三日市藩 新発田市
三日市藩宝永6年(1709)、幕府は村上藩減地分処分のために黒川と館村に陣屋を設けた。![]() 柳沢花菱紋 享保9年(1724年)3月11日、柳沢吉保の長男・柳沢吉里は甲府藩から大和国郡山藩へ移封された。このとき、支藩甲府新田藩で1万石を領していた吉保の五男柳沢時睦は越後三日市に1万石の所領を与えられ、三日市藩が立藩することとなった。 加治川の水害を避けるために戦国時代の加治氏居館跡にあった幕府館村代官陣屋跡に陣屋建設した。三日市柳沢氏は江戸詰無城大名であり、陣屋には郡奉行や代官など若干の役人が赴任した。 成立直後からもともと小藩であった上、藩主が江戸定府で膨大な出費が続いたため、藩財政は極度に悪化した。文政年間に財政再建を主とした藩政改革が試みられたが失敗し、逆に藩財政をさらに悪化させるに至った。
戊辰戦争戊辰戦争時の藩主柳沢徳忠は、慶応4年(1868年)3月18日に江戸を出発し、4月6日に三日市へ到着した。藩財政が破綻を迎える中での、歴代藩主で初の入部であった。慶応4年(1868)5月6日、新発田、村上、村松、黒川の諸藩と共に新発田に集まって、会津藩を救うための嘆願書をつくり、北陸道鎮撫総督府に提出し、奥羽列藩同盟に加盟した。 7月28日、新政府軍は帰順した新発田藩を先鋒として、三日市藩に攻め寄せたので、新発田藩を通じて降伏を申し入れた。 この時、藩主柳沢徳忠は江戸におり、藩士の多くもこれに従っていたため、出兵できる藩士は7名に過ぎず、新発田藩兵の中に加えて出陣させられた。 翌年(1869)、版籍奉還により徳忠は三日市藩知事となる。明治4年(1871)7月14日、廃藩置県により三日市藩は廃藩となって三日市県となる。そして同年11月20日、三日市県は新潟県に編入された。 |
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