勝山 Mt.Katsuyama 糸魚川市
| 勝山は糸魚川市の西端、日本海に突き出すようにそびえる標高328mの低山である。標高こそ高くないものの、海から一気に立ち上がる地形のため存在感は大きく、山頂からは日本海と糸魚川市街、頸城方面の山並みを一望できる展望の山として知られる。登山口は国道8号沿いにあり、「勝山城址登山道」と刻まれた石碑が目印となる。駐車場所からすぐに登山道へ入れるため、気軽なハイキングにも適している。 登山道は序盤から石段が続き、その後は樹林帯の中を登る。急斜面もあるが距離は短く、よく整備された道をたどるため道迷いの心配は少ない。標高差は約300mほどで、ゆっくり歩いても1時間ほどで山頂へ到達できる。春から秋にかけて歩きやすく、冬季は積雪や凍結によって滑りやすくなるため注意が必要となる。 山頂は平坦で広く、南側には三等三角点が設置されているほか、勝山城跡を紹介する説明板や石祠が建つ。戦国時代には勝山城(落水城)が築かれ、本丸が置かれていた場所であり、曲輪や土塁などの城郭遺構が現在も残る。山歩きとともに山城探訪を楽しめる点が、この山の大きな魅力である。歴史好きであれば、当時の城の配置や防御施設を想像しながら歩くことで、登山とはまた違った楽しみ方ができる。 展望は山頂最大の見どころである。南東には黒姫山が堂々とそびえ、東には糸魚川市街地と日本海沿いに続く海岸線が広がる。海と山が近接する糸魚川らしい景観を一望でき、晴天時には北の水平線上に佐渡島や能登半島を望むこともある。日本海を行き交う船や海岸線の変化を眺めながら過ごす時間は格別で、標高以上の開放感を味わえる。 登山道に危険箇所は少ないものの、雨天後は粘土質の地面や木の根が滑りやすくなる。落ち葉が積もる秋や積雪期は足元を確認しながら慎重に歩きたい。水場や山小屋はないため、飲料水は事前に用意しておく必要がある。 短時間で登れる手軽さと、日本海を見渡す雄大な景色、さらに戦国時代の山城遺構を同時に楽しめる勝山は、初心者から歴史愛好家まで幅広く満足できる里山である。海岸近くならではの風景と歴史が調和した、糸魚川を代表する魅力的なハイキングコースの一つといえる。
≪勝山城≫勝山城がはじめて築城された時期は不明であるが、戦国時代になると上杉謙信が越中からの侵攻を防御する要として落水城に家臣を配置し、防衛に当たらせた。謙信の死後、上杉景勝の代になると織田信長の家臣である佐々成政の軍が上杉領侵攻を狙い、魚津城、松倉城を攻略して来たため、景勝は急遽、落水城を整備し、自国領の絶対国防線の最後の砦とした。天正13年(1585)越中富山城に籠城した佐々成政討伐のため、6万の軍勢を率いて城を包囲していた羽柴秀吉が、30数人のわずかな兵を率いて勝山城に現れ、景勝との会見を申し入れた。当時の城将は須賀修理亮盛能であったが、春日山城に知らせを入れ、景勝、兼続が駆けつけ秀吉、三成の4人だけでふた時密談が行われた。景勝は秀吉に臣従し上洛する旨を定めた落水の盟約が成立した。 このとき、城名が落水という名では盟約に水を差し縁起が悪いということで、勝山に呼び名が変更されたという。 慶長3年(1598)上杉景勝が会津120万石へ転封となった際に廃城となった。 勝山城跡 勝山城は、戦国時代上杉氏が領国の経営と国境守備のため、春日山城の支城として各地に保有した番城や砦の一つで、謙信没後その跡を継いだ上杉景勝が、越中方面からの織田信長の脅威に備えて築いたものである。はじめ地名から落水城と呼ばれていたが、後に勝山城と改められ、秋山守綱、荻田主馬丞らが城将であったことなどが古文書に記されている。 勝山城は、標高三二八米の山城で、足下日本海ガせまり、遠く西は親不知や越中宮崎の鼻が、東は姫川河口から不動山城(早川)や徳合城(能生町)が望まれ、望楼としても優秀であった。山頂には壕で守られた三廓の主陣地帯を設け、これを核として、さらに西南に次第に高く続く尾根には、削平地や空壕が長城のように構えられている。山頂への道は、海岸の落水から尾根づたいに急坂を登る道と谷川に沿って地獄谷を通る道、大沢部落から七曲りを通り権現山へ達する道の三本があるが、今は最初の道だけを利用している。 豊臣秀吉は、越中の佐々成政の征伐が終わると石田三成以下わずかの供を従え勝山城へ乗り込み、この地で上杉景勝と会見し、固い盟約を結んだことは大いに有名である。時に天正十三年(一五八五)夏のことであった。 山頂の石祠は昭和十三年に青海青年会が建てたもので、上杉ゆかりの高田の春日山神社から、お札をうけてまつってある。 |
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枡形山
登山口
