中野邸 もみじ園 Nakano House Maple Garden 新潟市




@じゃらん
旧新津市金津の石油の里公園内にある。県内有数の紅葉の名所。
大正から昭和初期にかけて中野家が収集した美術コレクションや石油文化資料の展示される美術館と庭園が開放されている。
「泉恵園」と呼ばれる庭園は、明治37年から昭和14年にかけ、中野貫一、忠太郎の2代に渡って県下一級の造園技術者を集めて40年の歳月をかけて造園したもの。標高60mの傾斜地を利用した庭園は、面積は2.3ヘクタールの広さになる。
約130種、2000本のもみじが植えられており、その中に四国、和歌山、京都から運んだ名石が配置されている。また、大小42基の灯篭が秋にはもみじの紅を写し、その美しさはたとえようもない。例年11月初旬から1週間「もみじ祭り」が開催されます。



≪現地案内看板≫
中野邸について

わが国で石油に関する最も古い文献といえば日本書紀に「天智天皇七年此の国より燃ゆる土と燃ゆる水を献ず」とある。この年は西暦にすれば六六八年で今を去る一三一〇年余りも前のことである。
当新津市の石油の歴史は古く、文献、史跡等も多く保存され、世界的にも石油発祥の地として知られている。
中野家は、越後国蒲原郡会津村で代々庄屋をつとめていた大地主であったが、文化元年(一八〇四)中野貫一翁の曽祖父次郎左衛門が草生水油(石油)採取権を買い取り「泉舎」と号して、当時のいわゆる「草生水油稼人」をも業とするようになった。
翁は弘化三年(一八四六)に生まれた。十四才にして父を亡くし庄屋と泉舎を引き継いだ。明治六年「石油坑法」が公布されるや直ちに新潟県庁に石油試掘を出願、許可を得て翌七年(翁二十八才)九月、自分の所有地内に草生水場を開坑して若干の出油に成功したが、それも束の間、その後の試掘は失敗の連続であった。そのため家産は傾き親族、知己の多くはあてもない冒険事業をやめるよう忠告したが、翁は初心を捨てず遂に最初の試掘から二十九年目の明治三十六年はじめて商業規模の油田を掘り当て会津油田(新津油田の一部)開発の端を開いた。
それ以来当時の三大石油会社であった日本石油および宝田石油に次ぐ大産油業者に成長、明治大正時代に「石油王」と呼ばれるに至った。

中野貫一処世訓
「無理、驕り、朝寝、かけごと、つつしみて、生業はげめば子孫栄えむ」
昭和三年 没 八十五才
新津観光協会






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カエデとモミジの違い

「かえで」の語源は葉の形が蛙の手に似ていることに由来し、万葉集では「もみじ」と共に「かえるで」の表現があります。植物分類上はカエデ科カエデ属に属する樹木で、この中にイロハモミジ、ヤマモミジ、イタヤカエデ、ハウチワカエデなどがありますが、ヒトツバカエデ、ミツデカエデ、メグスリノキなど蛙の手とは似ていない種類も含まれています。
「もみじ」は、「紅葉(もみじ)する(「黄葉する」とも書く)。」すなわち、カエデ科の樹木の他にツタ、ヤマウルシ、サクラ類、イチョウ、ブナなども含めて、秋に葉が赤や黄色に変色する現象に由来しており、植物分類上の言葉ではありません。一般にはたくさんの紅葉する木を代表してカエデ属が「もみじ」と呼ばれています。
このように、カエデとモミジはならべて区別する言葉ではありません。童謡「もみじ」の一節~松をいろどる楓や蔦は山のふもとの裾模様~、が良くこのことを表現しています。
ところが、盆栽関係ではこれを区別して使っています。イロハモミジのように葉の切れ込みが五つ以上のカエデ属だけをモミジと呼び、その他のカエデ属をカエデと呼んでいます。

→引用 野鳥観察の森ネイチャーセンター