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戦国時代

上杉謙信関連人物


長尾晴景
永正6年(1509)〔生〕~ 天文22年(1553)2月10日 〔没〕

越後長尾氏8代当主。景虎(謙信)の実兄。妹に上田庄長尾政景に嫁いだ仙桃院がいる。
守護代長尾為景の子として生まれる。母は上条上杉氏。守護上杉定実の娘を娶り、定景と名乗る。12代将軍足利義晴から偏諱を与えられ、晴景に改名。
天文9年(1540)8月3日、父・為景の隠居により、家督を譲られて、春日山城主となると共に越後守護代を補任された。
父の為景と異なり穏健な政策をとり、領内の国人との融和を図った。晴景は、国内の混乱を治める為後奈良天皇から「敵追討」の綸旨をいただくなど、父為景の手法をつぎながら、既に引退を表明していた定実が国人らへ所領の安堵状や新給などと公文書を発令して、国内の安定をはかることに助力した。こうして次々と国人衆と講和を結んでいった。上田庄長尾政景に妹仙桃院を嫁がせることで、上田長尾氏との争いが収まった。
越後における争乱を鎮めることにはある程度成功したが、主君である越後守護の上杉定実の養子縁組問題(天文の乱)で、中条氏と他の揚北衆との間で紛争が起きたが晴景には抑える実力はなかった。
府中の弱体化を見て、国内の上杉家家臣団や国人衆が反乱を起こした。晴景は、反乱を鎮めるため、城下の林泉寺へ入門していた弟の景虎を還俗して栃尾城本庄氏のもとへ派遣した。景虎が戦上手で、反乱を鎮めたことから家中での名声を高めると、栖吉長尾氏など中郡の武将を中心に、景虎を晴景にかわって春日山城主に据えようとする一派と、上田長尾氏や府中の武将などの間で新たな騒乱が起きた。
天文17年(1548年)12月、晴景は定実の仲介のもとに、景虎に家督を譲って隠居する。病弱なうえ戦よりも芸事を好んだ人物であったという。父の為景や後の謙信のように一軍の部隊を率いて戦場に赴くことはなかった。晴景の実子は早逝していた。
天文22年(1553年)2月10日、死去。享年45。


長尾為景
文明18年(1486)~天文10年(1542)12月24日(1542)

