亀田縞 Kamedajima 新潟市



亀田縞は亀田町(現新潟市江南区)に昭和初期まで産出していた綿織物。布面に筋を並列させた模様があったことから命名された。
亀田縞の起源は、1696年(元禄9)。新発田城主の溝口氏が農閑期に仕事がない農民たちに「機を織ってはどうか」と発案したことからはじまるとされる。
享保年間(1716-1735)には、袋津村を中心とする近郊の農民が自製の綿糸による木綿布を亀田の市日で販売していたといわれる。
農民たちは、北限の綿産地であったこの地に、綿花を栽培し、紡ぎ、糸にして、藍に染めて、織る、と言う野良着作りの技術をしだいに習得していった。
亀田の袋津を主とした地域の農民の水耕作業は、「日本で最も過酷な農作地」と言われ、田に腰まで浸かりながらの劣悪な作業環境であったので、蛭や虫が嫌う藍を染料とした亀田縞が重宝された。

自給用であったため、生産量は少なく製品は必ずしも上等ではなく規格も不均一だが、安くて丈夫であったため農家衣料として年々需要を増し、品質にも改良を加え信用を高めた。

やがて冬期間の副業にまで進み、織機も腰機から1808年(文化5)に長機、1897(明治30)高機、1907年(明治40)に足踏み機、さらに大正に入って力織機と、次々に導入され、その生産形態も半農半機の副業から問屋制家内工業による事業化へと展開した。亀田商人によって、農婦の作業着としておもに東北地方へ市場が拡大し出荷された。

生産量にも浮沈はあるが、1897年(明治30)ごろは50万反にのぼり、また明治40年代には亀田織物同業組合や染織講習所を設立するなど、亀田地方は織物産地としての基礎を固めている。
さらに化学染料を採用し、従来の藍染による紺縞、紺無地のほか夜具地、白格子、前掛けなどとその品種を加えた。大正期にかけて亀田縞は660軒の関連業者で全盛期を迎えた。

しかし、1938(昭和13)年に戦時指定生産が始まり、綿糸の入手が難しくなり、機屋は激減。和服から大量生産の洋服へと移行が始まったことから、野良着の需要も衰退し、300年続いた亀田縞生産も終息した。
亀田に残った2社の機屋は、亀田縞から離れて、国内外のブランドへ生地を出荷することで、経営を継続してきた。

21世紀にはいって、「亀田縞」復活のプロジェクトがスタート。郷土資料館より「亀田縞」の古布資料「縞見本帳」が発見され、徹底的に分析、古布を忠実・詳細に再現し、2005(平成17)年に亀田縞の再興をと地元の二人の職人が伝統を引き継ぎ復活させた。
さらに、再現した生地に天日干し加工を施し、より柔らかく肌触りのいい綿織物に仕上げた。
農家に親しまれた野良着や、現在生産されているシャツやエプロン、小物など200点を超え、多彩な製品となって、着心地がよく、使うほどに味が増す亀田縞の魅力は、国内外から注目を集めている。

☯2019年12月、第三セクター・えちごトキめき鉄道が、人気リゾート列車「雪月花」の乗務員制服を県産の生地や工芸品を用いて新調する。アテンダントが食事を提供する際に着けるエプロンは亀田縞(じま)。
☯2020年2月4~6日、亀田繊維工業協同組合はイタリア・ミラノで開かれる生地の国際見本市「ミラノ・ウニカ」に初めて出展する。近年のファッション業界では、天然素材など環境に配慮した素材が人気で、亀田縞には追い風が吹く。


亀田繊維工業協同組合
〔所在地〕新潟市江南区曙町3丁目6−1 〔問い合わせ先〕 025-381-4105
〔ウェブサイト〕 https://kamedajima.net/


立川織物
1884(明治17)年創業の老舗。立川織物が手掛ける「横縞」はアレンジがきき、希望の太さ、間隔でオリジナルの縞を作れる長所がある。その特性から、独自の縞柄をオーダーするクリエーターも多い。
〔所在地〕新潟市江南区袋津3丁目1−52 〔問い合わせ先〕 025-381-3067
〔ウェブサイト〕 http://kamedajima-tachikawa.jp/company/


中営機業(有)
「縦縞」は亀田縞のベースという考えから、製造工程が難しい縦縞を織る。有志によって「亀田縞応援隊」が発足。地元文化を再現しようと綿の栽培や綿摘みなどを行っている。
〔所在地〕新潟市江南区曙町1丁目8−18 〔問い合わせ先〕 025-381-5163
〔ウェブサイト〕 http://www.kamedajima.com/











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