいずれも13人衆の手で建立されている。しかし、現在、開発の恩人である先駆者たちも忘れられ、これら墓碑の存在すらも知られず訪れる人も少ない。

(新発田藩による干拓)
1824年(文政7)に、潟周辺は幕府直轄から新発田藩の預地となった。藩では阿賀野川から新井郷川への逆流止めの工事や土流し、各新道の堤の強化を積極的に行い、450町歩の開拓地を生み出した。
しかし、新発田藩は、当時の土木技術の限界を認識し、潟の全面干拓を放棄した。1851年(嘉永4)潟水面540町歩を葛塚の斉藤七郎治や内沼の佐藤名平など豪農15人に譲渡した。

(明治期)
その後、豪商と言われた葛塚の弦巻七十郎や水原の佐藤伊左衛門などに干拓は引きつがれ、1911(明治44)年には、潟は天王市島家の所有となった。

(昭和期)
1956(昭和31)年、国は潟を市島家から買収し、1961(昭和36)年の新井郷排水機場の完成を契機に、1968(昭和43)年から国営福島潟干拓建設事業をはじめた。北側を遊泳地として残し、169haの農地を生み出して、事業は1975年(昭和50)に完成した。
福島潟の面積は193ha(後湖沼化した土地を含めると262ha)となった。国営干拓事業では当初 福島潟を全て干拓する予定だったが、工事が始まってから2度の水害に襲われた際に福島潟の治水機能が見直されたために半分程度残したといわれる。

1970年代、米生産の余剰化から、政府の生産調整構想が公表され減反政策がおしすすめられるようになった。
1976年(昭和51)、国は干拓工事が終了していないとして、水田化を認めず畑作のみを認めた。これに反発した農民は、この年干拓地の水田に立ち入り、強制的に田植えを行う騒動となった。

  • 🔳山本丈右衛門供養塔
    1818(文化15)年、水原十三人衆によって丈右衛門の50回忌を記念して建立された。
    〔所在地〕新潟市北区前新田 延寿庵
  • 🔳山本丈右衛門の墓
    1864年(元治元)、斎藤七郎治永治が丈右衛門を慰霊するため建立された。
    〔所在地〕新潟市北区新鼻31番地
  • 🔳開潟神社 ※GOOGLE 画像
    開拓先駆者丈右衛門や斉藤七郎治が祭神として祀られたいる。1876年(明治9)新鼻甲の人達が建立した。
    〔所在地〕新潟市北区新鼻甲
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福島潟の名前の由来

昔、紫雲寺村(現新発田市)に真野長者という実力者がいた。真野長者は後の落堀川(長者堀)を掘削して、紫雲寺潟(塩津潟)の排水を試みたが成功しなかった。長者はまた紫雲寺潟のほとりに紫雲寺という寺を創建した。ここに若い美しい小姓がおり、娘たちのあこがれの的だった。
真野長者の一人娘お福も小姓を見初めた。お福はある日鐘楼に現れた小姓をつかまえ、綿々と胸の内を訴えた。しかし小姓は仏に仕える身、きっぱり求愛を断った。するとお福は、逃げる小姓を紫雲寺潟まで追いかけて、小姓を抱き潟の中へ飛び込んでしまった。その夜から大雨が降り出し七日七夜降り続いた。七日目の晩、村人は潟の真ん中で、小姓を咥えた大蛇の姿を見た。
享保年間、信州高井郡米子村の竹前権兵衛、小八郎兄弟が紫雲寺潟の干拓を幕府に願い出た。そして私費を投じて、かつて真野長者が試みた長者堀を再掘削し、塩津潟の水を排水することによって、約十年間で多くの新田を造成した。この干拓で潟はだんだん小さくなるので、大蛇は居たたまらず、ついに南の方にある大きな潟へ引っ越した。この潟はお福の一字を取って福島潟と名付けられた。

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