戊辰戦争
桑名藩関連人物
弘化2年(1845)9月29日〔生〕- 明治19年(1886)1月22日〔没〕
正義の先祖は伊賀忍者の頭領服部半蔵正成で、徳川家康に仕えていたが、その子正重は桑名の初代藩主松平定綱に従った。子孫は代々服部半蔵を称し、桑名藩久松松平家の家老職を勤めた。
正義は温厚篤実な性格であったという。慶応元年(1865年)、家督を継ぎ、700石取りの家老となる。この時、藩主松平定敬は京都所司代として在京していたため、正義も付き従って京都で定敬を補佐する。鳥羽伏見戦では軍事総宰として服部大隊を率いて参戦した。
藩主定敬が柏崎に向かうと、吉村権左衛門とともに柏崎に赴く。当初、恭順派として行動したが、藩論が抗戦に決すると、軍事総宰職を引き受け、鯨波の戦いでは、本陣で指揮した。
慶応4年(1868)9月26日に庄内にて降伏。謹慎が解かれた後は、桑名藩大参事となる。明治10年(1877)西南の役には、桑名の旧士族を多数伴い新選旅団中隊長として出征する。三重県第一・第三区長を務める。
- ❏墓所
〔所在地〕三重県桑名市萱町74−74 日蓮宗 顕本寺
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天保9年(1838年)1月26日〔生〕- 明治28年(1895年)7月19日〔没〕
戊辰戦争時30歳。立見鑑三郎の兄。寒河江の戦いで戦死した鎌五郎は末弟である。
鯨波の戦いでは神風隊の隊長として奮戦し、その後も北越戦争で活躍するが、庄内で降伏。維新後は桑名藩権大参事、県会議員を経て初代桑名町長になる。
? - 明治11年(1878)8月26日〔没〕
抗戦派の中心人物であった。定敬からの指示で、宇都宮にあった抗戦派の藩士たちを柏崎に向かわせるとともに、恭順派が主流を締めていた柏崎陣屋の状況を覆そうと画策した。
藩主定敬に従って柏崎に到着した恭順派の家老吉村権左衛門が、山脇隼太郎と高木剛次郎の二人によって殺害された。これは山脇十左衛門が定敬の意を受けて、息子に命じたものとされている。
桑名軍の軍事奉行として、河井継之助や会津藩佐川官兵衛とともに北越戦争を主導した。維新後は、桑名藩大参事となる。
- ❏墓所
〔所在地〕東京都豊島区駒込5丁目5−1 染井霊園
嘉永2年(1849)〔生〕 - 明治38年(1905)5月6日〔没〕
桑名藩士山脇十左衛門(正軌)の子に生まれ、藩主松平定敬の小姓となる。
慶応4年(1868)に戊辰戦争勃発時、江戸から父に同行して柏崎に到る。父十左衛門に秘かに呼ばれ、吉村権左衛門を誅殺せよとの藩公の内命を伝えられる。
隼太郎は仲の良い友人の高木剛次郎貞作(御小姓、22歳)に事情を打ち明け応援を求めた。貞作も喜んで共に大役を引き受けた。閏4月3日の戌の刻(午後9時頃)、御座所勝願寺より大久保陣屋へ帰る途中の、吉村作左衛門と従者の小者が淡島小路の坂道へと差しかかった際、誅殺。
二人はその夜のうちに柏崎を逐電する。水原にある会津軍時局に出頭し、会津への入国を乞うが、会津は国法を犯した重罪人をかくまうことはできないと拒んだ。
以後二人は、古屋佐久左衛門の衝鋒隊の指図役として北越各地を転戦した。5月27日、小栗谷の戦で薩摩兵と斬り合いになった時、負傷し左手小指を失っている。8月、会津で再び桑名隊に合流し庄内で降伏する。
明治2年(1969)5月、藩主定敬を追って蝦夷地へ渡る。箱館に着くと、土方歳三配下の新選組に入隊し、箱館戦争に参戦する。弁天台場で降伏。明治5年(1872年)に釈放後、二人は敵討ちの遺風も残っているため、桑名へは帰らず、家老粛清の追及を逃れる為アメリカ合衆国に留学、横浜から渡米することになる。帰国後の明治8年(1875年)、隼太郎は翻訳係として三菱社に入社。以後、郵便汽船三菱会社や三菱造船所の経営に携わる。
