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戊辰戦争

新発田藩関連人物


窪田平兵衛
文化11年(1814)〔生〕- 明治12年(1879)〔没〕

名は武文、幼名を次郎といい、節斎と号す。新発田藩の宿老の家に生まれた。戊辰戦争時、新発田藩のとるべき道の選択に、もっとも深く関わったのが家老窪田平兵衛であった。窪田の人物評は、沈重精慮、よく大体に通じた、ともいい、広大の心を持ち、智あり才あり胆力もあった、ともいう。
天保6年(1835)、目付役
天保11年(1840)、寺社町奉行見習添役
弘化4年(1847)、用人
嘉永元年(1848)、父勉斎隠居の後、御記録書継御用掛
嘉永5年(1852)、ペリー来航の時、幕府から近海防御の命があると、新発田藩の軍務を主任して、隊伍の改編、武具の保善、大砲2門の急鋳などをおこなった。
安政元年(1854)、中老役
文久2年(1862)、仕置職(家老)に就任、特に藩侯溝口直溥の信認が厚かった。
慶應3年(1867)10月、朝廷と幕府より諸侯上京の命をうけたとき、新発田藩主溝口直正は襲封したばかり、幼少であったから、窪田平兵衛が名代として上京することになった。留守居役格寺田惣次郎が随行した。
12月5日、御所仮建所の日野大納言に伺候した。
12月8日、将軍職が停止され、徳川慶喜は大坂に去ったが、窪田は京に止まり、阿波藩など八藩に加わって、人心鎮定と公平正大の処置とを訴えた。
慶応4年(1868)正月3日、鳥羽・伏見戦が起こると、寺田を派遣し、天機を奉伺させている。
1月9日、慶喜の追討令が発せられる。歴史の流れは早く、情勢判断が難しかったが窪田は、藩士山中休助に江戸藩邸の家老溝口伊織と速水八弥に宛てて、新発田藩のとるべき方針をしたためた書を託した。
窪田の報告に従い、さっそく家老速水八弥が藩兵400人余を率いて2月22日から順次入京した。一方、江戸の藩主・藩士は相次いで国元へ引き揚げた。
藩の重臣窪田が京にいたからこそ、これだけ的確な情勢判断ができるのである。彼は上京以来、各方面に出入・交渉し、天下の大勢に通じた。
3月24日、京の藩兵は東征軍参加を命ぜられた。
4月12日、国元から帰郷した寺田惣次郎から国元の新発田は、反政府軍的な機運の強まる中で、切迫した情勢にあったと知ると、直ちに太政官に報じた。軍務局判事大村益次郎は、「事情はやむを得ない。心配には及ばぬ、今、戦争などになっては人数を損ずるだけで、無駄なことだ」と、新発田藩の立場に理解ある態度を示している。
5月27日、家老溝口内匠と山崎重三郎が江戸藩邸の残務整理を終え帰藩の途中、高田に抑留されたとの報をうけ、窪田は軍務局判事吉井幸輔に面談した。吉井はそれに対して「御家の義は、官軍方へ人数も差し出していて、勤王の誠意は透徹しているので、当今の事情はやむをえない次第である。朝廷において、いささかも疑念はない。越後出張の隊長へ両名を釈放するよう伝える」と答え、内匠らは釈放になって新発田へ帰った。
刻々変わる天下の情勢を逐一肝胆相照らす盟友上席家老溝口伊織へ緊密なる連絡の傍ら佐幕の海に浮かぶ勤王の孤島たる藩の状態を朝廷方へ陳情、窪田の働きかけにより、新政府では、新発田藩の立場に同情的であったといえよう。
窪田が京から帰藩したのは、8月に入ってからである。
戊辰戦後、明治元年(1868)10月には軍事総奉行に就任して、兵制改革をおこなった。
明治2年(1869)6月、藩籍奉還後は、溝口伊織景武と共に新発田藩大参事として藩政の中心にあった。


    • 墓所
      〔所在地〕新発田市中央町1丁目4−10 法華寺 ※GOOGLE 画像