佐渡おけさと村田文三 佐渡市
佐渡おけさの起源「佐渡おけさ」は、北前船で九州方面から港に持ち込まれたハンヤ節が、酒盛唄として島に広まるうちに、金山で鉱石を選り分ける時に唄う選鉱唄になった。曲名は当初「選鉱踊り」といわれたが、「おけさ」人気にあやかろうと「佐渡おけさ」に改名された。ハンヤ節は出雲崎や寺泊、蒲原、魚沼地方にも伝わる。小千谷では縮を伝えた堀次郎将俊の娘に「お今朝」がおり、それが「おけさ」の名称の由来との説もある。相川では日清戦争後に鉱山が民間に払い下げられ、その鉱山祭りに初めて町内を流して歩いた。編み笠をかぶって町を踊り流す際に、「選鉱場おけさ」「相川おけさ」がうたわれた。 大正13年(1924)6月10日、「相川音頭」の保存を主とした目的とした同好者の集りで、村田文三も所属した立浪会が相川町に設立された。 村田文三明治15(1882)年1月1日〔生〕-昭和31(1956)年8月10日〔没〕文三(本名文蔵)は相川町の漁師の長男に生まれた。弟5人、妹2人。16歳の時、北海道の漁場へ出稼ぎに出され、20歳で佐渡へ帰り、三菱佐渡鉱山で働いた。金山の坑夫長を務めていた。 文三の美声は鉱山仲間の間では有名であったが、地元相川の民謡保存会・立浪会に入会し、「選鉱おけさ」などを唄うと、その天賦の才が開花した。 「佐渡おけさ」は大正15年(1926)4月21日、東京・愛宕山にあったJOAK(NHKの前身、東京放送局)からラジオで初放送されたが、「佐渡おけさ」を日本を代表する民謡にまで有名にしたのは村田文三による功績が大きい。 身長164センチ、首回り47センチ、体重80キロの巨体から出る声量は、7本の三味線つきでも平気だった。 ビクター専属の民謡歌手としてレコードを吹きこみ、各地を演奏旅行して「佐渡おけさ」ブームを巻き起こした。国内だけでなく日本統治下の朝鮮や台湾、旧樺太まで行脚し、佐渡の民謡を広めた。特に『文三節』と称された「正調佐渡おけさ」を広めた。 文三は、45歳で20年間勤めた佐渡鉱山を退職し、「おけさ」に専念した。人気歌手への道もあったが、寂れていく相川の町を憂いて、佐渡に腰を据えて、佐渡ともに生きることを選んだ。 昭和28年(1953)秋、相川町は名誉町民第一号に文三を選んだ。 昭和30年(1955)、全国民謡舞踊コンクールで優勝。 昭和31年(1956)8月10日、胃がんで死去。74歳であった。
|
|