墓所は父の墓と並んで、東京都豊島区の染井霊園にある。
- ❏墓所
〔所在地〕東京都豊島区駒込5丁目5−1 染井霊園
文政3年(1820)〔生〕- 慶応4年閏4月3日(1868)〔没〕
吉村又右衛門宣充を祖とする吉村分家で、桑名藩家老である半右衛門宣陽の長男として生まれる。慶応元年(1865年)、家督を継ぐ。800石。新陰流の達人で藩内屈指の腕前であったという。戊辰戦争時48歳。
慶応3年(1867年)8月16日の藩政改革で家老職が廃止、代わりに御政事惣宰(江戸家老)に任命される。行政面での最高指導者であった。早くから、恭順を主張していたが、徹底した佐幕思想を持つ定敬の考えを変えるまでには至らなかった。
また、権左衛門自身、先祖の又右衛門の手柄を鼻にかけたので、藩士の反感をかい、定敬にも疎まれていた面もあった。
柏崎に向かった藩主定敬の後を追い、恭順派の藩士を引き連れて、慶応4年(1868)4月4日、柏崎に到着する。抗戦に傾いていた定敬を説き伏せ、柏崎陣屋は恭順派が主流となった。
徹底抗戦を企図する定敬は側近の家老山脇十左衛門を招き、抗戦派の藩士を柏崎に集めることと、吉村を誅殺することを命じた。
慶応4年閏4月3日(1868)21時頃、雨中、定敬の御座所勝願寺より大久保陣屋へ帰る途中、淡島小路の坂道へと差し掛かる付近(※地図 ※ストリートビュー)で、山脇十左衛門の息子隼人と高木剛次郎によって、闇討ちにより刀を抜く間もなく殺害された。
権左衛門の遺骸は実弟が引き取り、柏崎の日蓮宗妙行寺に葬った。のちに、妻子が江戸から柏崎へ訪れ、そのまま永住して菩提を弔った。
- ❏墓所
〔所在地〕 新潟県柏崎市西本町1-13-1 妙行寺
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? - 慶応4年(1868)6月11日〔没〕
戊辰戦争時29歳。
鳥羽伏見の戦いに参戦する。松平定敬が江戸で編成した桑名士官隊に参加。宇都宮戦争の後、他の主戦派の藩士と共に柏崎に移る。常に最先頭に立って勇戦し不死身と言われた男であった。
致人隊副隊長に任じられ、鯨波戦争で、隊長の松浦秀八が負傷離脱した後は、隊を引き継ぎ活躍。
5月27日、与板方面での戦いで、長府報国隊隊長勝原国介と一騎打ちとなったが、これに勝利した。 6月11日夕刻、米沢藩二小隊が与板本道方面に出兵し、隊長芋川ら数名が桑名致人隊の大山陣まで前線視察にやって来た時、案内した馬場三九郎の顔面に流れ弾が当り戦死。翌日、町軽井の常禅寺で葬儀が執り行われた。
- ❏墓所
〔所在地〕 新潟県長岡市寺泊町軽井1953 常禅寺
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文政12年(1829)12月〔生〕 - 明治39年(1906)〔没〕
戊辰戦争時39歳だっといわれる。大目付。小寺家の二男として生まれ、松浦家の養子となる。桑名藩軍事奉行小寺新吾左衛門は実兄である。幕府の昌平黌に共に学んだ秀才だった。
宇都宮で戦ったのち、柏崎に閏4月12日に到着し、致人隊の隊長として戊辰戦を戦った。閏4月27日、鯨波の戦いで大腿部に貫通銃創をうけ負傷。
6月15日、傷が癒えて、兵の拝借の為会津へ向かう。7月9日、兵50人を引き連れ帰陣。
庄内大山で降伏し、鶴岡の布袋屋金右衛門宅で謹慎。明治3年(1870)12月桑名藩小参事となり、同5年(1872)免職。その後、松平定敬の家令となったり、三重県立病院に努めたりした。
弘化3年12月2日(1847年1月18日)〔生〕-明治41年(1908)7月21日〔没〕
