▲TOPへ戻る

 

戊辰戦争

佐渡奉行所関連人物


中山信安(通称 修輔)
天保3年(1832)7月27日〔生〕~明治33年(1900)6月19日〔没〕

相模国で生まれる。父は幕臣中山信民。妻は薩摩藩士の嵯峨根季重の娘で幸子。幕末に幕府と薩摩藩の関係が悪化した際、離縁しようとしたが、幸子は餓死しようと食事を絶ったため、中山は離婚を取りやめたといわれる。
文久3年(1863)、清河平八郎らの浪士招集には取締下役を勤め、その後、神奈川奉行支配定番役や新徴組支配定役などを勤める。
元治元年(1864)5月、32歳の時、佐渡奉行支配組頭に任ぜられた。佐渡組頭・御蔵奉行・佐渡鉱山取締などを歴任。
慶応4年(1868)、鈴木奉行と共に、もう一人の組頭(組頭は二人であった)竹川龍之助が辞任したので、奉行の留守居役として、最高の責任者とった。
会津藩士と称する百人余りの水戸諸生党が乗り込んできた。中山組頭は佐幕派の「迅雷隊」を組織し、佐渡の守備は自分たちで行い、局外中立を守るとして、諸生党を立ち退かせた。
5月29日、薩摩藩の砲艦乾行丸と長州藩の砲艦丁卯丸が小木へ入港した。中山組頭に対し、乾行丸まで即刻出頭するように命令があった。
中山は、乾行丸に向かい、艦長の北郷作左衛門久信と丁卯丸艦長山田市之丞顕義と面会したが、保管している金銀のことに尋ねられたが、島内にはすでにないと答え、佐渡は局外中立を守るとして、会津藩から派遣された一隊も退去させたと話した。また、自分の妻は薩摩藩士の娘であると話すと、北郷は強圧的な態度を改めたという。
中山は新政府に対して統治者の派遣を要請したが、慶応4年(1868)7月3日、戊辰戦争が集結するまでの措置として、中山は御雇・佐渡国取締に任ぜられた。
明治元年(1868)11月、越後府権大参事奥平謙輔が佐渡に渡り、中山は金塊などを引き渡した。
明治2年(1869)2月13日、中山は佐渡取締を免ぜられる。
戊辰後、佐渡県が置かれ一時佐渡県権判事となる。明治2年(1869)2月22日 、組織変更によって佐渡県が廃止されたので江戸に帰る。
明治5年(1872)5月29日新治県参事、明治6年(1873)11月24日新治県権令、明治8年(1878)5月7日から茨城県権令を歴任する。茨城県権令の時、越権行為を問われ、明治10年(1877)6月30日付で免官となった。その後、長野県少書記官として復帰したが、明治14年(1881)1月18日、職をを辞し、以後復官しなかった。



鈴木大之進(のち重嶺 しげね)
文化11年(1814)〔生〕~明治31年(1898)11月26日〔没〕

旗本中川忠英の家臣小幡多門有則の次男として江戸駿河台に生まれ、鈴木家10代の鈴木重親(半治郎)の養子となった。
天保2年(1831)に養父が没すると家督を継ぎ、小普請入りする。
天保4年(1833)、将軍徳川家慶御台所付の広敷伊賀者となる。
天保12年(1841)8月25日、江戸城内武術見分の際に「つるぎだち鞘にをさめし世になれて みがかぬわざのはづかしきかな」の歌を詠み、これが老中水野忠邦の目に留まり、同年10月徒目付に栄進した。
天保14年(1843)勘定吟味役改役並に一時なるが、再び徒目付となり、再び天保15年(1844)には勘定組頭その後、勘定吟味役となった。
元治元年(1864)7月2日勘定奉行となるが、7月23日に槍奉行となり、8月免ぜられて勤仕(ごんし)並寄合となった。
慶応元年(1865)9月13日に最後の佐渡奉行となり、10月28日、家族を同行し江戸を出発、11月14日越後出雲崎に着いた。悪天候のため1ヶ月も船待ちをすることになった。12月14日、悪天候の中船出を命じ、小木湊に着いた。
慶応3年(1867)12月、鈴木は諸大夫に任ぜられ兵庫頭と称する。
慶応4年(1868)3月18日に、会津藩士来5人が奉行所に出頭し、鈴木に代わって組頭中山修輔に対応させた。会津藩士は奉行所で保管している”あり金”を引き渡してほしいと要請したが、中山は金銀は既に江戸に向かって送付した旨を話した。鈴木は、会津藩に対し、佐渡を戦場とすることはできず、協力はできないと書面で通達した。
北陸道鎮撫総督から、鈴木奉行に対し、直ちに越後高田まで出頭するようにとの通達があった。3月23日、奉行の代理として組頭竹川龍之助・広間役岩間郁蔵・目付役山田新八の三人を高田へ向かわせた。しかし、すでに総督一行は江戸へ出発した後であった。そして置手紙に「すぐ後を追ってくるように」とあったので、3人は北国街道を追い続けたが、追いつくことができないまま、4月8日江戸に到着。翌日、総督府に出頭して「佐渡が戦場とならないよう、佐渡は当分、今まで通りの制度にしておいてもらいたい。」と要請した。
鈴木は幕府の奉行職がこのままいたのではかえってよくないと判断。最も信任の厚い組頭中山修輔に後事一切を託し、組頭竹川龍之助を同道して江戸に上ることにした。
4月24日、相川町の奉行所を出発し、小木港から出雲崎港へ渡った。
閏4月14日、江戸に着き、幕府に出頭、佐渡の事情を報告した後解任された。
慶応4年(1868)閏4月16日に御役御免となったのち、田安徳川家の家老となり、新政府との交渉役となった。
明治新政府となってからは重嶺と改名する。
翌明治2年(1869)に新政府の開拓少主典となり、明治4年(1871)浜松県参事となり、同年12月8日に再び佐渡に渡り、相川県参事となり、明治6年(1873)従六位に叙任された。明治8年(1875)相川県六等判事を兼任し、同年権令に昇進し正六位に叙任された。
明治9年(1876)4月廃県により職を辞、し従五位下に叙せられた。
明治24年(1891)2月23日に帝国大学旧事諮問会の要請に応じ、幕府の財政や勘定所について詳細な証言をしている。
歌を村山素行および伊庭秀賢に学び、その友人・門人などは、村山・伊庭両氏の年忌に「志能夫具佐」を出帆した。また穂積重嶺と称し、明治三十六歌仙の一人に数えられている。