五十嵐小文治の館跡 Ikarashi mansion ruins 三条市



🔗全国「五十嵐」発祥の地 🔗五十嵐神社

(五十嵐氏)

鎌倉時代にこの地に土着してから下田郷の西半分、五十嵐川流域を約400年にわたって支配していたのは五十嵐党という豪族だ。。その領主は代々小文治と名のり、鎌倉幕府にも仕えていた。
伝説では、小文治吉辰は、笠堀の甚右衛門の一人娘と吉ヶ平の雨生ヶ池の竜神との間に産まれた。後に成長して五十嵐保の支配者となり、その武名は遠く関東にも聞こえたという。
鎌倉初期には文献に登場する。1213(健保元)年の和田合戦で北条方御家人五十嵐小豊治は和田義盛方に討たれた。
南北朝時代の1352(正平7)閏2月、五十嵐文四、文五は大井田氏経らと新田義宗軍に属し、足利尊氏軍と戦った。
室町期、五十嵐氏は越後国守護職 上杉氏の支配下に組み込まれるが、上杉家の力が落ち、守護代の長尾能景が永正3年(1506)越中で戦死すると、自領の権益の拡張を図って反乱を起こしたが、子の長尾為景によって鎮圧され、その後は長尾家に従属している。
春日山城の城主上杉謙信の跡継ぎ争いである「御館の乱」が天正6年(1578)に勃発すると上杉景虎側についた為、上杉景勝勢によって攻め滅ぼされ、五十嵐氏は滅亡した。
那須与一と五十嵐党
那須与一は、平家討伐の際、義経軍に従軍し、元暦2年(1185)の屋島の戦いでは、平氏方の軍船に掲げられた扇の的を射落とすなど功績を挙げ、頼朝より武蔵国内に5ヵ所の荘園を賜った。文治5年(1189)、屋島の合戦から4年後24歳の時、源頼朝の側近梶原景時の讒言によって、越後に追放され、五十嵐党に預けられたといわれている。しかしその後の与一の生涯は、各地に伝承として残されているが不明である。与一は越後国内の那須氏の祖とされている。

(居館)

五十嵐氏代々の居館は三条市飯田に所在し、築城年代は定かではない。伝承に依れば五十嵐小文治吉辰によって築かれたとも云われる。

館跡は五十嵐川の造成した右岸の第2段丘下の標高38mの沖積水田平地の微高地点に立地している。館の規模は東西80m×南北100mほど、周囲は幅10m前後・深さ1-1.5mの堀(濠)と土塁(高さは不明)で囲まれた典型的な中世の居館形態をしている。
館は完全な方形ではなく、東側にある虎口は東へ張り出し門が構えられていた。鬼門の北東隅は入隅状になり窪んでいる。

北側にある現在五十嵐神社となっている場所に飯田城が五十嵐館の詰城として存在した。城跡の土塁や堀切などの遺構が残っている。五十嵐神社は五十嵐館の鬼門守護神(社地不詳)であったが、1875(明治8)年、現在地に社殿を改築した。

1969年(昭和44)この地方の農地整備事業計画により、1972年(昭和47)下田村教育委員会の調査がおこなわれた。堀を廻らせた方形の遺構が発掘され、出土遺物も確認された。

1974(昭和49)、1984年(昭和59)の3回にわたり発掘調査が実施され後、史跡整備がなされ、ゲートボール場になっている。
出土した遺物は土器類(青磁、白磁、染付など)、金属類、古銭、木器類、漆器など。その一部は三条市下田郷資料館に展示されている。
江戸初期の遺物も発見されていることから・、五十嵐氏が滅亡した後も何らかの形で使用されていたと推定される。

昭和48年(1973)3月29日、五十嵐館は中世の豪族居館の典型として貴重な事から新潟県指定史跡に指定された。(案内図)