伊勢国桑名藩主。京都所司代。
3月29日、横浜からプロイセンの船で新潟湊経由で、この日柏崎勝願寺に入り謹慎する。
閏4月3日、恭順派筆頭家老吉村権左衛門を抗戦派藩士に命じて殺害させる。
閏4月16日、桑名藩論を抗戦に統一し、新政府軍と戦う態勢を整えたことから、加茂市川家に移る。20日間滞在する。
5月1日、鯨波の戦いに敗れた桑名藩兵が加茂大昌寺に到着し、本営とする。
5月初め、定敬は会津領津川(現新潟県津川)の新善光寺に移る。そこで2か月間滞在する。
7月6日、会津城下に入る。宿舎は城外の光徳寺。
8月23日、新政府軍が会津城下に入ると、定敬は兄容保と別れ、会津から米沢に向かう。米沢藩から入国を拒否され、9月12日に仙台に到着する。その後一兵卒に扮装し、名を一色三千太郎と改めて榎本武揚と共に箱館に渡った。
桑名藩本国の家老酒井孫八郎が藩の存続のため定敬の身柄を新政府に差し出す必要があると判断し、説得のため函館に乗り込む。
明治2年(1869)4月になって新政府軍が五稜郭に迫ると、酒井は定敬を強引に連れ出して船に乗せ、東京に連れ戻って出頭させようとした。しかし、定敬は上海にまで密航逃亡したが、路銀が尽きて外国への逃亡を諦め、5月20日新政府にようやく降伏した。
≪松平定敬 関連地≫
- 🔶加茂市川家
加茂の大庄屋で松平定敬が宿泊。建物はなく顕彰碑が建つ。
〔所在地〕新潟県加茂市本町2−18
- 🔶新善光寺
松平定敬が会津城下に入るまで宿営した。境内には会津白虎隊士藤森八太郎の墓がある。
〔所在地〕新潟県東蒲原郡阿賀町津川3313
弘化3年(1846)1月5日〔生〕 - 明治36年(1903)6月17日)〔没〕
桑名藩士石井文弥と母いつの長男として江戸で生まれる。安政元年6月に家督を嗣ぐ。
剣は直心影流。勇猛な性格であった。
御馬廻り、禄高二十九石三人扶持。慶応4年(1868)1月に戊辰戦争が始まると、大鳥圭介率いる旧幕府軍に投じた。
4月19日、秋月登之助率いる旧幕脱走軍に属し、宇都宮城攻城戦で土方歳三の下で奮戦したが腰を負傷。
柏崎では桑名藩の松浦秀八率いる致人隊に所属し、閏4月27日の鯨波村戦闘で臀部に銃創を受け、桑名領加茂に後送された。
5月1日加茂の本営となっている市川家に到着した際、藩主松平定敬は出発した後で不在であったが、治療代として金三百疋と白銀十枚を賜る。
6月20日に傷も癒えて復帰する。致人隊副隊長馬場三九郎が戦死すると、代わって副隊長に就任。
8月4日、加茂まで撤退した桑名軍に、新政府軍は10倍の人数で攻勢をかけてきた。勇次郎は奮戦したが左足の股に銃創を受ける。8月5日、会津領津川に向け後送される。
会津戦争で籠城戦が始まると同藩士谷口四郎兵衛と共に藩主・松平定敬を護衛して仙台へ退去した。
仙台で榎本武揚艦隊と合流して蝦夷地渡航を決意し、土方歳三配下の新選組に入隊する。箱館戦争では新選組分隊差図役として活躍したが、明治2年(1869)5月15日、弁天台場にて降伏。
津軽藩御預け後、東京で旧藩に引き渡される謹慎となるが、謹慎中に書き残したと思われる『戊辰戦争見分略記』を著した。
謹慎が解かれた後は、三重県職員となり勤務した。後年、新潟県柏崎市に移り住んでいる。明治36年(1903)に死去。享年58。柏崎市の極楽寺(桑名藩御陣屋の近くの寺)に墓がある。
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- ❏墓所
- 〔所在地〕 新潟県柏崎市若葉町2-1 極楽寺
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