越後長尾氏7代当主。越後守護代・越中国新河郡分郡守護代。上杉謙信の実父。
越後守護代であった長尾能景の子として生まれる。生母は信濃高梨氏。
永正3年(1506)、越中一向一揆衆との般若野の戦いで父が戦死すると、為景は長尾氏の家督を継いだ。越後国内中越地方の一向衆の一大勢力とされる五十嵐氏・石田氏らが反乱を起こすが、為景によってまもなく平定された。
翌永正4年(1507)守護上杉房能が為景討伐の準備をしていたため、為景は房能の養子定実を取り込んで、8月に機先を制して房能の居館を襲撃する。房能は関東に向け逃亡中に松之山の天水越で自刃する。為景はその養子上杉定実を傀儡として守護に擁立した。
房能に味方した揚北地方の国人本庄時長・色部昌長・竹俣清綱は9月に為景に対して一斉に蜂起するが、為景方の北蒲原郡の中条氏、黒川氏、築地氏、安田氏に攻められ、翌5年(1508)6月、会津の芦名盛高のあっせんで為景のもとにくだった。
11月6日、幕府から上杉定実の越後守護就任が正式に認められ、為景も定実を助け補うことを命じられた。
しかし永正6年(1509年)7月28日、房能の実兄である関東管領・上杉顕定とその子・憲房が為景に対して報復の大軍を起こし上田庄から越後に侵入する。関東管領の軍勢は越後上田の長尾房長が味方したので、ここを拠点として、越後府中を落とし中越・上越地方を抑えた。いったん為景に降っていた本庄、色部氏もまた叛き、上条氏や八条氏などの上杉一門、石川氏など守護直臣も顕定のもとに走った。結果揚北を除けば三条・護摩堂だけがかろうじて為景方として顕定軍の攻囲に堪えていた。顕定は越後全部を下すことができず、全体の七割ほどがその支配下になった。
為景は劣勢となって定実と共に越中国に逃亡した。為景は越中から伊達尚宗に援軍を要請、ほかに越後や陸奥、信濃、能登、飛騨の諸将さらに幕府とも情報を交換し越後奪還の機会をうかがった。邑山寺において捲土重来を期して翌永正7年(1510)には佐渡の軍勢を加え反攻に転じ、4月20日に海上から越後蒲原津に進出した。
5月20日には為景方の村山直義が今井・黒岩で関東管領の軍勢に勝利し、また信濃から援軍として高梨政盛が駆けつける。6月12日、顕定方だった上条氏が為景側に転向し、6月20日に為景は越後府中を取り戻した。ついに長森原の戦いで為景方の高梨軍が退却する上杉軍に猛攻をかけ顕定を敗死させた。
為景はこの戦乱を通じていちおう国内の掌握をすることになり、名ばかりの守護定実をいただいてはいるものの事実上の国主の座に就くことになった。
永正9年(1512年)5月、揚北衆の鮎川氏が反逆するが、山吉・築地ら武将を使わして鎮圧した。
しかし、守護定実との間に溝が生じ、定実と結んだ宇佐美房忠、上条定憲ら守護方についた諸将と対立することになる。宇佐美が永世10(1513)年柿崎の小野城に立て籠もると、守護定実は古志長尾房景に味方するよう要請したが応じなかった。守護方の直臣たちは上田庄の坂戸城を突破して関東と連絡をつけようとするも、永世11年(1514)正月、坂戸城下の六日町の合戦に八条氏など上杉一門をはじめ、石川、飯沼氏など守護直臣が多く討ち取られ、為景の国主としての地位を強めることとなった。
永正15(1518)年越中一向一揆を討つために畠山勝王丸が為景に来襲をこうてきた。勝てば越中国新川郡守護代職を安堵するという条件であった。父能景は越中一向一揆に敗死しているから為景にとっては弔い合戦になるものだった。永生16年(1519)、翌17年(1520) 二度にわたる出陣で為景は勝利をおさめ、越中一向一揆の平定はいちおう成功することになった。
永正17(1520)年12月24日、越中守護畠山尚順から新川郡の守護代職を付与される。
大永元年(1521)2月、長尾為景は越後国内に無碍光衆禁止令(むげこうしゅうきんしれい)、つまり一向宗を信仰することを禁止した。
為景は天下無二の奸雄と呼ばれ下克上の代表格であるが、鎌倉以来、自立を誇る揚北の国人らには、守護の権威の代行者としてその地位を認めてはもらえなかった。まして国外、特に幕府に対しては、しばしば即位費用等の献金を行い、莫大な交際費を計上しての運動の結果、毛氈の鞍覆いや白笠袋を将軍から許されても、大名待遇を受けただけで、越後の大名として承認されたわけではない。
傀儡ではあったが、権威は守護上杉家と「御一家」と呼ばれる上杉一門が有していた。
享禄3(1530)年10月柏崎市上杉一門の上条定憲が挙兵した。翌享禄4年(1531)正月、山浦氏以下18名の長尾一門や中・下郡の国人層はすべて為景の味方をした。この時は守護定実の調停を入れて、この年の3月には戦乱はいったん収まった。
しかし天文2(1533)年、上条氏に結集した守護勢力が為景に反抗した。魚沼郡上田庄の長尾房長、さきに為景方であった下越の国人も上条方となった。為景は刈羽郡の安田・北条両氏や、古志の長尾景信、三条の山吉政久らの力を得て守護方上条方と対峙するのが精いっぱいで、戦局は3年の間に府中を包囲されるされるところまで追い込まれていた。戦乱の中で生き続けてきた為景も、こうした中で天文5(1536)年8月、家督を晴景に譲って引退した。

