乙宝(寶)寺 ( おっぽうじ ) Oppoji temple 胎内市


大化元年(645)の大化改新によって、律令制に基づく中央集権国家づくりが目指され、朝廷はその力を誇示しようと、辺境の地へ拡張政策取るようになり、蝦夷の土地を侵略し支配を強化していったことから、蝦夷との間に衝突が生じた。
越の国でも大化2年(647)に、渟足柵を、翌年大化3年(648)、磐舟柵を置き積極的に北辺の地を開拓すべく植民政策を打ち出している。
この地方は、蝦夷を仏教によって教化し、大和朝廷に同化して、民心を掌握してくための一大拠点とされたのである。近くには、聖徳太子の言い伝えの残る、日本国山もある。
寺伝によれば、奈良時代天平8年(736)創建。聖武天皇の勅令により行基・婆羅門両高僧が建立。行基は大日三尊を刻み、婆羅門は釈尊左眼舎利を安置した。右目は中国の甲寺に納めたことから、左眼を納めた寺を乙寺と名づけたという。後に「寶」の文字が付け加えられ「乙寶寺」になった。また「今昔物語」や「古今著聞集」にみえる「写経猿」の説話にちなんで「猿供養寺」とも呼ばれる。
当時の聖武天皇の治政下では、長屋王の変が起きるなど、朝廷内は混とんとしていた。また、都には疫病がはやり、天平9年(737)には天然痘の大流行となって、民心は定まらなかった。天平13年(741)、聖武天皇は全国の国府に国分寺を建立するよう詔勅を出している。乙宝寺はそれに先立って建立させた。仏教に深く帰依した聖武天皇が、仏力で北辺の地を守り、国家の安寧をはかろうと、国分寺に勝るとも劣らない大寺院を建立したと思われる。

その後、朝廷から保護を受けた寺院が、朝廷の力が弱まるにつれて、没落の憂き目を見るが、乙宝寺もまた例外ではなかった。
乙宝寺に日が当たるのは、室町時代になってからである。
大永2年(1522)三浦和田氏の系譜をひく中条氏の一族、黒川館主黒川盛実が大檀家となって、一門は乙宝寺再興に尽力することになり、ここに、名刹、乙宝寺は現在見るような規模に再編成され復興した。
黒川氏は、居城近くの羽黒権現を崇め十二天(中条氏の氏神)信仰に厚く、乙宝寺もまた領主の信仰に影響され、羽黒山の修験道が深く浸透し、天台宗から真言宗智山派への転身を見るのであった。乙宝寺の寺宝であり新潟県文化財に指定されている金銅製華鬘と玉幡は黒川氏の寄進によるものである。
室町時代後期には、上杉氏が寺領300石を寄進し保護の手を加え、近世初期には、村上城(村上市)主村上頼勝の帰依が厚かった。
慶長19年(1614)、村上藩二代目村上忠勝は京都住小島近江守藤原吉正を棟梁として、三重塔を建立、寄進した。しかし、その後村上氏が改易となり、元和6年(1620)、村上城主堀直竒のとき完成している。現在の姿は昭和26年(1951)~28年(1953)に解体修理し往時の姿に復元したものだ。

猿伝説が、 平安時代後期の1100年代に成立したとみられる説話集「今昔物語集」に記されている。それによると、その昔、裏山に住みつき、お経を聴きに寺の本堂にやって来る夫婦の猿がいた。あるとき、2匹の猿は木の皮を持ってきて、身ぶり手ぶりで写経をせがみ、住職がそれに応じたという。
猿の夫婦は冬になると突然姿を見せなくなった。心配した住職が裏山に探しに行くと、雪の中で抱き合うように2匹の猿が死んでいた。その手には木の皮の写経が握りしめられていた。住職は猿塚を築き、写経を寺宝としたという。
塚山の上に石碑が置かれた猿塚がある。写経は大日堂の地下にある宝物殿に展示されている。

伝説には続きがある。猿が死んでから何十年もたったある日、写経をしたいという夫婦が寺を訪ねてきた。ところが写経は途中で進まなくなり、「私たちはお経を聴きに来た猿の生まれ変わりです」と住職に打ち明けた。猿の夫婦が木の皮に写経できずに死んだ残りのお経を住職が唱えると、人間となった猿は全ての写経を無事終えたという。


