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戊辰戦争
高田藩関連人物
天保2年(1831)12月19日〔生〕- 明治22年(1889)7月19日〔没〕
戊辰戦争時37歳。
越後高田尾張町に生まれた。父は高田藩士直道(200石)。母はお澄で直本が7歳の時に病没した。東条琴台らに儒学をまなぶ。31歳の時目付役となり、次いで町奉行となった。元治元年(1864)、32歳の時、藩主榊原政敬に認められ御用人の職についた。
慶応2年(1866)、第二次長州征伐の際高田藩は小瀬川の戦いで長州兵に夜襲され、一敗地にまみれ、開幕以来の徳川家先鋒の面目を失っていた。川上は反撃ため藩主の名をもって軍令状を書いたが、家老たちの反対にあって実行できなかった。帰国してからも兵制改革を計画したが果たせなかった。
慶応3年(1867)10月、徳川慶喜による大政奉還の直後、朝廷は全国の諸大名を京都に招集した。藩主政敬は病をおして12月28日に出立するが、途中加賀小松で鳥羽伏見の戦いを聞いて引き返した。直本が政敬に進言して引き返したとされている。
慶応4年(1868)1月24日、高田到着後開催した重臣会議が紛糾する中、直本が主導して「哀訴諫諍(あいそ かんそう)」に藩論を収れんさせた。哀訴状・諌状とも直本が作成している。
慶応4年(1868)4月16日、古屋作左衛門が衝鋒隊500名余を率いて高田城下通過を求めてきた際には、川上は柿崎まで行って古屋に談判して、高田に滞在することなく通過することを許した。しかしこの件について、進軍してきた新政府軍に対して、申し開きを行った際、すべて川上直本が中心となり陳弁に当たったが、後後、この対応が高田藩を大いに苦しめることになった。また、新政府総督府が高田に駐留すると、直本が藩を代表する形で対応に当たった。
維新後川上直本は執政(権大参事)となり、学校設立、榊神社建設、百三十九銀行設立等々その足跡は極めて大なるものがある。
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