黒川藩 胎内市



黒川藩


柳沢花菱紋
第5代将軍・徳川綱吉のもとで活躍した側用人柳沢吉保の長男柳沢吉里が享保9年(1724年)3月11日に甲府藩から大和郡山藩に移封された後の同年閏4月28日、吉保の四男柳沢経隆が1万石を与えられて立藩したのが始まりである。幕府の黒川代官陣屋が柳沢氏の陣屋となり、役所建物などが新規に造営された。
黒川藩の財政基盤は1万石であったが、藩領は山地が多かったために新田開発が不可能であり、実質的な石高は1万石を切っていたとも言われている。
歴代藩主は江戸に定府していたため出費がかさんでいた。財政は悪化し、天保14年(1843年)には5000両余りの借金を抱えていたと言われている。
第7代藩主柳沢光昭は安政年間、黒川陣屋内に藩校「弘道館」を設け、藩士の子弟教育に努めた。
文久3年(1863)、藩主光昭と藩士の大半が黒川に移住し、陣屋の北側に堀と垣塀を巡らせた新たな御殿を建造した。光昭は藩主として初めての国入りであった。
光昭は、慶応4年(1868)閏4月家督を養子光邦に譲り隠居する。
明治2年(1869)、最後の藩主となった柳沢光邦が黒川藩知事となる。そして明治4年(1871)7月14日、廃藩置県により黒川藩は廃されて黒川県となり、同年11月20日には新潟県に編入された。



戊辰戦争

黒川藩は、5月6日、新発田藩で開催された諸藩会議で奥羽列藩同盟に参加し、少数の兵を派兵した。
新政府軍が米沢藩征討に向け進軍すると、8月12日、柳沢光邦は関川村下関の新政府軍会議所を密に訪れ降伏を願い出、帰順した。光邦は新発田本営に送られ、藩士15名は直ちに新発田藩兵に所属して行動するよう命じられた。この後米沢藩征討に向かい、沼村に滞陣した。
新政府軍が松ケ崎に上陸して新発田に赴いた時も、黒川藩などの存在はそれほど警戒しなかった。それほど勢力としては弱く、新発田藩が同盟軍がから抜けた以上、帰順は時間の問題と見られていた。


黒川藩陣屋跡   地図 ストリートビュー













徳川一族

徳川一族

  • 作者:清水昇/川口素生
  • 出版社:新紀元社
  • 発売日: 2009年01月