❏〔所在地〕 新潟県胎内市乙1112
❏〔アクセス〕
  • 🚅…JR羽越本線「中条駅」より車で約15分
  • 🚘…日本海東北自動車道「中条IC」より車で20分
❏〔宗派〕 真言宗智山派
❏〔見どころ〕
  • 🔸《仁王門》
    延亨二年(1745)に改修。
  • 🔸《弁天堂》
    県の指定文化財。寛文8年(1668)の建築で、堂内に桃山期風の一間厨子が置かれている。
  • 🔸《大日堂(金堂)》
    乙宝寺の中心堂宇。昭和12年に焼失。現在の御堂はその再建で、昭和58年に竣工した。鉄筋コンクリート造の建物。
  • 🔸《三重塔》
    国指定重要文化財。村上城主周防守忠勝公の寄進により、京都から招いた小島近江守藤原吉正を棟梁として、元和六年(1620)に完成した。
  • 🔸《観音堂》
    享和3年(1803)造営。本尊は如意輪観世音菩薩。
    松尾芭蕉も奥の細道で参拝し、観音堂登り口に句碑がある。
    「うらやまし浮世の北の山桜」
  • 🔸《六角堂》
    延亨20年(1735)に再建された。言い伝えで、お釈迦様の左目の舎利が出土したところ。地下には仏舎利を祀った五重塔の心礎が安置されている。この御堂は結びの堂とも呼ばれ、良縁成就の御利益がある。

  • 🔶寺宝
  • 🔹《乙宝寺縁起絵巻》
    全長14.54m、文化7年(1810)谷文晁一門の作で、寺の由来が描かれている。
  • 🔹金銅製華鬘(けまん)
    高さ24cm、幅24.4cm、団扇形の金銅板に唐草を透かし彫り、大永4年(1524)平朝臣盛実の刻銘がある。

  • 🌸〔桜の種類〕 きのとざくら
    〔本数〕 1本
    〔見頃〕 5月上旬
    花梗(花のつく、短い柄の部分)が5~6センチと一般的なサクラより長く、垂れ下がる大輪の花弁が特徴だ。

    🌸〔桜の種類〕 ソメイヨシノ
    〔本数〕 20本
    〔見頃〕 4月中旬~4月下旬


  • 紅葉
    〔見頃〕 11月上旬
    赤く染まったモミジの下から仰ぎ見る三重塔は圧巻

月期間 期間 きのとざくら→

❏〔周辺の観光施設〕

乙宝寺まんだら祭り

乙宝寺に平安時代から伝わる千体以上の仏が描かれた「蔓陀羅絵」で、縦約2m、横1.5mの掛軸2枚1組で、悟りの世界を表している。年に一度ご開帳される。人々の願いがこめられたごま木を焚き、災難除けのお祈りをしたり、無病息災を祈り、あられまきなどが行われる行事。


  • 〔開催日〕 毎年2月6日


八所神社

乙宝寺が建立される前、村には川の怒りを鎮め、恵みに感謝する川の神が祀られていたという。
古くから祀られていた産土神は、大同2年(807)創立、市川八所大明神と称し、奥山荘黒川条内乙郷44カ村の総鎮守として創建された。
その後、元和6年(1620)乙宝寺大日堂の南側の小高い丘に建立され、寺宝寺と村の両方を守る神になったという。
ご神体として8体の仏像を祀っていたが、神仏分離令で御祭神として宮中の神殿に祭られた8柱の神と同じ神を選び、八所神社に改称。神明宮の合祀で天照大神が加わり、現在は9柱の神が祀られている。
平成5年(1993)3月30日、県有形文化財に指定されている。

〔御祭神〕天照大御神 ・ 高御産靈神 ( たかみむすびのかみ )神産靈神 ( かみむすびのかみ )玉積産靈神 ( たまつめむすびのかみ )生産靈神 ( いくむすびのかみ )足産靈神 ( たるむすびのかみ )大宮比売神 ( おおみやひめのかみ )御食津神 ( みつけのかみ )事代主神 ( ことしろぬしのかみ )

































乙宝寺 黒川城跡 黒川館跡 磐舟柵址 八所神社 三重塔 手水舍 仁王門 きのとざくら 乙まんじゅうや