≪現地案内看板≫

五十嵐館跡の概要

この館跡は雨生ヶ池(三条市吉ヶ平)の竜神の子で五十嵐保(下田地域)の開発の祖と敬われた五十嵐小文治吉辰(一族は「五十嵐党」と呼ばれ、その総領は代々小文治と称した)が築いたものと伝えられている。
館は台形に近い形で、虎口(入口)は東側一ヵ所で、四柱門があった。東南と南西の角には礎石を使用した一間四方の櫓(小屋)があった。西面はゆるやかに折れ曲がった土居敷約十メートルの土塁があり、北面は複雑で館内にくぐり込む堀もあった。
館跡はその規模や造作から軍事面よりも一族の支配や農民への領主権を誇示しようとする意図がみられ、五十嵐氏の在地領主の様相がうかがえる。

平成八年三月
三条市教育委員会
五十嵐小文治館跡保存会


❏〔所在地〕三条市飯田

❏〔アクセス〕
  • 🚅…JR上越新幹線「燕三条駅」より車で約40分
  • 🚘…北陸自動車道「三条燕IC」より車で約40分

❏〔周辺の観光施設〕

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全国「五十嵐」発祥の地

現在、五十嵐を名字とする人口は116万人弱で、全国で118番目に多い姓との調査がある。またその読みは、新潟県内では濁らず「いからし」と、県外では「いがらし」とされることが多い。
いずれにしても、「五十嵐」発祥の地は三条市の旧下田村飯田とされている。
伝承では、垂仁天皇 ( すいにんてんのう )の皇子五十日足彦命 ( いかたらしひこのみこと )が、天皇の詔を受け越の国の開拓を任され、頚城地方・上田郷(南魚沼)・下田郷など各地に赴き、治水や農業の技術を教えたという。
命は、最後に飯田宮沢の地を訪れ、生涯を閉じ、舞鶴の丘(五十嵐神社の現在の境内)に葬られたとされる。命を祭神として延喜式十三座の一つ伊加良志神社がおかれた。全国の五十嵐姓は、すべてがこの五十日足彦命の後裔とされる。
その後、鎌倉時代に入ると、この地を支配したのは土豪の五十嵐党であった。飯田に居館を設け、現在五十嵐神社のある場所に詰城を置いた。そして居館の鬼門に、五十日足彦命を祭神とする五十嵐神社を祀った。
五十嵐氏は、上杉謙信が死亡したのちに起こった上杉家内の権力闘争に巻き込まれて、滅亡してしまった。一族郎党のほとんどは下田郷から四散して姿を消した。それが、五十嵐姓の発祥の地であっても「五十嵐」を名乗る人がほとんどいなくなった理由である。
五十嵐神社は、明治時代に入ってから詰城のあった現在の場所に移された。

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五十嵐神社

近世には「若一王子」「飯田神社」とも称された。祭神は垂仁天皇の第八皇子、五十日足彦命。
越の国を開拓し、この地で生涯を終え、葬られた小高い丘に神社が建てられた。
「いかたらし」が「いからし」に変化し、五十嵐一族として全国に広がっていったのだとか。「五十嵐」姓のルーツがここ。五十嵐川の名もこれに由来するという。
現在は五十嵐川を望む丘陵上に位置するが、中世においては丘陵下に居館を構えていた在地豪族、五十嵐小文治の館の鬼門の位置にあったと推定される(現在地の南200m)に。明治7年(1874)に現在地に遷座再建された。明治10年(1877)には村内の十社を合祀。、
また、安産と子宝祈願の神社としても有名で、昔は境内の「夫婦杉」と呼ばれる老杉の皮を腹帯に入れて巻くと安産に効くと信仰を集めていた。新潟県天然記念物に指定されていたが、昭和36年(1961)第2室戸台風の被害を受けて惜しくも枯死した。神社では今でも杉の皮をお守りの中に入れて頒布している。
近くの清水は”玉清水”と呼んで地元の人たちが大事に管理している。

  • 〔御祭神〕 五十日足彦命 ( いかたらしひこのみこと )
  • 〔所載地〕 三条市飯田2283
  • 〔問い合わせ先〕 ☎0256-46-4007

🌌五十嵐神社春季祭

地域の子供の稚児舞と神楽が奉納される。

  • 〔開催日〕 毎年5月3日




















五十嵐館跡 飯田城跡(五十嵐神社)