天文10年(1542)1月、春日山城内で病死。享年54歳。没地については、富山県砺波市には、一向一揆に敗れた長尾為景のものとされる長尾為景塚※地図が残されている。また上越市林泉寺にも墓所がある。




上杉房能
文明6年(1474年)〔生〕- 永正4年(1507)8月7日〔没〕

戦国の乱世、永正4年(1507)8月1日、越後守護上杉房能が家臣の守護代長尾為景(上杉謙信の父)に越後国府を追われるクーデターが起きる(永正の乱)。越後における下剋上の始まりであった。

越後守護上杉房定には定昌、顕定、房能という3人の息子があった。次男顕定はすでに応仁元年(1467)、将軍足利義政の要請で関東管領山内上杉家を相続していた。長享元年(1487)、顕定と扇谷上杉定正とが戦端を開くと、兄定昌は弟顕定救援のため越後軍を率い、三国峠を越えて関東に出陣した。
翌年、定昌は上野国白井(群馬県群馬郡子持村)で自害してしまった。、
房定・房能父子は関東地方で勢力を増していた北条氏に対抗する関東管領上杉家救援のため、常に関東へ目を向けていたが、この間守護代長尾能景(為景の父)が上杉家を助けよく国を治めた。
明応3年(1494)、房能は父房定の死で越後上杉家を相続した。ところが房能に嗣子がなかったので、文亀3年(1503)娘かみの婿に上条城主(柏崎市)上条房実の子定実を迎えようとした。同年、暮にはめでたく祝言をあげたといわれる。
永世3年(1506)、長尾能景は越中守護畠山尚順の要請で越中へ出陣し、一向一揆と般若野(砺波市)で戦い、家臣もろとも壮烈な戦死を遂げた。
しかしこのとき、上杉房能が応援の兵を派兵しなかったことや、房能が上杉家の戦国大名化を目指し、在地領主の特権を制限しようとしたことから、長尾為景外豪族たちと修復不能の対立が生じた。
永正4年(1507)8月1日、長尾為景は上杉房能の養嗣子定実を擁立し、房能排斥のクーデターを起こした。房能が家臣の讒言を信じ.為景討伐の準備を進めた。此の事を知った知った為景は謀反に及んだという。為景は豪族掌握を背景に、国政に関して房能を無視することが多くなった。房能は守護職堅持の為景誅殺のため準備を始めた。房能の動きを知った為景は、先手を打って房能打倒に踏み切ったのではなかろうか。府中の為景の居館荒川館に兵を集め、荒川(関川)を挟んで対岸にあった上杉房能の守護館である稲荷館を急襲した。この時、守護方の豪族は地方に主力があり、府中の守護館で応戦する兵力は少なかった。
8月2日、上杉房能はわずかの兵を率い、関東管領である兄の上杉顕定をたよって関東に向って逃亡した。途中、安塚町(上越市)の直峰城に立ち寄ったが、為景軍を支えきれなくなり、松之山まで落ち延びた。
当時は、府中から三国街道に抜ける間道として、安塚~松之山~妻有の道が使われていた。逃れようという一心から眺望のきく矢筈の山頂に登った。だが、眼下に見る信濃川には為景の大群がひしめいていた。房能たちは、天水越えまで引きかえしたが、もうこれ以上は逃げ切れぬ・・・と観念し、8月7日未の刻(午後2時頃)、百余名全員が自刃した。このとき家臣山本寺定種、平子朝政らも討ち死にした。上杉房能は33歳であったといわれる。

明治の初めまでは、管領塚のそばに、鎧をたてかけた桜の木や供養のための草庵があったといわれている。上杉房能が文亀元年(1501)、費用の捻出に窮していた後柏原天皇御即位大礼費50貫を朝廷に献上したことにより、大正天皇御即位大典の大正4年(1915)に、房能は正四位を追贈された。この時これを記念して「管領塚」の碑が建てられた。
房能は管領ではなかったが、兄である関東管領上杉顕定と混同されて「管領塚」と伝えられたともいう。

