天朝(長)山・越後府跡 Tencho Mountain & Echigofu Ruins 阿賀野市



JR水原駅の東約1km、国道49号線沿い西側に盛り上がった、天朝(長)山と呼ぶ小丘上に越後府跡がある。
水原町はかつては、水陸交通の要地であり周辺住民の交換経済の市場として栄えた。
天朝(長)山は、天保7年(1836)、打ち続く飢饉に際し、越後の『千町歩地主』の一人として知られる市島宗家六代の徳次郎が窮民救済のため自宅裏手の荒れた湿地を埋め立てて、約3000㎡に渡って土を4m余の高さに築き上げ、東西78m、南北114m、面積は約13,000㎡の人工の丘で、周囲に堀がめぐらされている。水原中島に所有する田地から自邸裏手の湿地に土を運ばせて、これを埋めた。土一升に給金一分、米五合を与えたので、男女老若喜んでこれに加わり、ついに一つの丘となり、代官所や水原の町並みを見下ろす形となった。
築造は天保11年(1840)に完了し、六代徳次郎はここに別邸を作り、「継志園」と名付けた。このことが幕府に聞こえ、糺問を受けたが、難民救助ということなのでかえって賞をうけた。
この丘は、竣工の際、漢詩の「天長地久」にちなんで「天長山」と命名された。当時の大地主の経済力を偲ばせる。県指定の史跡である。
万延元年(1860)市島家は、旧宅から天長山の新居に移ったが、戊辰戦争慶応4年(1868)の際、会津藩の本営となり、同年7月27日、戦火に会って焼けた。
明治元年(1868)9月、に明治政府によって旧天領を統治するため、旧水原奉行所に新潟府がおかれた。
翌2年(1869)2月8日、政府は新潟府を廃して越後府の大看板を掲げたが、旧水原奉行所の建物が手狭であった。七代市島徳次郎は、水原町の中心部にある継志園の用地を越後府に献じ、ここに新たに府庁が造立された。そのため、これを天朝山とも呼んでいる。庁舎は、門、矢倉(櫓)、一ノ棟、二ノ棟、三ノ棟、四ノ棟、五ノ棟(馬屋)などからなっていた。
越後府は、同年7月27日、水原県が誕生するとその県庁になり、出先機関は、水原、新潟、中条、加茂、脇野町、出雲崎、小千谷、柏崎、川浦(中頸城郡三和村)、河治の十ヶ所に局が配置されていた。
明治3年(1870)3月7日、新潟県が復活され水原県は廃止となった。それまで、越後における行政面での中心地となって、新政府遂行の拠点がおかれた。いわば新潟県発祥の地といえる。
わずか1年7か月の命運であったが、水原は行政の中心地としてますますの繁昌を謳歌した。しかし当時新潟港は、開港そうそうで県庁の指揮を必要とした。交通通信が発達していなかった当時としては、わずか新潟、水原間であっても日常の事務処理に極めて不便を来たした。対外事務についてのとどこおりは許されない有様となったため、県庁が新潟に移されたのである。
現在、天長山会館となって、市島家旧宅の一部と庭園跡や記念碑が残っており、当時の様子を偲ばせる。


❏〔所在地〕阿賀野市中央町2-1262-1
❏〔アクセス〕
  • 🚅… JR羽越本線「水原駅」より徒歩で15分
  • 🚘… 磐越自動車道「新津IC」より車で15分
❏〔駐車場〕 15台
❏〔周辺の観光施設〕 ❏〔問い合わせ先〕 0250-62-2510 阿賀野市商工観光課


天朝山公園 ※GOOGLE 画像

越後府跡は現在は、県政発祥の地として歴史をしのぶ櫓や遊具のある公園に整備された。公園を囲むように桜が植樹されている。



〔桜の種類〕 ソメイヨシノ
〔本数〕 約80本
〔見頃〕 4月上旬~中旬

❏〔問い合わせ先〕 0250-62-2690 公園管理事務所





















桜の名所

桜の名所

  • 作者:主婦の友社
  • 出版社:主婦の友社
  • 発売日: 2012年04月



天朝山公園 越後府跡 旧市島家本宅跡地