蓮華峰寺 ( れんげぶじ ) Rengebuji temple 佐渡市



🔗小比叡騒動 🔗小比叡神社

小木港の北東約2キロ、羽茂との境界に近い山中にある。真言宗智山派の寺院。
平安時代初期の大同3年(808)弘法大師空海が開いたと伝え、のち嵯峨天の勅願所とされた。
蓮華峰寺は佐渡が皇城の鬼門にあたるとして、比叡山延暦寺(天台宗)にならって皇城鎮護の目的で建てられたので山号を小比叡山といい、蓮華八葉のように八つの峰に囲まれているので蓮華峰寺となづけられたのだという。江戸時代は、幕府から御朱印領を寄進された90石の朱印寺として栄えた。
寺域は1万1600平方メートル、入り口の祖師堂脇から石段を下ったところに山門があり、それをくぐった谷奥に、本尊の聖観音を祀る金堂ほか、弘法堂・八祖堂・密厳堂・骨堂・客殿・弁天堂・灯篭堂や、旧小比叡神社の本殿・拝殿・鳥居などが建つ。
いずれも室町から江戸時代に再建されたもので、弘法堂・骨堂とともに国の重要文化財となっている。かつては、まわりにたくさんの末寺や寺家をたくさんもつ山岳寺院であった。
慶安5年(1652)年に、佐渡奉行所役人の辻藤左衛門が蓮華峰寺に立てこもった小比叡騒動があった。この時、住職であった快慶は責めを問われて、獄門となっている。

7月には境内のいたるところ、7,000株のアジサイが一斉に開花して見事なことから別名アジサイ寺ともいう。アジサイは40年ほど前に檀家らが植え始め、現在では約3ヘクタールの敷地内に、17種類、約7千本が歴史ある建物を取り囲むように咲いている。

昭和9年(1934)11月、 与謝野寛(鉄幹)はここで「蓮華峰寺 古りし五采のあひだより 天人が吹く王朝の夢」と詠んだ。

🔷金堂

桁行5間、梁間5間で一重、屋根は入母屋造り、カヤ葺き。昭和30年に解体修理が行われ、このとき発見された墨書銘により、長禄3年(1459)以前、応永年間(1394~1428)以降の造立であることが分かった。構造は簡素だが、台輪、挙鼻、頭貫などの曲線、絵様に、精緻な手法が見られる。県文化財の骨堂も、金堂と同じ頃、室町時代前期の建築と推定されている。

🔷弘法堂

金堂の左手から、大小無数にある宝篋石塔の間をすすんだところ、丘の中腹にある。桁行、梁間とも3間、一重、屋根は宝形造り、トチ葺き。金堂同様簡素な小堂だが、内部の須弥壇、厨子に古様を残し、佐渡としては、地方色の無い特異な建物である。
慶長14年(1609)建立の棟札が現存し、佐渡相川鉱山を差配した大久保長安の援助により、播州(兵庫県)姫路の名匠水田与左衛門が建てたといわれている。







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小比叡騒動(こびえそうどう)

慶安5年3月14日(新暦1652年4月22日) - 小比叡騒動で佐渡奉行所役人の辻藤左衛門が、小比叡山蓮華峯寺に立て籠もって自刃する。

当時の佐渡奉行所は、伊丹播磨守康勝(在職寛永12年(1635)-承応2年(1653))が江戸在府の奉行を勤め、数人の留守居役に奉行所の運営を行わせていた。
辻藤左衛門信俊は、甲州出身の人と言われ、西三川金山役を務めていた。伊丹播磨守が佐渡視察を行った際、藤左衛門はその誠実さと能力の高さから伊丹の目にとまり、奉行所で町政の責任者に引き上げられた。
当時奉行所では、金山経営で潤う山師などと役人の間で、金品の授受など賄賂政治が横行し腐敗しきっていた。辻藤左衛門はそれらと一線を画し綱紀粛正を求めるなどしたため、留守居役などのネタミもあり、とうとう小木番所に左遷された。
辻藤左衛門は、奉行所内ではびこる留守居役たちの行状やそれに対する、自分の心中をしたためた奉行あての訴状を書いた。しかしその訴状は途中、留守居役たちの手に渡ってしまう。
すると留守居役たちは、藤左衛門の縁故の者を遣わし、藤左衛門と面談して小木番所の任を離れ相川の親類宅に戻り静養するよう説得した。
藤左衛門はこれに応じず、長男の市之丞(19歳)、二男新弥(17歳)と共に蓮華峰寺に籠った。親交のあった住職快慶も藤左衛門に理解を示した。
これを聞いた留守居役たちはこれを謀反ととらえ、江戸の奉行に子細を報告するとともに、慶安5年(1652)3月13日、留守居役の一人岡林伝右衛門が500人余りを率いて小比叡を目指して相川を出発した。この中には、味方孫太夫などの山師とその手勢が150人ほどが含まれていたという。
江戸では幕府に不満をを持った牢人達が由井正雪に率いられて幕府を転覆させようと企てた事件(慶安の変)が慶安4年(1651)に起きており、世の中に不穏の空気が漲っていたことから、長岡藩に命じて討手を差し向けたほどであった。
一方、蓮華峰寺では、奉行所から討手の一隊が向かったという報が入り、藤左衛門の一族と家来で17名、蓮華峰寺の門徒百姓約70人が立て籠もり、境内の要所要所に擁壁を設けて備えたという。
奉行所の一隊は大須村に一泊し、3月14日の明け方を期して蓮華峰寺に攻め寄せた。双方からの鉄砲の撃ち合いから始まった戦いは数時間の小競り合いが続いたが、やがて寄せ手の投じた松火により寺の各所から火の手があがり、あっけなく決着した。
藤左衛門父子3人は、大きな椿の木の下で静かに念仏を唱えながら切腹した。快慶ら7人が捕らえられ打首になった。藤左衛門は42歳、快慶は68歳であった。関係者の首は中山街道の獄門台にさらされた。
この騒動で、蓮華峰寺の客殿・庫裡・賦蔵・護摩堂・講堂など多数の建物が焼失した。
快慶の供養塔が蓮華峰寺境内金堂の左側にあって「焼かれて熱いだろう」といって、これに水をかける風習があるという。


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小比叡神社

小比叡神社は、蓮華峰寺隣接する旧鎮守で、明治時代に分離して神社となった。
本殿は、金堂の前方西端、覆屋の中にある。三間社流造、屋根はこけら葺き、軒を一間繁垂木とし、身舎正面に3間とも板唐戸を設け、四周に擬宝珠高欄つきの縁を巡らしている。江戸時代初期の造立で、殿内に康永4年(1345)・応永2年(1395)などの墨書銘が残る懸仏がおかれている。県文化財の拝殿も、本殿と同時代の建築と推定されている。
鳥居は、小規模な石造明神鳥居だが、柱の頂部に台輪を造り出した稲荷鳥居の形式がとられている。刻銘があり、慶長13年(1608)建立。初代佐渡奉行、大久保長安と弟の安政が奉納したものとされる。本殿と鳥居はともに国の重要文化財に指定されている。
毎年2月6日に豊作を祈る「田遊び神事」が行われていたが、現在は休止されている。
  • 〔御祭神〕大己貴命 ( おおなむちのみこと ) ・ 菅原道真公 ・ 白山毘咩命 ( しらやまひめのみこと )






























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