房能の婦人綾子の方や女子どもは、定実の実家のある鵜川(柏崎市)の谷に落ち延びたといわれる。「綾子舞」として今に伝わる民族芸能は、婦人の形見の舞いといわれている。また、房能の娘に瘡気(腫物)ができたとき、松之山温泉で湯治させ完治した話は有名である。

為景は房能自刃の2日後、つまり8月9日に房能の葬儀を施行した。その際、栖吉城主(長岡市)の長尾房景も御香銭100疋を献上している。おそらく房景以外の豪族たちも香銭を献上したことであろう。房能の死で本庄時長、色部昌長、竹股清綱などの阿賀北衆は、弔い合戦を名目に兵をあげた。為景方の中条藤資、築地忠基などは本荘城(村上市)を攻めた。為景は中条、築地、安田長秀、志駄義春などに恩賞として所領を与え、豪族の掌握に力をいれた。本庄・色部・竹俣などはだんだん孤立化し、永正5年(1508)2月、岩代の芦名盛隆の仲裁で為景に降伏した。11月6日、幕府は定実を越後守護に任命し、為景に補佐させた。こうして房能打倒クーデター以来続いていた内乱に終止符が打たれたのである。



上杉顕定
享徳3年(1454)〔生〕-永正7年(1510)6月20日 〔没〕

(関東での顕定の活躍)

戦国時代の武将。山内上杉氏の当主。関東管領。通称四郎。法名可諄。
越後(新潟県)守護上杉房定の次男。文正1(1466)年に関東管領上杉房顕が古河公方足利成氏と武蔵の五十子(いかつこ)(埼玉県本庄市)で対陣中に病没したのち、室町幕府8代将軍・足利義政からも改めて房定の子を後継とするよう命じられ、わずか13歳で、越後から迎えられて山内上杉氏の当主となり、関東管領も務める。
執事長尾景信の死後、その子景春を差し置いて弟の忠景を執事に起用したため、文明8(1476)年に家臣の長尾景春が反乱を起こすと一時敗れて五十子から逃亡するが、まもなく同地を回復して攻勢に転じ、同10年には成氏と講和し、景春の居城の武蔵鉢形城(埼玉県大里郡)を落としてここに入り、反乱を鎮圧した。
こうして長年の内乱が終わると、顕定は鉢形を拠点として関東の政治を主導した。しかし自立の動きを強めた扇谷上杉氏(定正)と対立し、長享元(1487)年には山内・扇谷両上杉氏の戦闘が開始され、また伊勢宗瑞(北条早雲)をも敵としたことで、関東は再び内乱に突入した。
顕定は実家の越後上杉氏の協力を得て次第に扇谷方を圧倒し、永正2(1505)年には勝利を収めた。
こうして顕定は、複雑に混迷した関東地方に一定の秩序をもたらすことに成功していた。

(顕定の越後侵攻)

房能の敗北を知った兄の関東管領上杉顕定は怒りに燃えた。すぐにでも越後へ進撃したかったが、長尾景治の反乱があり動けなかった。顕定には越後に出陣する差し迫った理由がほかにもあった。関東管領上杉家支配の所領は上田庄(南魚沼市六日町)・妻有庄(十日町市)などにあり、それを為景の侵攻から守ることであった。
永正6年(1509)7月28日、顕定55歳の時、関東軍8千余騎を率い、越後へ向かった。すでに養子憲房が先陣として越後に乗り込み、反為景勢力の結集をはかっていた。
守護代長尾家の一族である上田長尾房長は顕定に味方し、坂戸城が関東軍の越後進駐の基地となった。
顕定の進軍を知った本庄房長・色部昌長・竹俣清綱などの阿賀北衆を始め定実の実家の上条定憲、上杉氏一族の八条修理亮・平子房長・発智六郎左衛門尉などは顕定に味方し、各地で為景軍を破った。
8月、定実・為景は敗れて西浜(糸魚川市)に後退し、更に越中に落ちのびた。しかし為景方の豪族は越後各地で顕定軍と交戦していた。山吉久盛は三条城に立て籠もり、日蓮宗本成寺の僧などと顕定軍に抵抗を続けていた。定実は幕府の援助を得て、越中・能登・飛騨・信濃の諸将と軍議し、羽前伊達尚宗の援軍を得て越後奪回をはかった。
房能の仇討ちを大義名分として越後に攻め入った顕定軍は府内を制圧した。しかし顕定の越後統治は非常に強硬で上手くいかず、国人の反発を受けた。
永正7年(1510)になって長尾為景らの反攻に遭う。4月15日、為景は軍を立て直して越中より佐渡に渡り、4月20日蒲原津に上陸した。為景上陸の報に接した顕定は、為景軍撃破の為、府中を進発した。6月6日、顕定方の栖吉城主長尾房景は為景方の蔵王堂城を攻略し、百余人を討ち取り数百人を信濃川に追い入れ勝利を得た。顕定は為景方の拠点の一つであった黒滝城を攻略し、八条修理亮・桃井一族に守らせた。ここで阿賀野川以南は三条城、護摩堂城以外、ことごとく顕定の支配下にはいったといわれた。
一方、為景は豪族たちを掌握し、越後奪回作戦に乗り出した。当初顕定方に味方していた武将が、形勢が逆転しそうになると為景方に寝返えった。寺泊を攻略し顕定軍を撃退した。寺泊は軍用港として重要な役割を持っていた。
為景軍は寺泊港を占領した後、椎谷に進撃した。6月12日、上杉憲房は激戦の末為景軍に敗れ、上杉氏の所領のあった妻有庄(十日町市)に後退して陣の立て直しをはかった。
6月19日、為景軍は柏崎に進出、先陣が既に府中に迫った。度重なる敗戦で顕定軍は浮足立った。顕定は一旦軍を関東へ後退させた方がよいと判断した。しかし敗走の行く手を遮ったのは、坂戸城主長尾房長である。房長も顕定方であったが、この場に至って寝返った。
永正7年(1510年)6月20日、顕定軍800余騎、為景軍500余騎が長森原で会した。両軍戦闘に及んだが、為景軍は顕定軍に押しまくられ、後退を余儀なくされたが、横合いから高梨勢700余騎が突撃してきた。顕定軍はこの新手に防戦する余裕がなく、全軍敗走し始めた。顕定は高梨政盛に敗北し、衆寡敵せずして自刃。顕定軍は力を落として総崩れになったという。
妻有庄に張陣していた憲房は顕定敗死の報に接すると、軍をまとめて上野国白井城に逃げ帰った。永正4年(1507)、房能が討死してから永正7年(1510)6月20日、顕定が同じく討死するまでの間、越後全体は修羅場と化した。

(越後で敗北以降の上杉家)

顕定には嗣子ができなかったことから、憲房と顕実の二人の養子がいた。
死後、顕定の遺言により顕実が関東管領を継いだが、越後から帰還した憲房が顕実と衝突して内乱を起こした。憲房は顕実と争って勝利し、永正9年(1512)に山内上杉家の家督を継ぎ、永正12年(1515)の顕実の死によって関東管領職をも継いだ、この争いによって山内家の衰退に繋がった。また、顕定が山内家の養子になって以来、緊密な関係にあった山内家と越後上杉家および長尾家の関係も断絶した。

13歳で関東に入ってから40年余の間、慢性的戦乱状況のなか、上杉氏の中心として秩序の維持に努めた力量は評価されるべきであろう。
  • 墓所
    〔所在地〕  南魚沼市下原新田  管領塚史跡公園